7-1.傷

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7-1.傷

 出立の儀は日の出とともに陽の神殿で行われるため、まだ暗い内から支度が始まった。  皇が政を代理の者に国政を任せる宣授の儀式には留守役の黒曜の宮が皇の前に(こうべ)垂れて、皇に従順であることを誓い、皇が加護を与えるという儀であった。  祭壇前の最前列に席を配されているルクレシスは儀式を見ながら、昨夜の寵は黒曜の宮が賜わったのだと分かった。黒曜の宮はいつものように優美だが、そこはかとなく気怠げな感じと色香の残滓、何より皇と黒曜の宮との間にある独特の親密な空気。  出立の不安か、皇への恐怖の後遺症か、何なのか分からないざわざわする胸の内。何かを嘔吐してしまいたいような、喉元までせり上げってくるものがあって苦しい。 (…考えることを止めよう…何も感じなければいい…)  少し目を伏せて祭壇の地面を見るともなく見る。意識を現実から遊離させ、心を鈍化させれば何も感じなくて済む。いつもそうやって過ごしていたはずなのに、うすら寒いような虚無感に満たされる。  出立して一日目は皇都の城壁を越えて街と街を結ぶ道を進んだ。整備された道が続いており、不快な揺れに悩まされるような道ではない。  そもそもルクレシスのために用意された馬車はランス国から乗ってきたそれとは格が違う。大きさと言い、内装も全て布張りで万が一揺れたしても、体をぶつけて青あざを作るようなことはない。車軸にも衝撃を逃すための加工がなされており、整備された道で身体が揺られるということはない。  ルクレシスの乗る馬車には侍従長に侍従、側仕えも同乗するのだが、中は薄幕で隔てられていて、顔を付き合わせて乗るような狭さではなく、むしろ広く優雅なものである。  見るともなく窓の外に広がる草原と樹々を見ていた。城壁外へ出たのは初めてである。皇都内では輿に乗って都の民たちが埋め尽くす往来を物々しく睥睨しながら進んだ。皇の輿が通り過ぎる際には、一切民草は顔をあげてはならず、ひたすら皇の威光を讃える口上を述べていた。ルクレシスは輿の上で侍従長の注意通り微動だにしないように、重い正装で座っていた。輿を運ぶ下男達も壮麗な衣装をつけられ、下女達がクルクルと舞いながら、花を撒いていく。  輿の上からは遠くに忙しなく蠢いているように見えた民衆の群れが、ルクレシスが通る段にはさーっと平服していくのが見てとれた。波のように動く民衆の多さに酔いそうになった。  数刻をかけて皇都を出ると、後は馬車に乗り換えての道行きとなった。  数度の休憩を挟んで、日の入前に皇都から一番近い宿場街につく。今夜は野営ではないとのことだった。皇都周辺の数日分の道のりは、皇都へと多くの人が移動するために宿場街が発展していて、野営する必要もないらしい。  宿場街は皇の行幸で貸切だ。内宮と外宮の約半分の機能が移動しているため、行列の先頭も最後尾もルクレシスの目では確認出来ないほどの規模である。赤水は先頭部の旗持ちらしく、隊列半ばのルクレシスの後ろには軍兵列が続き、外宮関連の荷馬車、その後ろには食料等の荷駄車が続いている。  全ての荷馬車には皇紋が入って、壮麗な飾り付けが為されている。これも国の威光を移動する先々で見せつけるためなのだろう。 「ご召命を賜りました。」  割り当てられた部屋に通されるや否や、侍従長が宣下を携えて、ルクレシスの下にやってくる。  ルクレシスの心に波が押し寄せる。  あの夜以来、召命がなかった。それは立つ瀬も寄る辺もないルクレシスを不安にさせた。一方で、あれきり愚か者として打ち捨てられても仕方がなし、とも思っていた。  皇の激烈な怒りはルクレシスの裏切りのせいだ。皇の痛みを受け止めると天中節の宵に寵を乞うたのに、ルクレシスが終わりにすることの甘美さに皇を徒疎かにしたのだ。  ルクレシスはあの時、贄として生きる辛苦から逃げ出そうとした。皇は業を引き受けると嘯き、母国を亡ぼす覚悟も出来ないルクレシスを憐れんで、皇の業の片鱗に触れさせてくれたのに。  神々しい皇は確かに血濡れていた。それは身の内から溢れて、皇を苛む傷から流れ出ていたのに。    そのまま返事を返せずにいるルクレシスを侍従長が窺う。 「大丈夫でございますか?体調が優れませんか?」  ルクレシスの強張った表情を見てとって、侍従長が言葉を継ぐ。 「お断り致しましょうか?名代として水の神官を推挙することもできますよ。」  早朝からの儀式、皇都を輿で巡幸してからの馬車での移動と、明日以降に備えるために名代を立てても、と侍従長の言葉にルクレシスは(かぶり)を振った。  未熟な自分よりも水の少年の方が性技に長け、皇を悦ばせることが出来るのはわかってはいる。皇に全て捧げている美麗な黒曜の宮の方が皇の元に侍るのに相応しい。  それでも見捨てられたくない、でも、もう痛みたくない、だから、もう終わりにしたい。でも、赦されない。  
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