5-3.誓約

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5-3.誓約

 ルクレシスは連日のに呼出に戸惑っていた。今回は伽として呼ばれたわけでないため、夜着ではなく、皇の御前に上がるための略式正装が用意されていた。  正餐に呼ばれた訳でもないので、正装といっても袖もなく襟元も開いたカジュアルなデザインの長衣とのことだ。  衣装係の好みは主の白肌を際立たせる濃い色を持ってくることだったが、この季節は濃色一色でまとめると見た目が重たくなるので、肌との境にあたる縁取りに濃色を持ってきて、生地は白やごくごく薄い緑を持ってくるようにしている。  今日は一見白にも見える薄い黄色に濃紺の縁取りと全体に唐草紋様の刺繍が施されたものが用意されていた。  髪は顔まわりをすっきりさせるように髪結係が編み込んで、後は首筋に流してある。髪はかっちりとまとめればまとめる程に格式があがるのだが、髪を流している方が皇がお気に召すと髪結係は踏んでいるので、私的な場ではそのようにしている。  皇から褒賞として下賜された金剛石の髪留めと揃いの首飾り、腕輪、足輪も身に着けた。石一つ一つは大きくないが、細工が緻密で、芸術的な一揃えだ。金剛石の透明な煌めきが濃紺の瞳を更に映えさせると衣装係の押しの一揃えだ。これだけの逸品を揃えで下賜されるほど、瑠璃の宮への皇の恩寵は深く、使用人らは非常に誇らしく思っている。  後は肌の露出している部分に真珠を砕いた粉をはたいて、燭台の炎で肌が煌めくように衣装係に仕上げをされて、ルクレシスは侍従長に送り出された。  普段、短衣で過ごしているせいで、長衣は重たい。もちろん天中節の正装は長衣な上に全体に宝石や縫い取りがあり、この比ではない重さだったが。  皇の私宮に渡ると、皇は政務から帰ってきたばかりらしく政務服から部屋着へと側仕えに着替えさせているところであった。  「そこで待て」と命じられて、ルクレシスは床に拝跪して待つ。  重そうな音をさせて皇の長衣が床に落ちる。皇の服にはその威光を示すために装飾がふんだんに散りばめられている。その上に装飾品を額に、首に手首にとつけておられて、それだけで身体が重そうだが、平素から皇は服の重さを感じさせない。  政務服を脱いであらわになった上半身はそんなものの重みなどものともしない程の筋肉がついている。筋肉質だが、どちらかというと細身に見える皇の均整のとれた長身に思わず目を見張ってしまう。  ルクレシスの皮と骨という薄い身体とは全く別物だ。  部屋着を羽織るために皇が自然と少し身体を捻った瞬間に背から右脇腹にかけて大きく走る傷跡が見えた。 (刀傷…?これまで全然気がつかなかった…)  あれだけ夜伽を務めたのにいつも暗かったからか。  皇が着替え終わると寝椅子に寛ぐ皇と向き合うように、クッションの上に案内された。寝椅子の横に侍るように言われなかったということは、食事の給仕や酌をしろということではないらしい。 「母君のことだが、」  皇が寝椅子に身を預けて切り出す。 「近いうちにメイスンに移るということだ。」  ルクレシスは地学の時間に見た世界地図を頭の中に引っ張りだして、ランス国の南西にメイスン公国というシザ教下の国があったことを思い出す。  他国に移るということは、もはや血統のことで責め立てる者もいなくなる。ルクレシス自身、皇国に来て、血統について言及されることがなくなり、大分と気が楽なった。  メイスンもシザ教の範囲だが、詳しい事情を知る者もいず、気候も風習もそれほど変わらないため過ごしやすいかもしれない。しかし、よく外国などに逃げ道があったものだと不思議に思ったのが顔にでたのか、ラーグが言葉を継ぐ。 「前王の遺産の一部だ。」 (父が?)  よくも外国の土地など持っておられたものだ。王権を持ちながら、他国の土地を所有するなど、普通は不可能だろう。  父の記憶はあまりない。物心つくかつかないかという時に急逝してしまった。  唯一覚えているのは、ルクレシスの髪を褒めてくれたことだ。 『シスはレシアにそっくりだね。この髪も母君譲りだ。きっと綺麗になるよ。』  そう言って、ルクレシスの髪を撫ぜてくれた。  父王は薄い青の瞳だったので、ルクレシスの濃紺の瞳は先祖返りだろう。瞳が合うと少し悲しそうな目をしていた。母親譲りの髪は褒められても、あれほど求めていたであろう王族の血を示す瞳を褒めることはなかった。  あの人は母を犠牲にしてまで設けた子どもに何を期待していたのか。  祖父の伯爵はルクレシスを連れ回して、その濃紺(ランスルー)の瞳を見世物にして、間違いなく王族の血統の子だと喧伝して回っていた。  母は濃紺の瞳を見ると嘆くので、自然とルクレシスは伏せ目がちになった。そうすると白金のけぶるような睫毛が濃紺の瞳にかかって、ジシスなぞは余計に心乱されていたのだが、それはルクレシスには与り知らぬことであった。  あの翻弄されるばかりの母に隣国によく逃げ出すという選択が出来たものだ。伯爵も悲願叶って、娘が王妃となったからもう用済みなのか。ルクレシスに王位継承権が認められたといっても、他国の人質としてとられている以上、あの祖父が簡単に()を手放すとは思えないが。 「母が望んだのでしょうか?」 「いや。前王が妃に遺した財産を洗い出して、神官どもが手配した。」 「いえ、よくレンダス卿が納得されたと思ったものですから…」  その実は、レンダス伯も王城で自殺に及んだ娘については醜聞が過ぎて、国内のどこにも置いておけない、出来ればどこかにやってしまいと思っていたため、渡りに船と神官の案に諸手で同意しただけであったが。 「ありがとうございました。」  ルクレシスは敷物の上から下りて、最敬礼にあたる叩頭の礼をとった。これで母はもう虐げられることもないだろう。自分を産んだばかりに、というルクレシスの罪悪感も幾許か和らぐ。  感謝してもし切れない。  皇が煽っていた酒杯を給仕の捧げ持つ盆に戻す音がする。 「頭を上げろ。お前は生母を助けよと乞うた。結果としてはお前の願いの半分しか叶わなかった。」  皇の声には苦々しさが滲んでいた。  ルクレシスは叩頭していた頭をあげて皇を仰ぎ見る。
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