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10-3.月の胎
「始祖とやら、医者を呼べ。濃紺が駄目になってしまう!」
商人が騒がしく叫んでいる。
強奪した宮の身体は冷たい地下の床で力無く落ちており、呼吸も浅く、薄い胸板がわずかにしかし忙しなく上下しているのみだ。
止血の為に雑にきつく巻かれた布も血が染み出して、未だにおさまる兆しがない。
意識も薄らいでいるのか、反応を見るために足先で軽く小突いても、反応らしい反応も見られなくなって、慌てているということらしい。
「今、神殿に駆け込めば皇軍に居場所を知らせるようなものだぞ。」
土気色になった肌の色に慌てる商人に始祖は取り合わない。
「くそっ!」
「『血の呪い』とやらで、虚弱な者も多いらしいな。その床に転がしてるだけでも弱るらしいぞ。」
「奴隷に絹の布団を与えろとでも言うのか、馬鹿馬鹿しい!」
高く買った商品で出来るだけ儲けるために、奴隷を檻で最低限の餌で飼い、金のかかる医者になぞ滅多に見せないのが奴隷商だ。
通常、奴隷は使い捨てだが、希少な濃紺を替えがきかぬ。お抱えの水の神官がすでに出来うる限りの処置をしていたが、一通りの処置だけでは最早無理とお手上げで、高価な薬草での止血と消毒薬が必要で、その為には何としても医者が必要だと商人に訴えたらしい。
(早く見つけろ、宵天よ。でないと大事な寵童が死んでしまうぞ。)
《始祖》と呼ばれる男、スカツェルは力なく床に転がっている発育不良の裸体を見下ろして、薄く嗤う。彼にとって、ルクレシスはあと数刻くらい息をしていればいい。商人に付き合う気はない。
「さて、時間までもう少しあるか。…ルファおいで。」
宮として崇め奉られてきた少年、奴隷にしては大事にされている濃紺が気に入らないのか、スカツェルが仕込んだ踊り子のルファは憎々し気にその寵童を見下していた。
商人が彼を手酷く躾けるのを暇潰しに観覧しようと思っていたのに、むしろ手当されている様が面白くなかったらしい。
しかしスカツェルが名前を呼ぶとぱっと満面に喜色を浮かべて、スカツェルに擦り寄ってくる。
スカツェルは空気の通りの悪い地下の階段を登り、根城としている礼拝所の二階へと上がった。その窓から普段は人通りが見えたが、今は人の姿は一切見えずに静まり返っており、辻ごとに兵が配されているのが見える。さっと布を引くと、部屋の中が薄暗くなった。
「始祖様」
甘ったるい声でルファが啼く。
ルファはスカツェルがこの南の地に流れ着いてから、奴隷商から買い上げた少年だった。異国風の榛色の瞳が売りの性奴として売り出されていて、既に散々と色々な買い手の所を回されたようで身体はぼろぼろだったが、昔可愛がった後輩を思い出させる瞳の色にそこはかとなく似ていたので買い上げた。
従順でよく躾けられた奴隷だった。頭も悪くなかったらしく、教えたことは乾いた砂に水が浸み込むようによく覚えた。
覚える毎に褒美をやった。
「褒美をやろう。」
領都内が緊張で静まり返っている中で、踊り子の嬌声が場違いに響くが、ルファは構わず主からの褒美を堪能する。
「…は、ぁんっ、主様、主様、主様ぁ、ぁ、気持ち、ぃい…あぁ」
ルファにとって《始祖》は自分の救世主だった。面相は焼け爛れて恐ろしげだが、親に売られてこの方、どんな上品な形をしていてもルファを買った男は一様に歪んでいた。
今よりも幼かったルファにありとあらゆる責めを施して、泣き叫ぶのを愉しむのだ。体躯の大きい労働奴隷を何人とけしかけて、性奴が抱き潰されるのを嗤いながら鑑賞する貴族や拷問好きの神官など、売られる度に生き残れるかどうかの瀬戸際だった。
同じ境遇の性奴にされた少年達の顔ぶれはころころと変わっていった。
見た目がどんなに良くても、その薄皮一枚下は残虐で下衆な連中ばかりを見てきたルファにとって、主を一目見たときから見た目が醜い分、取り澄ました皮をかぶっていないだけましだと思えた。
買い受けられた時、ルファは活きが悪くなったと奴隷商のところに戻された時だった。
自分でも、もう終わりだろうと思っていた。商人も薬漬けの死にかけの奴隷は二束三文にしかならないからと、餌代も無駄だと言って憚らず、食事すらまともに貰えず、檻の中に転がっていた。
時折襲ってくる麻薬切れの発作は残り少ないルファの体力を奪っていく。だから、恐ろしい面相で顔を覗き込まれた時も、もう驚くことが出来るほど、体力も気力も残っていなかった。
襤褸切れのようなルファはまた買われた。
新しい主は顔こそ恐ろしかったが、彼に理不尽な折檻も与えなかった。
奴隷として名もなかった彼に「ルファ」という名を与えてくれた。性技以外の様々な事、食器を使って食事をすること、衣服をつけて外に買い物にいくこと、美しい皇国語、武術も芸事も。そしてそれらをうまく覚えることが出来れば、“痛くない”性交でただただルファが悦ぶように抱いてくれた。性奴としての仕込みで散々、麻薬と共に快楽を覚えさせられた身体は性的悦楽が何よりの褒美で、抱かれないと数日で気が狂ってしまいそうな彼を低い声で「ルファ」と呼び、酔わせてくれた。
優しい目でルファの名を呼ぶときは他の誰かを重ねているのだろうけれど、ルファにとってはそれで十分だった。
自分を買った男が《始祖》と呼ばれ、周りから教祖として崇められていようが、《真皇》として皇位簒奪を企む叛逆者である事も、ルファには関係のないことだった。ルファの唯一無二の主。
火傷がなければきっと美麗な顔だったのだろうと思うと惜しい気もしたが、ルファにとっては美麗な仮面をつけた他の誰よりも信じられる人であった。
(私に主様、私の主様…)
「ルファ」
時折主の低い声で呼ばれる、ただそれだけで身体が痙攣して高まってしまう。以前までの客には精を吐くと手酷く鞭打たれたが、主はただ苦笑いだけで許してくれる。
主に満足して貰う為に出来るだけ我慢しようとするが主に抱かれてるだけで幸せで、身体が悦んでしまう。
肌が触れ合っただけで、もう零してしまうくらいに痺れるほどの幸福感だった。
「…スカツェル、だ」
「スカツェル様?主様のお名前?」
「あぁ」
いつも素っ気ない声が優しい。瞳もルファを真っ直ぐに見てくれている。他の誰でもない。
(主様の真名…)
「スカツェル様、スカツェル様」
涙が溢れてくる。視界がぼやけて主の顔が霞む。もっと見ていたいのに。幸せ過ぎて、幸せ過ぎて、もうこの瞬間に死んでもいい。
「ルファ…」
(幸せ?…幸せって、こういうこと?)
麻薬が創り出す紛い物の幸福感でない。胸の奥から溢れる温かさ。
「…先に逝っておけ…」
幼児のように嗚咽をこぼして泣くルファを撫でながら、主が耳元で囁く。
霞む視界に窓から漏れ入った光を反射して煌めく刃が見えた。それは一瞬のことで、次に首に熱さとごりっという骨の断たれる音が自分の骨を通して聞こえる。
「スカ、ツェル様…」
痛みがあったのかも分からない。急速に全身が火の中に投げ入れられたような、氷の中に投げ入れられたような、訳も分からない奈落に落ちていくように感じられる。
それは脊髄の神経束が一刀され、脳が混乱を来す。それが永遠なのか一瞬だったのか、その洪水のように押し寄せる感覚の押し流されて視界が狭まっていく。
そして、ずっと身体に染み付いていた酷い倦怠感や内臓の痛みが急速にひいていった。
じっと主が今わ際の自分を労わるように見ていてくれている。最期まで抱いていてくれるのだ。上手く息が吸えないから、声がでない。こんなにも幸せなのだと伝えたくて、せめて口の端をあげようと頑張った。
(…うまく笑えてる、かな…)
微笑んだルファの榛の瞳が生気を無くしていく様をスカツェルはじっと見続けた。
完全に光を喪ったのを確認して、ゆっくり首に突き立てた刃を抜く。噴き出す血でルファの綺麗な顔が汚れないように細心の注意を払って。
スカツェルが慎重に突き立てた刃は頸椎の間を確実に断ち、ルファをほぼ即死に至らせた。苦しくなければよかったが、どうだっただろうか。
我慢強い子だったから、最期までスカツェルに気を遣って我慢していなければいいと思う。最期の笑みは、この汚泥に塗れた世の辛酸を嘗めながら、どこまでも清らかだった。
「暫くの別れだ。ルファ…」
見開いたままの榛の瞳を隠すように目を閉じさせて、身体に絹の掛布をかけてやる。
スカツェルは皇軍を従えた皇に勝てるとは思っていない。むしろ勝つことが目的で始めたことでもなかった。
もうそろそろ皇によってスカツェルを始め、ルファも捕まる。ルファも主犯格の一人として厳しい尋問に合い、最期は多くの大罪を課せられて処刑される。もうこれ以上苦しまないように、今、名を与えたスカツェルの手で月の女神の胎に返してやるべきなのだ。
ルファは多くの奴隷商が奴隷を飼いならすために使う中毒性の高い麻薬に強く冒されていた。臓器もぼろぼろで、その痛みを紛らわすために麻薬が必要で、精神もただただスカツェルに依り頼むことで保っていたようなものだ。
これ以上は苦しめたくはない。
(そう長くは待たせはしないさ。)
微笑んだままのルファの顔を一撫でするとスカツェルは感傷を断ち切った。
「…さあ、始めようか。」
外が俄かに騒がしくなった。
窓の掛け布を捲って隙間から見ると皇軍の一隊が神殿の入り口で問答している様子がある。応対しているのはこの礼拝所を預かる中位神官で必死で兵を押しとどめており、押し問答になっているようだ。
(やっと来たか)
スカツェルが嗤って足早に地下に向かう。
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