8-1.真名

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「起きたか?」  ふと目がさめると豪奢な馬車の中だった。静かだがごとごとと馬車の走る振動が座席に伝わってくる。半ば寝ぼけたまま半身を起こすと、掛けられていた絹布がするりと落ち、どうやら馬車の座席に横になっていたことに気がつく。 「っ!申し訳ありません!」  そして恐れ多くも皇の腰に腕を回して眠り込んでいたらしいことに気がついて、一気に覚醒し、慌てて床に滑り降りて平伏する。急に動いたせいで目眩でくらっとする。 「急に動く奴がいるか。大人しくしてろ。」  呆れた声に面倒そうな顔をして、皇が平伏とともに床にへたり込んだルクレシスの腕を掴んで引き揚げる。 「顔色もまだ悪い。横になっておけ。」  ルクレシスの顔を一瞥すると、それだけ言って、皇はルクレシスが寝ている時から読んでいたであろう本に目を落とす。まっ昼間から間近に皇の側に侍る機会もなかったため、思わず彫像めいた皇のその横顔を凝視してしまう。 「…シス。聞いていたか」  寝ろと言ったのにいう通りにしないルクレシスに皇が本から目をあげる。  名を呼ばれて、ルクレシスは心臓を掴まれたような粟立ちを覚えた。  祖国に居た間、何度呼ばれても何の感慨もなかったのに、真名()の略称ですら、魂まで繋がれているような気持ちになる。これまで自分を示す記号でしかなかった名が意味を持つという体験だった。  皇は特に怒っている訳ではないようだ。  言うことを聞かないのは、ルクレシスの調子が悪過ぎて頭が付いて行っていないのかと、怪訝そうにルクレシスの顔を覗き込んで、額に手を当ててきた。 「っ!」  ただ触れられるだけのそれに驚いて固まってしまう。 「熱は下がったようだが。」  言葉が通じないなら物理的に言うことを聞かせるというように、額から離した手でルクレシスの首を掴むと無言でクッションの効いた座席に引き倒した。  引き倒された勢いでかすった耳に突き抜けるような痛みが走る。思わず声が上がってしまう。 「いっあ!」  声に気がついた皇が患部を診るように長くなった髪を掻き分けて、右の耳介に触れた。そこに遠慮や気遣いという繊細さはなく、無遠慮に掴まれた痛みに声にならない呻き声を噛みしめることになった。 「血は止まっている。二、三日すれば、飾りで薄皮は貫通させられるだろう。」  名を呼ばれる息苦しさと、耳朶のじくじくした痛みが確かに皇に繋がれているという実感になる。 「…はい…」  どうやら外されてしまったらしい飾りを寂しく思いながら、次につける時にも、再びあれ程の痛い思いをするのかと思うと身震いする。身体と精神を貫かれる、きつくて、甘い痛みだ。  緊張で心臓がどくどくと音を立てているが、そのままどうしようもなくて、皇に引き倒されたまま横になっている。正気の状態でこのまま寝られるわけもない。  起き上がることは赦されていないので、緊張まま身体を固めているしかない。 (…喉が渇いたな…)  常なら、寝起きに側仕えが水を飲ませてくれるのだが、我慢するしかない。  不意に唇にひんやりした物が当たる。 「食え」  反射的に口を開けて、言われたまま口に入れると、シャクシャクとした感触の青果だった。  瑞々しく嚥下すると渇いた身体に染み渡る。飲み込むとまた唇に甘い香りのそれが当てられる。口を開いて受け入れ、噛み下す。そんなことを何度か繰り返した。  身体が潤い、お腹がくちくなると、節操のないことで再び睡魔が襲ってきた。  皇の手がルクレシスの髪を梳くせいで余計に眠気が助長される。明け方近くまで熱で魘されて眠りが浅かったことをルクレシス自身は覚えていないが、身体は休息を求めていた。  
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