9-2.表と裏

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「宮様、もう大丈夫でございますよ。我々が御守り申しあげますから、ご心配召されずに。」  巡幸の後、冰領の宮城に入ったが、輿から降りるなりルクレシスは嘔吐した。侍従長らは余程、主が怖い思いをしたのかと心配してくれている。  ルクレシスは混乱していた。ルクレシス自身、気付きもしなかったたかが小石が引き起こした騒動。それなのにあの痩せた少年や一緒に連れていかれた男はどうなったのか。そしてあの少年が突き出されたことで安堵の色を浮かべた周りの者達。  侍従長たちは本気でルクレシスを心配している。無礼な賤民を目の当たりにして主の気持ちが乱されたと。全く裏のない献身、それが恐ろしい。  頭が混乱し続ける。自分が宮として周りから敬われ、大切にされているのは分かる。貶されたり、殴られたり、蹴られたりすることはもうない。ルクレシス自身、あの日々が遠く感じられるほどだ。  あの民衆の何も見ないようにしようとする濁った目はルクレシスの濃紺(ランスルー)と同じだ。 「あぁ、余程怖い思いを召されたのですね。」  侍従長が座して嘔気に口元を押さえている主にの前に膝を付いて、未然の防げなかったことを陳謝し、不敬を働いた者は厳しい詮議の後に速やかに処断されるからもう何の心配も要らないと繰り返す。 (怖いのは、違う…)  怖いのは侍従長たちが皆、それが当然だと考えていることだ。彼らには表しかないのだ。 「瑠璃の宮、祝宴は出られそうか?もう半刻もすれば始まる。気持ちを切り換えよ」  盛装を身に纏った紫水が様子窺いに顔を出す。着替えも儘ならずに座り込んでしまっているルクレシスに顔を顰めた。 「…彼らは…?」 「彼ら?…あぁ、火の者が引き立てた者か。あの不敬罪を問われた少年は濡れ衣だろうが、衆人環視の中、暴言を吐いたのだ。笞刑の後に烙印持ちになるだろうな。」  烙印という不穏な響きのルクレシスは慄く。シザ教下でも烙印というものはあった。背教の罪を犯した魂の穢れた者は頬に二度と消えぬ烙印を焼き入れられ、死後も救われる事がないと再三脅された。皇国でも皇や宮、神殿への不敬罪に問われると、実刑の後に烙印を施される。烙印持ちはもはや普通に生活をすることは望めない。市民が烙印持ちと関わることを忌避し、ありとあらゆる差別を受けることになるからだ。 「もう一方の男は怪しい為、今頃、厳しい尋問だろう。しかし、そんなことはお主が今、気にかけても仕方のないことだ。仕度をする方が先だろう。」  何でもないことのように言う紫水の宮に食い下がってしまう。 「たかが小石です。誰かがつまづいて飛んだのかも知れません。私には何もなかった。少年も酷な罪を問われる程なのでしょうか?」  紫水の宮の眉が上がる。 「大したことにしたのは瑠璃の宮、お主だぞ。大したことでないなら、あの場で宮の名の元に民草を納得させる程度の罰を与えて、解放すれば良かった。さすれば皇国の法典に則って、あの者に烙印が押されることもなかったであろう。それにもし万が一、あの石一つが輿に当たってみろ。輿を守っていた者達も罪に問われる。お主は皇の宮なのだ、小石一つで下々の者が簡単に罰せられ、死ぬのだ。自覚しろ。」  厳しい声でルクレシスは叱責された。  彼らが罰を受けるのは、瑠璃の宮の采配が甘いせいだと紫水の宮は強く糾弾するのだ。  王族に生まれながらも、そもそも人の上に立つという事に慣れぬ瑠璃の宮に酷な事を言っていると紫水も重々分かっているが自覚して貰わねば困る。何事においても逃げ癖が付き、覚悟が甘いルクレシスに紫水の宮は言葉を重ねる。 「皇はお主に害なす者を決してお許しならない。瑠璃の宮を害する者にはその何十倍もの報いを受けさせるだろう。人の価値は平等ではないのだ。自身が皇の寵童なのだとくれぐれも自覚するように。」  今回は邪教との絡みもあり、皇が手加減とは思えない。邪教とは無関係そうだとしても少年も多目に見られることはないだろう。公然と宮に暴言をはいたのだ。濡れ衣を着せられた結果とはいえ自業自得だ。 「分かったならば仕度することだ。辛気臭い顔を皇の前ですれば、さらに皇は苛烈な罰を下すぞ。」
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