6-2.恋慕う (※)

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6-2.恋慕う (※)

 全盲がゆえ黒曜は気配に敏感だ。普通に過ごしているかのような皇と紫水の宮のやり取りも、どこか緊張を孕んでいることに、すぐに気がついていた。それが瑠璃の宮を巡ることであることも。  一日中速度を落とさずに淡々と決裁していく皇はどこか不機嫌を纏わせている。御前会議もその冷気を感じているのか、神官と貴族の無駄な化かし合いも鳴りを潜め、粛々と進んでいく。仕事が早く進むことは黒曜にとっても有難くはある。 「明日にはご出発でございますね」  最後の引き継ぎまで終えた黒曜は、内宮侍従達に周りを片させ、皇に声をかける。 「お前には負担をかけるが、よしなにしろ。五月蝿い神官どもは無視しておけばよい。」  皇の黒曜に対する態度はいつも通りだ。    黒曜は少し逡巡してから、皇に我儘を願い出た。 「…。今宵は私を召しては頂けませんか?」 「どうした?構わぬが。」  その昔、皇に構って欲しくて、頑是なく自ら強請ったことはあった。流石に自ら願い出るのは痴がましいと分別がついてからは、皇のお召しを待つようになっている。  ただ、今夜だけは他の者を呼んで欲しくなかった。皇は寛容に黒曜の我儘を受け容れてくれる。黒曜は甘やかされているのを感じる。  皇は黒曜を特別に扱ってくれる。それは、いつもは黒曜の心を満たすはずなのに、今はどこか虚ろに感じてしまう。  内宮の皇の執務室から奥宮の皇の宮までも帯同することを赦される。食事の間は黒曜が詠い、料理に華をそえ、酌に侍った。  閨にうつると流れるように自らの衣服を落として肢体を晒す。  目が見えなくなって自分の目で自分の振る舞いを確認することは出来なくなった。しかし、厳しい教師達のおかげで、振る舞いを優雅に、艶やかに見せることを身体が覚えている。  皇に悦んで貰いたい一心で身につけた作法で、完璧に皇に奉仕をするのだ。 「んっ、ぁ…はぁ…あぁ、気持ち悦いです、皇」  皇は黒曜を好きなように振る舞わせてくださる。皇の反応を全身で感じながら、腰をふると黒曜にも歓楽が与えられる。  それが嬉しくて哀しくて皇の身体に縋りついてしまう。皇の背に残る引き攣れた大きな傷痕に皇を感じる。  べたべたと触られることを厭うはずの皇は、夜伽に初めて上がって以来の黒曜のこの癖を咎めはしなかった。 「手を離せ」  はっとすると皇の硬い指で黒曜の手が背から外される。自分の指に存外に力が入っていたことに初めて気付いた。 「申し訳ありません…」  無意識のうちに傷跡に爪を立ててしまっていた。  言い知れぬ寄る辺ない不安に皇の前で如才なく振る舞えなくなっている自分が恥ずかしくなって、皇の方に顔を向けられない。皇はどう思って居られるか。 「どうした?珍しい表情(かお)をしているな」  頬に手を添えられる。その触れられ方で怒っては居られないことが判る。  これ以上、皇に変に思われてはいけない。意識的に口角を上げて、皇に微笑みを向ける。ほんの少し寂しさを滲ませて。 「…皇のご不在が、つい不安になりました。」 「不安?去年も政務は任せただろう。今年も変わらぬはずだが?」  皇が黒曜の黒髪を梳いて下さる。その手に擦り寄りながら、くすっと笑って答えた。 「去年も不安で不安で、たまりませんでしたよ?」 「お前は大丈夫だ。去年も何も問題なかった。」  皇は黒曜のことを買って下さっている。それは黒曜が子どもの時から育ててくれた親密さと慈愛のためだと分かっている。  紫水や赤水は以前より宮から還俗し妻帯しても良いと皇から言われているらしい。二人はなんやかんや言って、還俗する気はなさそうだ。  黒曜はまだ還俗を勧められたことはない。だからずっと傍に置いておいて下さるのだと思っていた。でも、黒曜が還俗を望めば皇は否とは言わないだろう。今夜、こうやって黒曜が我を通すことを咎めることなく赦したように。  皇は宮を面白さ半分で入れてこられたようだ。紫水は新皇を怖れて全員が必死で気配を消そうとしていた中で、命知らずにも顔を上げてきた奇特さが面白くて側に召したと、皇は何時ぞや仰っていた。  黒曜が拾われた時には、皇の侍従長となっていた紫水に盛大に小言を言われていた。「犬猫を拾って来るようなことしないで下さい!そこらの犬猫より汚いのを、どうするんですか!」と。  赤水に引き合わされた時には、皇に「遊び相手だ」と言われた。紫水は苦々しい顔をして、「内宮(ここ)は孤児院か」と愚痴っていた。  新しい宮に紫水は、また躾の出来ていない子どもが来た、といつものように世話を焼いて回っている。しかし、瑠璃の宮は違う。黒曜はこれまでとは違うとはっきり感じている。だからこそ、不安になる。皇はもう私を手放すだろうと。 「皇にそのように言っていただけるのは、身に余る光栄でございますね。」  皇からの賛辞に黒曜はおどけて恐縮してみせる。 「しかし、一月も置いていかれるのはやはり寂しく思います。ですから御寵愛を下さいませ。」  ざわつく胸の内を押し隠して、艶然と笑顔を浮かべて皇の首に腕を絡めた。馴れ馴れしい態度を皇は嫌うが、皇はどこまでも黒曜に甘い。 「内宮に居てても一月会わぬこともあるのに、可笑しな事を言うな。」  可笑しそうに薄らと嗤い、黒曜が望む通りに重ねて抱いてくださった。 (いいえ、去年とは違う。不安なんです。私には貴方しか居ないのに…)  熱に浮かされながら、心は悲鳴をあげている。黒曜は心の中で皇に縋り付く。 (好きなのに。好きなのに。)  他人に対して評価の厳しい皇が黒曜に目を掛け、可愛がって下さっていた。黒曜も皇の期待に応えたくて、役に立ちたくて必死にあらゆる事を身につけた。 (でも、一人で立てるようになったら、巣立ちさせられる…)  養い子を可愛がるような暖かさでも、ずっと置いて貰える。それでいいと思っていた。  皇は次元の違う存在で、黒曜には決して手が届かないと思っていたから、今の立場に満足出来ていた。  しかし皇が手の届かない頂きから、深淵まで降りられるのを感じてしまった。そこに魂の片割れを見つけたかのように。  目の見えぬ黒曜は容姿で人を認識することは出来ない。その人が持つ雰囲気というか、心の(なり)で捉える。  硬質の美しさを持っていた皇が、瑠璃の宮へはどろどろとした嫉妬、執着を向ける。瑠璃の宮の持つ化膿して閉じない傷口に皇が呼応するのだ。  それは全く美しくない妄執の類だ。でもそれは自分の中にもそれがある。そして、黒曜の心を揺さぶる。 「手を…触れさせていただいてもよろしいですか?」  傷痕から手を離せと言われたものの、皇という存在を感じていたくて、手のひらに伝わる熱が欲しくてせがむ。 「爪を立てるなよ」 「はい…」  より一層、皇の熱が伝わってきて、心と身体が歓喜の声をあげる。歌うような喘ぎが閨を包んだ。黒曜の眦から涙が伝って落ちた。
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