5-2.湯番

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5-2.湯番

「んっ」  太陽が天中を過ぎた頃、瑠璃宮ではずっと眠っていた主が身じろぎをして目を瞬かせた。目を覚まされたようだ。  側に控えていた侍従が覚醒しきるのを待って声をかける。 「宮様、お加減はいかがでございますか?」  同時に側仕えが用意している果実水が主に供される。寝起きの身体を驚かせない冷たすぎず、温すぎずの絶妙な温度で用意したものだ。  主はまだ恩寵の疲れを残して、身体重げに身を起こそうとされた。側仕えのジダはその身体を支え、引き起こし、その背をもたせ掛けることの出来るクッションを手早く背中に詰めていく。  ほぅっと一息をつきながら主は背をもたせかけ、やっと果実水を口にされた。  白い喉がコクリと動いて、水を嚥下される。まだ夢見心地の御様子だ。  主に声を掛けるのも掛けられるのも侍従以上の立場がなければならない。中級使用人の側仕えであるジダは黙って主の傍に付かせてもらう。 「しんどくはございませんか?」 「…少し…身体が重い…頭も…」  侍従にお答えになる気だるげな声がいつもより掠れておられる。喉が弱っておいでのようだ。 「少しいつもよりお疲れが濃いようですね。」  寝起きにさっぱりとして頂くために、熱く蒸した布でお顔を拭わせて頂く。肌の薄い目の周りは擦りすぎないように殊更慎重に拭っていく。濃紺の瞳に白金の睫毛が映えて、美しい。  しかし余程泣かれたのか、今日は目蓋が痛々しく腫れておられる。  熱い蒸し布と冷水に付けた布で交互に目蓋の腫れをとっていく。  深く寝入られたまま宮にお戻りになった際に、身体を清拭させて頂き、水の神官と共にお怪我はないか確認はしている。  ご尊根の鈴口が赤く腫れておられるが、傷にまではなっていないとのことだった。体内のご恩寵の証も神官がふやかした海綿で吸い上げて、身体を壊されないようにしている。  ただ、外からお世話しているだけでは分からない不調もあられるかもしれないので、主の御様子を注意深く見守ることは怠れない。  側仕えは侍従の指示に従うだけだが、この後はきっと喉に効く薬湯も用意しておく必要があるだろう。加えて、御昼食を召し上がられたら、急ぎ皇宮に参内される為の整容もして頂けかなければならない。先程、皇命が有ったというから、お疲れも濃い所忍びないが、瑠璃の宮様にはゆっくりとお休み頂くこともままならなさそうだ。  円滑に整えさせて頂き、出来るだけゆっくりして頂ける時間を確保する為に、ジダは先々の段取りを想定して、上級使用人の侍従に指示を仰ぐべき事柄と下級使用人の下男に指示すべき事柄を頭の中で整理しておく。 「宮様。お目覚めのところ恐縮でございますが、皇より日の入りの頃に皇の宮に参上するようにとお召しでございます。」  主の目覚めを知らされた侍従長が皇命を携えてやってくる。日の入りの頃というのは閨に上がるには早い時刻だ。すでに正午をだいぶと回ってしまっているため、残された時間はそれ程ない。  侍従長と入れ替わりに、寝台の上に果実を中心に昼食を食事係が手際良く並べていく。  ジダは主が食事を召し上がられている間に、湯殿の準備を遺漏なく整える。ジダは中級使用人の中では、筆頭側仕えであり、側仕えの用務全てを監督する立場にあるが、筆頭となる前から自身の役目として、湯殿の番だけは他の者に任せないで来ている。  瑠璃の宮様が皇国に来られて、最も困っておいでだったのが入浴であられた。使用人達の前で衣服を脱いだり、触られることを非常に負担に思っておいでだったり、湯に浸かる習慣がお有りでなかったために戸惑いもお強かった。  そのため、ジダが一人で浴室に侍り、全てのお世話をさせて頂いた。多くの人がいたり、見知らぬ顔が有ったりすると、主が緊張されるからだ。  湯に浸かることに慣れて来られると湯の中でお寛ぎになられるようになり、その安らぎの時間を守るために湯番は尚更、ジダが担当すべしと周りもジダ自身もそうなった。  今日も湯に浸かるとほっとしたような表情を宮様は浮かべられる。うつらうつらとされる主が溺れないようにジダの腕にその小さな頭を凭せ掛けさせて頂き、暫し、ゆっくりしていただく。眠りの邪魔にならないように、湯の中で全身を柔く揉み解しさせて頂く。最初は触れるとびくりと身体を強張らせておられたけれど、今は微睡みながら、ジダの腕に全身を任せてくださる。  湯番として、これ程光栄なことはない。  ジダは地方の下級貴族の次男だ。家督は長男が継ぐため、ジダは外に出されたが官吏になるには伝手と知性が足りず、どちらかというと体を動かす方が好きだった。かといって穏やかな気質は軍人向きでもないということで、宮城の側仕えとなった。堅実な性格で下積みから着実にこなしていったが、あまり主張も強い性格でもないために、それほど出世もしないという可も不可もない人生だ。  いやむしろ命じられた仕事を文句もなく黙々とこなす性質のせいで、損な仕事を回されることも多かった。年中暑い皇国において、湯番は不人気な仕事の一つだ。湿気と熱気の立ち込める湯殿に侍り、主人の全身に香油を塗り込めていく仕事は、湯番自身が滂沱の汗をかき、そのまま水風呂に飛び込みたくなる類の仕事だ。その湯番をいつも押し付けられる男、それがジダである。  陽の季節では湯番になった者が風呂場で昏倒することも実際にあり、暑さに強いのか倒れたこともないジダは、同僚から押し付けられても仕方ないかと引き受けてしまっていた。もちろん、好んでではない。  暑い上に、裸になるため神経質になる貴人は多い。洗い方が悪い、髪が引き攣れたと叱責を受けることも多い。それでも、任せられたら、仕事は黙して完遂する、というのがジダであった。  使用人は出しゃばらない者が求められるため、ジダの文句も言わず黙々と仕事をこなす姿勢は上司からの信頼はそこそこ篤く、だからこそ厄介な客を世話せざる得ない外宮の貴賓室付きの側仕えに指名されていた。つまり厄介な仕事向きとしての信頼が篤い、上司からも貧乏籤を引かされる男がジダなのだ。  外宮では様々な国から国賓を迎えるため、その国の習俗や禁忌についてよく把握しておかねばならない。使用人の振る舞いで外交上の失態になることもある。時に無茶な要求をする客に振り回されたり、使用人に暴力を振るう類の客で嫌な思いをすることもある。しかしジダはランス国からの王子がやってきて、違った意味でこれほど世話に困るという境遇に陥るとは思っていなかった。  横暴な客の場合はひたすら要求に応えるために走り回らねばならないが、ランスの御方様は何時間でも身じろぎ一つせずに座りっぱなしで要求がない。湯浴み、食事も手を出すと身を強張らせて、世話を受け付けようとしない。一通り身の回りのことは出来るから世話は不要と送ってきた付き人からの引き継ぎ。(今から思えば付き人ではなく逃走防止の監視人だったのだろう。)  使用人達は完全に手持ち無沙汰になった。そうなると此れ幸いにとさぼり始める者が出る。  その上、明らかに栄養不良でバサバサの髪と肌、痩せた身体とおおよそ王族とは思えず、自国の付き人にも軽んじられている少年を侮る側仕えも出てきた。侍従も側仕えも出自はみな貴族だ。皇国語を扱う知性も無い、食事のマナーも幼児並み、身を整えることもしない、持参物も何もない。平民の孤児を王族と偽って寄越したんだろうと。  ジダ自身もかなり戸惑いつつも何をどうしたら良いのだろうかと考え、仕方なくランスの御方様を怯えさせない距離をとって控えていた。御方様の真贋はジダに分からないが、今、仕えろと命じられている主人はこの方だ。故郷からの供の一人も居らずにここにおり、皇国の言葉も分からぬのであれば、不安は如何程か。この部屋に滞在される限りは、側仕えとして、出来るだけのことをしたい。だが、何も受け入れて貰えないことはジダにとっても辛いことだった。  名誉なことにランスの御方様が皇の寝所に呼ばれた。身を整えるためにか細い身体と銀糸の髪を丁寧に洗い上げ、水の神官に手渡した。ずっと身を竦ませておられたのは不憫だったが、これは栄誉なことだ。皇の恩寵があれば主のここでの待遇も良くなるとジダも誇らしく思ったものだ。  だが翌朝帰ってきた御方様は満身創痍で身体の中にまで深い傷を負っていて、命の危険すらあると言う。瀕死なのは皇の勘気を買ったのだ、関わり合いたくないという使用人が世話を放棄した。皇のお考えを使用人風情が忖度するなど畏れ多いことなのに、勝手に責任を投げ出す同僚に腹立ちながら、ジダは不眠不休でお世話を続けた。  高熱で魘され続ける主の脂汗を拭いながら、時々水差しで口を湿らせて差し上げる。必死で果物を細かく切った物を布で絞って、一滴ずつ舌に落として、少しでも栄養を取ってもらわねばと看病を行った。  老医師が手を尽くされたおかげで、何とか意識を取りもどして下さった時にどれだけ安堵したことか。朦朧としながら水を欲しがる主に吸い口を当てて、飲まして差し上げると、苦しげだった眉根を緩めて、かすれた声で一側仕えに御言葉をかけてくださった。 『******』  異国の言葉だった。御方様の生国の言葉なのだろう。小さく掠れた弱々しい言葉だった。しかし、ジダの耳にはその声が沁み渡るように残った。後でこっそりと書物で調べた。  御自身がお辛い中でも、一側仕えを労って下さった御言葉。貴人と言葉を交わすことはない側仕えのジダに与えてくださった御言葉。他の誰にも聞こえていないジダだけの思い出だ。それからジダは前にもまして熱心に世話に励んだ。  とは言っても、押し付けがましい世話はかえって主を緊張させるので、つかず離れずの距離で仕えさせて頂いた。有難いことに侍従長の采配により、ランスの御方様が内宮に宮を賜る際の専属のしかも筆頭の側仕えとして取り立てて頂けた。  ずっと主の湯殿に仕えさせて頂ける。毎日ご一緒させて頂くごとに、慣れてくださったのだろう。  異国から来た主が側仕えの手の中で身を委ねて微睡まれるまでに信頼してくださるようになったこと、それがジダにとっては感涙ものであった。  ジダは主の微睡みを邪魔しないように絹布で肌を磨いていく。顔から指、足まで丹念に、ジダにとっての至宝であるから。  髪も全身も綺麗になると、後は水の神官の領分になる。名残惜しい。だが、体内を見たり触れたり出来るのは水の神官だけだと決まっている。医術の心得が無ければ、貴人の身体を害する可能性があるからだ。  折角、気持ち良さげに眼を閉じておられる主を起こすのは忍びなかったが、今日は時間もない。  水の神官がやって来て、主に声をかける。 「宮様、閨のお召しがあるかもしれませんから、ご準備だけ失礼致しますね。」  その途端に目を覚ました主の表情が曇る。上目遣いでジダを頼るように見上げられると、一側仕えを頼って下さるなんてとまた感動してしまう。  だが、無力な事にジダにはお力になることが出来ない。閨の準備は十分にしないと、皇の前でお辛い思いをするのは主であるので、使用人一同としては、主に出来るだけ心労をかけないように、主の前から皆で姿を消すしかない。  主は閨の準備を人に見られるのを厭われる。担当の水の神官だけが残り、使用人は主の視界に入らないところに下がるのだが、衝立越しに水濡れの音と主の苦しそうな、時々高い音混じりの息遣いは聞こえてきてしまう。  全員気配を消して、まるで聞こえぬかのように黙々と手際よく仕事をこなす。そうしないと主の声に意識が乱されて、側仕えにあるまじき失態を犯してしまうからだ。  宮の使用人の中には、仕事中晒しを腰にきつく巻きつけて、身体を抑え込んでいる者もいるらしい。無心にならなければ、侍従長から即、罷免の宣告を受ける羽目になるだろう。  水の神官は去勢しているのだと聞いたが、職務上、なるほどとしか言いようがない。  リン、と鈴が鳴って、準備が終わったことが分かる。今日はこれから着る服が夜着ではないので、衣装係が皇の元に上がるのに相応しい略式正装を準備している。ぐったりとされている主だが、服を着付けていくとほっとしたような表情になる。そしてジダを視界に認めると、ことさら安堵した様子を見せてくれるのは、自分の自惚れだろうか。  主のすべての姿を見られる神官を羨ましいと思ったこともあったが、主は神官の行為が苦手のようで、ほっとしたような顔を見せてもらえる側仕えという仕事は素晴らしいと思うのだった。
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