8-1.真名

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8-1.真名

 耳を穿たれた時、ルクレシスには何が起こったのか全く分からなかった。  ごりっという嫌な音は鼓膜に届くと共に、脳が掻き回す衝撃が一瞬のうちに襲ってきた。  痛みと知覚される前に本能的な恐怖で全身が逃げうとうと跳ねるが、皇によって褥に縫い止められ、逃げられず、ただただ叫びを上げていた。遅れてやって来た痛みにのたうつことも許されない。  ただただ燃えるように右の耳朶が痛かった。   「誓約の石だ。ゆめゆめ自分の言葉を忘れるなよ。」  皇の声が遠く感じた。  皇は目を細めて、ルクレシスを見ていた。 (…せいやくの、いし…)  働かない頭で恐る恐る自分の耳朶に触れると冷たく硬質のものが耳介に着けられているのが分かった。  鼓膜まで響く痛みと脳の血が逆流しているかのような轟音が鼓膜を震わしている。  手に生温い液が垂れてくる。ぬるつく感触に手を顔の前に翳すと、べっとりと血が着いていた。  水の神官が何度も何度も血を拭っている。  耳飾りを打ち込まれたのだと頭が理解すると、先までの責めで高まっていた波は一気に引いて、今度は一気に頭からざぁーっも血がひいていく。目の前が真っ白になり、意識を遠のく最後まで耳に拍動する痛みだけを感じていた。  遠くでばたばたと忙しなくなるのが分かるが、そのまま気を失った。 (寒い…) (痛い…) (置いていかないで…)    目の前を幾つもの光景が過ぎていく。 『陛下がお亡くなりになりました。』  ある日突然に父王は居なくなった。 『ルクレシス様、お元気で。』  乳母はそそくさと去っていった。 『お前が半血か。』  父王によく似たその人はルクレシスを憎々しげに見る。 (怖い…) (お母様に会いたい…) 「お母様、帰らないで!僕を連れていって!」 (困った顔をしないで…泣かないで…)  伸ばした手は何にも届かない。  足元に目を向けるとどろどろの不安と嘆きしかない。空は遠い。一人で沼底でうずくまっているだけだ。 (苦しい…)  暖かい腕、ルクレシスを労る手、どれも幻想だ。  父上はルクレシスを置いていった。乳母も逃げ出した。母上には見捨てられた。ジシス達にとっては思いつきで小突いて遊ぶ玩具みたいなものだ。  それが孤独だとか、辛いとか感じたことがなかったのに、皇国に来て、中途半端に優しくされるから、自分が孤独で惨めな存在だと分かってしまった。  また見捨てられるのを恐れるようになってしまった。 『もういいじゃない。こっちに来たら何も寂しいことも、辛いこともないよ』 (寂しい?…そう、寂しい…)  耳が熱い。  打ち込まれた(くさび)の強烈な痛みに、自分が皇に繋ぎ留められていることを思い出す。その枷はいつまであるんだろう。 『捨てないで…一人にしないで…』  涙が頬を伝って落ちる。耳朶がずきんずきんと痛む。 『お前は我のものだ』  汚泥に蹲るルクレシスを皇が見下ろしている。その声は遠い。 『でも、手放される』 『手放さない。お前の髪の一本から爪の先、心の臓まで我のものだ。手放すときは殺してやろう。』  その声は甘い。 『本当に?』 『あぁ。我に身体だけでなく、(こころ)も我に渡すと誓え。』  夢うつつの頭に直接声が響く。  誓約の石を付けた耳朶を震わすほど近くで。 「真名()をよこせ」  穏やかで低い声が心地よくて、身を苛んでいた孤独感が散っていく。代わりに耳朶の熱が身体を包み込む。 「…ランス=イル=ルクレシス…」 「ルクレシス、我の側にいろ。身体も(こころ)も我のものだ。何者にも侵させない。手放す時は必ず息の根を止めてやる。」  低く力強いが静かな声で誓われる。 (もう一人にならなくていい…)  安堵したルクレシスの魂はまた静かに眠りの中に引き込まれていった。触れた刀傷から与えられる暖かさが泣きたくなるような穏やかさだった。
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