5-3.誓約

3/3
前へ
/157ページ
次へ
 紫水は瑠璃の宮と共に皇の前から退出した。  瑠璃宮の者達は何事か疑問を持つ間もないほどの本能的な恐れからか、主を抱きかかえて、早急に辞して行った。  あれほど恐ろしい皇を見たのは紫水も初めてであった。皇はことさら残虐な性質でもないが、愚か者の首を手ずから落とすことに何の躊躇もない性質だ。為政者として平然と拷問を命じることもある。一切容赦がない。  これまで咎人の首を議場で切り落としたこともあった。慣れない官吏や使用人達の中には卒倒するものも出たが、紫水自身は致し方なし、と冷めた目で見ていた。  それは皇自身が本気で怒ってはいなかったからだ。皇は冷静に周りを服従させるために政治的に効果的な一手として、そのようにしているだけだと分かっていたからだ。  気長でも寛容でもないため、直ぐに苛立たれるが、あのように激することはなかった。  皇の怒りを買うと、あのようなことになるのかと肝が冷える。あの皇の怒気でよく今回誰も死ななかったと思う。  まだ紫水自身も皇の怒気に当てられていて、気がざわついたままだった。しかし、皇の使用人を取りまとめる侍従長の立場にある紫水は浮き足立っている使用人をまずは落ち着かせねばならない。  夜勤の者との交代の申し送りは紫水が行い、動揺している面々に大事ないと伝え、安心させて回る。 (皇は夕食を召し上がられるのか?だと。要らないと仰ってないのだから、お出しするに決まっているだろう!給仕したくないだけか!)  瑠璃宮の侍従長から面会の願いが来ていると、己の侍従から聞かされる。  呼び出さねばならないと思っていた所、向こうからやってきてくれたのは幸いだった。詳細を話す気力は尽きかけていたが、あちらこそ混迷を極めているだろうし、事の詳細を知らせねばならない。 「ご足労痛み入る。」  いくつか采配を済ませてから、紫水の執務室に待たせていた瑠璃宮の侍従長を労った。 「お忙しいところに先触もせず、申し訳ございません。」  白髪混じりの侍従長は、恐縮したように紫水に礼をとった。皇の侍従長に面会するためには事前に伺いを立てねばならないところを、直接やってきて、ごり押しで会うというのは本来であれば、礼を失しているからだ。  強引と知りながらも、面会を求める理由は確かにある。分別のある判断である。あの瑠璃の宮の侍従長を務めることは並大抵のことではない。主人自身に分別もない上に、皇の勘気を踏み抜くのが上手い。皇の関心を人一倍買っている。それだけで侍従長の苦労が知れるというものだ。  瑠璃宮の侍従長はベテランの侍従長だ。先皇の宮の専属侍従長を勤め上げている。先皇の宮が解散してからは、引退というところを引き留められて今上皇の治世下で国賓室の侍従長を務め、そのままの瑠璃の宮の専属侍従長となっている。紫水などよりよっぽど年長で経験も豊かだが、そこは主の位で侍従長の序列も決まる。宮城においては、皇の侍従長が使用人の頂点に立つことになり、紫水は上座へと座った。 「丁度、侍従長殿に話をせねばと思っていたところであったので、来て頂いて助かった。」  生母の話は省いて、皇が瑠璃の宮に誓わせた内容について伝えた。老練の侍従長が苦痛の表情を浮かべる。 「…宮様が自害されるおつもりがあるということですか?」 「もし、そのようなことをすれば、という仮定の話だ。しかし、万一にも自害や自傷があれば、皇は誓約通りになされる。瑠璃の宮がそのような考えに囚われることを皇はお許しにならない。侍従長殿に置かれて、普段の生活から一層心配り頂くよう願う。」  侍従長が床に膝をついて、最敬礼をとった。  誓約は絶大な力を持つ。一生を縛る約定である。本来は神殿で神官の前で誓うものだが、神たる皇に誓ったのであるから決して違えることは赦されない。 「すでにご承知おきのことであるかと思うが、もし万一、宮の心の臓が止まるようなことがあったならば、侍従長殿、貴殿の命で購ってもらうことになろう。ご承知おき召されたい。」 「いかなる責も私めにございます。私めの命なんぞで宮様の命を購えるとは思いませぬが、重々に承知いたしております。」  自分より年長の侍従長に対して立場は上と言っても無礼なことを述べた非礼を詫びて、紫水は瑠璃宮の侍従長を宮に返した。  そうして、執務机の革張りの椅子にどさっと腰を下ろした。極度の緊張から紫水の神経もさすがに疲弊していた。皇の忿怒をまともに向けられた瑠璃の宮が、明日の朝、食物を口に出来る気力と体力が残っているのか。紫水ですら、やけ酒以外は喉に通りそうにない。  まさか食事が喉に通らなかった位で誓約違反だと皇が断じる事はないと思うが、瑠璃の宮次第だ。 「…自分で半殺しにしておいて…まさかの誓約…」  誰もいない侍従長の執務室で皇に対しての弱々しい突っ込みが口から漏れる。  初夜に瀕死の状態にした皇がここまで執着するとは思わなかった。半ば殺しかけたくせに生きるように誓わせるなど。冗談めかして突っ込んでいなければ、今日の事態を乗り越えられる気がしない。  行幸には彼を連れて行くことは決定しているので、出来れば皇の怒りが行幸までに和らいで、つつがなく行幸が終わることを、普段全く信じていない天の神々に紫水は願った。
/157ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2675人が本棚に入れています
本棚に追加