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9-2.表と裏
翌朝は閨番の侍従の呪いがよく効いてかルクレシスはすっきりと目覚めた。
「今朝はご機嫌麗しくございますね、宮様」
朝の目覚めの挨拶にやってきた侍従長が、思ったよりも昨日の疲れを残しておらず元気そうな主の姿ににこやかに話しかける。
領都へは神殿群から南下して海岸線沿いに出てから、北西に進むとのことだった。
「宮様、海で御座いますよ」
出発してから暫くした所で侍従長が窓から海を指差す。遠く青い水平線が岩の切れ目から眺められる。神殿群は高台に建っており、眺望台に上がれば紺碧の海が臨めたのだが、儀典ばかりでそのような機会が無かった。
馬車は海と平行に走って行くが岩場が開けた所から海が広がる。岸には舟というものが頼りなげに漂っている。そして海はどこまでも拡がっていた。
初めて見る海はじーっと見ていると引き込まれそうな碧だ。美しい。そして視界に入りきらない大きさは偉大だ。
「…怖い…」
しかし、呑み込まれそうな恐怖を感じる。
「海は食糧など豊富に採れる恵豊かな場所で、生命を育むとも言われます。母親の胎には海と同じ水が入って居るとも学者は言っております。しかし、反面荒れるとどんな立派な船をも飲み込み、岸を高波が襲うことも御座います」
冰は幾度となく沿岸部が災害に見舞われており、この今馬車で走っているこの地も海水を被って、塩害で植物が生えず岩だけになっていると、侍従長が説明をする。
そう言われて見ると岩場ばかりが拡がり、そこに鄙びた小屋が点々としている。反対の窓からは田畑だったのかも知れない平野が拡がっている。
一昨年、台風によって沿岸部から内陸まで広域がやられ、その被害の大きさからその年の税を免除されたと言う。
侍従長は明からさまには言わぬが、幾度となく災害に見舞われてきたこの地は大変貧しいらしい。そのように思って見ると、確かに人気もない岩場が続き、寂しげな風景が続いている。
領都に入って輿で市街巡幸を行うが、やはりなんとなしに荒廃した空気が漂っている。これまで通ってきた都市と同じように街道には商店が軒を連ねているが、何とはなしに寂れた風情がある。市民もたくさん集まってきていて、巡幸の列を見ようと群がっているのだが、何処か猜疑的で周りの様子を伺いあっているようだ。
がりがりに痩せて枯れ木にボロ布が引っかかっているような風情の子供が焦点の合わない目で呆然と列を見ているのを慌てた大人が腕づくで平伏させるのが目に入る。
(あれは…精神の壊れた目だ…)
薄紗のかかった輿から霞がかって見える民衆の中で、その子供の目だけが鮮やかにルクレシスの目に飛び込んでくる。ルクレシスが心を飛ばしては皇の勘気を幾度となく買った目だ。
見やると民衆は多かれ少なかれ同じ様な目をしている。土地だけでなく人心が荒廃している。そう感じ始めると、民衆の皇を讃仰する声も次第に嘘ら寒く感じられてくる。
「誰だ!」
突然厳しく誰何する声が響く。順調に進んでいた隊列が止まる。
「何?」
「宮様、出てはなりません!」
切迫した声とともに、瑠璃宮の使用人勢が輿の周りを囲みルクレシスを護る。
「宮様の輿と知っての狼藉か!今、不敬を働いた者出てこい!庇い建てする者も叛逆罪に処すぞ!」
「ひっ!」
「きゃー!!」
「私じゃない!やめろっ!」
「新徒だ!奴らの仕業だ!」
火の神官が抜刀して民衆に向ける。蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、怒号が飛び交い、混乱が拡がる。
ルクレシスには何が起こったか全く分からず、輿の上で狼狽えることしか出来ない。
ルクレシスが身を竦ませていると、一人の見窄らしい身なりの少年が民衆の手によって引きずり出される。
「違う!俺じゃねー!俺は新徒じゃない!」
十五、六という年頃か。自分を突き出す民衆へ罵声を浴びせている。民衆は決して彼に目を合わせようとしない。
「あいつだ!あいつが俺になすりつけやがった!」
恐れをなした民衆が手近に居た貧民窟の彼を生贄に差し出したのだ。彼の主張に全員沈黙し、無関係だと後ずさる。少年は神官に手荒く取り押さえられた少年が暴れ、自分に罪が着せられたことを口汚く罵る。
「ちきしょー!何が宮様だ!小石一つで、その輿、揺れてもいねーじゃねーか!ざけんなっ!」
「黙れ!」
宮への不敬をも罵りを始めた少年に警護についていた屈強な火の神官が刀の持ち柄で叩きつける。幾度となく鈍い音がして、少年が昏倒した。
「不敬罪につき捕縛する。そして、そこの者も参考に来てもらう。」
警備主任の壮年の神官が、逃げ腰になっていた群衆の中の一人を指差す。先ほど少年が指差した男だった。
「私じゃない!彼が投げたんだ!私は見たんだ。」
男が取り乱して騒ぐが、一時的に乱れた隊列は騒動を別にして何事も無かったように再び進み始める。
輿の中でルクレシスはカタカタと震えるしか無い。
(何が起こった…?彼はどうなったの…?新徒…?)
混乱から数メートル離れたところの民衆も何事も無かったかのように 、皇への賛辞を口にしながら、波のように順に叩頭して行く。その光景も異様でルクレシスは気持ち悪くなってきた。
(何?…何が起こってるの?)
寒気と喉元まで込み上がってくる胃液を無理矢理飲み下す。
「皇、瑠璃の宮の隊列に石を投げ込んだ輩が居るようです。」
「殺せ」
皇の輿の横について歩く侍従が皇に耳打ちで後ろの隊列での騒動を報告すると、皇は短くそれだけ命じる。
「その前に洗いざらい喋らせろ。領主にも責を取らせる。」
「ぎょ、御意」
若い侍従は上擦った声で応える。紫水ならば言わずとも皇が望む通りに、そこに付録まで付けて采配するが、まだ皇の侍従としては未熟な侍従は動揺を隠せていない。紫水は紫水の宮として皇の先導の輿に乗っているために、このような時に不便だ。
領民の叛逆は飼い主たる領主の責だ。税も集められず、邪教を駆逐することも出来ず、その利潤だけをあやかろうとする領主には相応の報いが必要だ。
(ルクレシスのことだ。ただ震えて、落とし前をつけさせる事なんぞ出来ぬだろう。)
自分の持ち物である瑠璃の宮を侮辱した報いを冰の者に存分にうけさせねばならない。皇はルクレシスを侮る者、貶める者、害する者全てを許しはしない。
(しかし、陰鬱な土地だな。)
皇国の末端はどうやら壊死寸前らしい。拡がり過ぎた皇国の成れの果てがこの冰の現状だ。民衆は疲弊から猜疑心に満ち満ちて互いに窺い合いながら生活しているようだ。
隣が邪教の新徒かも知れないし、いつその新徒の方が儲けるようになるか、邪教に組む方がが得か損か、皇に恭順しておく方が安全か危険かと窺って生活しているのだろう。もしくは日々の生活に流され考える事を放棄した者たちの作業的な平伏と讃仰が繰り返されている。
諜報から冰で興った邪教の概要が報告されている。
十数年間前に始祖と呼ばれる男が冰に現れ、《蒼天の真皇》と名乗ったという。中層階級に皇制の不当性を言葉巧みに説いて回り、ここ数年で災害の苦難の中で平民層に爆発的に広まったらしい。始祖の男の顔は醜く爛れている為、新徒の前でも常に布で覆っており、年齢も不明という報告だった。素性もどうやっても突き止められず、冰の産まれかどうかも同定出来ていない。ただ体躯は立派で年齢層も20代後半から30代半ばではないかと報告書では推察されていた。
この始祖の後ろにはどうやらアデル帝国の商人が付いているらしく、中層階級をまず掌握したのはこのお陰だろう。領主も商人に買収されていると当然考えられる。
そしてその教義は現皇は太陽神の化身ではなく、同朋殺しの大罪人であり、不当なものである。その証拠として、皇の加護はなく、冰は天災に見舞われ、貧困に喘ぐのだと、説いて回っているらしい。
天災をその時の権力者の不徳に帰す論調は古典的だが、《同胞殺し》は神殿深部に関わっていた余程の高官か、もしくは《夜明け》に遭った皇の卵しか知り得ないことである。
少なくとも皇の卵でその秘密を知り得るのは皇ただ一人。死人に口はない。
背の傷が疼くのを感じる。
まさに太陽のようであった蒼天であれば、確かに生き遺っているかも知れぬ。大人しく生きておれば良いものを何故生霊となって現れるのか。
野心か、復讐か。
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