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「…」
皇の横に立つ紫水の宮に敷布に戻るようにと促されて、再び座って思案げな皇の言葉を待つ。
「半分というのもおかしいか。結果として助かっただけだ。生母殿は手首の刃傷で瀕死の状態で侍女に見つけられたそうだ。本人が確かに自分で切ったと言ったと報告がある。」
「…自殺、ということですか…」
ルクレシスの呆然としたつぶやきをその場の誰もが否定しなかった。
ルクレシスには信じられなかった。あの母がそんな大罪を犯すなど。
自殺はシザ教で最大の禁忌の一つだ。毎週やってくる老司教がルクレシスに対して姦淫、自殺、反抗の罪深さについて厳しく諭し続け、清廉・従順・忍耐の気高さをルクレシスに繰り返し刷り込んで行った。これらの大罪を犯せば、呪われた地に生き埋めにされ、永遠に苦しむのだと脅された。
『神は地には祝福を、艱難は地の底に沈めたもうた。』
『罪を犯した者は地の底に沈められ、二度と神の祝福を見ることはない。』
司教はそう繰り返し、もともと罪深い穢れた身として産まれたルクレシスにさらに罪を重ねないようにそれは熱心に教え諭したものだ。
そう繰り返し刷り込まれてきたルクレシスは自分が産まれながらに穢れていると半ば信じていたし、自殺なぞ考えるだけ恐ろしいことだった。
そんなことをしたらもっと穢れた存在になるのだと思っていた。
彼女は死んで全てから解放されることを願ったのだろうか。
「彼女がそのように決断したのであれば、それは本望だったことと思います。それにも関わらず、お助け頂いて、静かに暮らせるようにしてくださったことに感謝申し上げます。」
敷物を降りて再度拝跪した。
(…そうか、死ねば全てから解放されるのか…)
その考えはルクレシスの心の中にすとんと落ちた。
『ほら、辛いだけだよ』
『ほら、目を覚まさなければよかったのに』
そうだ、目を開け、息をしようとするだけで、これだけ辛い。
贄という役から降りることが出来る。
「何を考えている。」
唐突に首が掴まれた。皇が手に持っていた酒杯が高い音を立てて、床で砕け散っていた。
皇がいつのまにか床に座るルクレシスを威圧するように前に立ち、首を掴み、ルクレシスを立ち上がらせようとしている。
仰ぎ見る皇の瞳が黒い怒りに塗りつぶされていた。たとえ、首を掴まれていなくとも息をすることも敵わぬほどの怒気だ。
「それがお前の出した結論か。」
皇の地を這うような静かな怒声が部屋を凍りつかせる。使用人たちは、何が起こったのかも分からぬまま、ただならぬ気配に指一本動かせない。
皇の勘気に耐性のあるはずの紫水の宮すら顔色を失っている。
「…皇」
「下がれ。」
絞りだすような紫水の宮の言葉も、皇の絶対零度の言葉で一蹴される。
皇の言葉で使用人たちは蜘蛛の子を散らしたように慌てふためいて下がっていった。
「もう一度聞く。何を考えていた。」
これまで皇の不興を買ったことは幾度となくあった。
しかしこの昏い怒りはこれまでは異なる。だがルクレシスには何に怒っているのか分からない。答えねばと思っても、何を答えるのか、体の芯から震えが生じて答えが浮かばない。そして喉が張り付いて声が出なかった。
強い力で髪ごと掴まれて、顔を上げさせられる。怒気を孕んだ漆黒の瞳が怖くて、思わず目を伏せてしまうが許されない。
「目をそらすな。死ねば楽になるなどとつまらぬことを考えたか。」
掴まれた頭蓋骨がぎしぎしと軋むほどの力で締め上げられる。心の臓まで握りつぶされるかのような苦しさに息ができない。
「二度とそのような事を考えてみろ。手足の腱を切り、全ての歯を抜いて、首輪でつなぐ。つまらぬことを考えられぬようにその頭を壊す薬を使う。」
脅しではなく、本当にそうするのだと分かるほど、昏く静かな声で一つずつはっきりと宣告される。
「死ぬことは許さない。分かったか。」
決して否定も、虚偽も一切許さない漆黒の目にルクレシスは射抜かれる。
死の甘美な誘惑に心惑わされたルクレシスには、皇の言葉に頷くことが出来なかった。
何のために生きねばならない。皇にとっても、物の数に入らぬ身ではないか。
「誓え。誓わねば、誓うまでお前の宮の者の指を順に切り落としていこう。」
はっきりと脅しを含んで、皇がルクレシスに首肯することを強要する。
「この後、お前が食事を拒否すれば、料理番の腕を落とす。お前が自身の体を傷つければ、警護の任を果たさなかった火の者の脚を落とす。」
淡々と紡がれる脅迫の言葉は、恐怖でルクレシスの頭と心を侵食する。
「まず死なぬと誓うために何人必要だ。五人ほどか?お前が答えるまで順に指を落としていく。」
皇の目は決して脅しでも何でもないことだと言っている。誓わねばならない。決して死んだりしないと。
「指程度なら、仕事に支障あるまい。お前のゆっくりと考える時間になるだろう。」
近くに侍っていた紫水の宮に皇が空いた片手を振って命じるのが目に映る。瑠璃宮の使用人をまず五人呼んで来いということなのだろう。
「っ!」
紫水の宮は硬い表情で、御意と膝をついて、そして踵を返す。
それを止めたくて腕を伸ばして、声を出そうとするが声が出ない。出ないでは済まない。早く声を出さないといけない。
必死で喉を震わせる。
「っは、は、ちか、い、ます。誓い、ます!」
何度も何度もただただ恐怖から繰り返す。がくがくと壊れた人形のように首肯する。
「誓約するか。」
「は、はい、仰せの通りに。仰せの通りに、誓い、ます。」
「では、誓約は成った。言葉を違えれば、先に言った通りにする。分かったな。」
がくがくと身体が反射的に皇の言葉を肯定する。
そこまで答えて、皇が頭を掴んでいた力を抜いた。ルクレシスの制御の利かなくなった体は床に崩れ落ちた。
ルクレシスの全身から血の気が引いており、目の前は真っ白になっている。震えも止まらず、喉がひゅっひゅっと変な音をたてて、肺までも痙攣しているようだった。全く膝にも力が入らない。
皇の足元にただ倒れ伏すばかりだ。
紫水が連れてきた宮の者は、仔細は分からずとも皇宮のただならぬ様子に極度の貧血を起こした主を、ただ黙して瑠璃宮に連れて帰った。
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