9-1.陰と陽

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 皇の行幸一行は、日の出前から神殿群に入り、日の出と共に()領内の陽の本神殿で儀式が執り行なった。続いて、火の神殿、水の神殿と続き、最後に陰の神殿まで、半日以上かけて祭礼が行われる。  ルクレシスは祭壇で日の出とともに祝福の祝詞を上げる皇の姿を遠く眩しく感じていた。  南方の陽の光は皇都のそれより、また一層に強い。朝日と言えども、じりじりと肌と瞳を焼かれる。ルクレシスの白い肌も濃紺の瞳も皇国の太陽には非常に弱い。何度目かの儀式になると目がちかちかして来て、祭壇上の皇の姿を仰ぐこともしんどくなった。  神殿群の神殿から神殿へと移動する輿でも伝統に則った序列順に隊列が組まれ、新参者のルクレシスの輿から皇の輿は遠い。  七つ目の神殿は陰の神殿で、日の入りに合わせて儀式が始まった。陰の神殿は以前に講義で聞いていたように、神官が女性ばかりであった。陽の神殿は男性神官のみで、他の火、水、木、風、土は女性神官も居たものの、圧倒的に男性の方が多かった。女性ばかりというのも壮観で、内宮内でもこの行幸においても女性を目にする事が一切無かったので不思議な感じがする。  儀式も他の神殿とは違う。女性の神官長の所作が皇に服従を顕しながらも、逆に皇に祝福を与えるような仕草もある。  陰と陽は特別だと座学で習った通りだった。    儀式の終わりに隣に座していた紫水と赤水が声を掛けてくれる。皇は既に別路で退出していた。 「あぁー長かったな」  赤水がまだ神殿内だと言うのに、伸びをしながら言うので、紫水が眉を顰めるが当の本人は気付かぬ体だ。 「瑠璃、目が赤いな。陽を見すぎただろ」  紫水の苦言を全く聞いていない赤水が瑠璃の目を覗き込んで話しかける。 「皇国の陽の光は強い。あまり陽を見すぎると目が焼けてしまうぞ。それにちょっと顔も赤くなってる。焼けたか?」  そう言って赤水がまじまじと覗き込んできた。赤水は何となく気安い上にこうやって距離が近い。ルクレシスの周りにこんな近い距離で接してくる者がいないので、狼狽えるが、赤水はお構いなしでルクレシスの鼻の頭に触れてくる。 「ほら、こことか痛くない?後で薬塗って貰えよ。せっかくきれいな肌なんだから」  確かに触れられたところが熱っぽく、ピリッとした痛みが伴っている。 「あ、これか、噂の耳飾り。」  あまり肌が出ないように髪は緩く纏めて耳朶の上半分は編み込まれた髪の下に隠れていたのだが、赤水が髪を掻き分けて右の耳朶に付けられた石を見つける。 「ここって痛いだろ。しかし、いきなり一日目から瑠璃がぶっ倒れるから、隊列の再編で大変だったよ。」  耳朶を引っ張って、石を物珍しそうに矯めつ眇めつ見ている。  『噂の』と赤水晶の宮に聞こえていることは何なのかとルクレシスは赤く青くなるべきか青くなるべきか分からなくなる。閨事情まで知られていたら、恥ずかしくも恐ろしくもある。 「おい、赤水。やたらと触るな。」  紫水の宮が赤水晶の宮が覗き込むのを止める。 「瑠璃も石は絶対に人に触らせるな。皇の激怒を買うのはお前だぞ。」 「誰も触んないでしょ、怖いし。」  赤水晶の宮は全く堪えた風でもなく、耳飾りが似合っているだのと言いながら、頭をわしわしと撫でてくる。悪気は無いのだろうが軍人の力で頭を撫で回されると、ルクレシスの軟弱な首は耐えきれず、ぐわんぐわんと揺れてしまう。 「お前が一番問題だ。気安く瑠璃に触るな。皇の知るところとなっても俺は知らんぞ。弁明出来ん。」  えー、と不服そうな赤水も、やっとルクレシスを離した。  当のルクレシスはよく分からないがやっと解放されたことに安堵し、ただ耳飾りを他人に触らせてはいけないということだけ心に留め置く。 「お疲れ様でした。あぁ、少し肌が焼けてしまいましたね。」  神殿には神官と皇、宮しか入れないために神殿外で待機していた侍従長達が戻ってきた主を慰労する。全ての儀式の後には皇を迎えての祝祭もあったために、もはや夜半であった。夜明け前から支度に儀式と続いていたため、ルクレシスはくたくたの状態で湯船に入れられた。  湯の中で体を殊更丁寧に絹布で洗われ、ちゃぷんちゃぷんという音が心地いい。側仕えの腕に身を委ねる安心感に全身の力が抜けてしまう。寝てしまってはいけないと思って、必死で瞼をあげようとするのだが、身体を湯すぐ、優しい手に余計に眠気を誘われてしまう。  次にふと目を覚ましたのは、月の光の明るい寝台の上であった。 「宮様」  主の目覚めに気がついた閨番が低く静かな声で声をかけてくる。 「薬湯をお持ちしましょうか?お目覚めにはまだ早ようございます」  はっきりしない意識でうなづくと、ささやかな衣擦れの音をさせて侍従が薬湯を取りに行く。半身を起こすと、広い寝台に一人なのだということが急に心細く感じて身を固く縮めてしまう。 「宮様?お寒いですか?」  薬湯を用意して来た侍従が帳を開けて、膝を抱え込んでいるルクレシスを気遣う。 「薬湯でございます。体が温まりますよ」  寒いという季節でもないことは分かっているが、人肌の温もりのない寝台は寒く感じる。  侍従がふわふわとした毛並みの掛布を一枚肩にかけてくれた。そして温くされた薬湯を渡された。  掛布をかけられて、優しい香りの薬湯に口をつけると少しほっとする。 「きれいな月夜でございますね。今夜は月の女神の日でございますからね」 「…月の女神?」  ルクレシスは薬湯を啜りながら、初めて知る話に侍従を見上げる。 「はい。満月は月の女神の御加護が最も強い日でございますが、その夜は決して外に出てはいけないと言い伝えられておりますよ。」  皇国では子供の寝物語でもある月の女神の話らしい。 「月の女神は死と再生の女神ですから、そのお力の強い日には強い赤子が生まれるとも言われていますし、死を賜るとも言い伝えられています。皇の母体であり、皇が日の入りに帰る場所とも言われておりますね。月の女神が最も輝く時は太陽神の生と繁栄の御力も最も強い時ですが、夜は月の女神の領域に入るのです。」  侍従は丁度主の寝台の柱などに彫られたレリーフを指差して説明する。寝台の多くは月の女神のモチーフが彫られている事が多い。女神が太陽を飲み込むモチーフに、女神が太陽を抱くモチーフ、女神の神体から太陽が昇るモチーフなどがある。眠りを死に見立てて、目覚めを再生とし、朝毎に強く健やかに産まれるという護符のようなものだ。だから夜は寝なさいと、市井の母親は子供を寝かしつけるのですよ、と説明してくれる。  侍従はルクレシスの全身から力が抜けてきたのを見て取って、背に手を添えて褥に横たえさせる。 「さぁ、もう少し眠られて下さいませ。女神の祝福がございますから、安らかにお眠りになれますよ。」 「女神の御恩寵があらんことを。」
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