10-3.月の胎

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 階下は蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。まだ門番の中位神官がのらりくらりと問答しているが、突破されるのは時間の問題だ。  神殿は聖域であり、皇軍といえど貴族や軍隊が入ることは出来ない。しかし七神殿の神官長の連名書があれば神殿及びその関連施設に皇軍が入ることが出来る。連名書を持ってきた時点で、問答も意味をなさない。門番の中位神官に出来ることは、ただその連名書が本物なのかを問いただして時間稼ぎをするくらいが関の山だ。 (連名書を得るのに、大分と時間がかかったようだな)  スカツェルは薄く嗤う。神殿群の神官長の幾人かもスカツェルの手が入っている。署名するのに無駄に渋って皇軍を手間取らせたようだ。  地下への扉を押し開けて中に入ると、地下通路の灯も全て落とされて、空気取りのための穴からの光くらいしかなく薄暗い。一見普通の倉庫になっている更に奥に隠し地下室が続いている。捕らえたランスルーを収容している地下室だ。商人達も息を潜めているだろう。暗闇でも慣れた手つきで石の継ぎ目に埋められている扉の留め具を外して中に入る。 「おい!皇軍(あいつら)、帰るんだろうな!」  商人が声を潜めながら、しかし切迫した口調で問いただしてくるが、一瞬目を見張って詰め寄ってきた体を慌てて引いた。 「お、おい、なんだ…血…」  暗闇に黒衣せいで目立たなかったが、衣をつかんだ瞬間に重く湿ったその感触に驚いたらしい。スカツェルにはべっとりと血糊が付いていた。 「あぁ」  何でもない事のように言う彼の両手も目を凝らすと真っ赤に染まっているのが見え、非道の闇商人も及び腰になる。 「ちょっとな。…さて、ここから出るためにそいつを借りるぞ。」  すでに血を吸った短剣で、体温保持のための布に包まれた商品(ランスルー)を指す。 「う、うちの商品だ」 「皇軍は神官長の連名書を持ってきている。そのうち力づくで入ってくるぞ。」 「!ここは安全だと言ったではないか!!金を返せ!」  商人が顔を真っ赤にして、罵ってくるのをせせら笑う。 「一国の皇に楯突いて安全な場所でもあると思ったのか。お目出度い奴だな。」  血糊を被り、爛れた顔で嗤うスカフェルは悪鬼のようで、強欲でこの世の地獄のような世界を長く渡ってきた商人も腰が抜かす。 「…あ、あく、ま、め」 「奴隷商に言われると心外だな。」  スカフェルは愉快そうに嗤うと、お前は荷物になると刃を一閃させる。頚動脈裂かれた商人がもんどり打って倒れた。  地下に身を潜めていた新徒や加担した神官や商人らも声を失って、ひたすら壁に身を寄せている。外に出ても皇軍がおり、ついてきたはずの始祖は今や殺人鬼となっている。 「さて」  何でもない事のように短剣の血糊を振って落とすと、床に伏している宮の手枷足枷をそのままに肩に担ぎ上げる。力のない身体は僅かに身動ぎするが、だらんと四肢を垂らすだけだ。  門前に居るのは、各礼拝所と小神殿を手分けして回っている小分隊だ。騒ぎが大きくなって、この礼拝所に多くの分隊が集まってくる前に動かねばならない。 「どけっ!皇命に従わなければ、叛逆と見なす!」  押し問答の末に、礼拝所の門扉を皇軍が突破しようとしていた。  スカツェルは肩に担ぎあげたものが彼等に見えるようにしてやりながら、悠々と彼等に近づく。 「道を開けてもらおうか。」  門扉を塞ぐ神官と分隊長に、肩のものに刃の厚い短剣を突きつけて見せると、熱り立っていた皇軍が俄に怯む。血を被った異様な(なり)の男に分隊長は悪鬼と見紛う。  スカツェルは短剣の刃を引っ掛けて、血で汚れた布を払う。  覆っていた布が滑り落ち白磁の肌が晒された。白金糸の緩やかなカーブを描く長い髪、透き通るような白磁の肌とそこに散る鬱血痕、陽の光を反射する金剛石の耳飾り、だらりと落ちる手足の細さ。濃紺(ランスルー)を確認せずとも、皇軍が血なまこで探している宮だとよく分かるだろう。  いつもは目深に被っている布を取り払って、顔を晒してやる。我こそ、《始祖》本人であると。  宮を連れた《始祖》を眼の前にして、一気に皇軍が気色ばむが貴人が人質に取られているために動く事が出来ない。 「あぁ、先に言っておくが、まだ生きているよ、大分と弱ってはいるけどね。後、馬を一頭貸してもらおうか。」  宮を殺されたく無ければ道を開けろと圧をかけるスカツェルに、皇軍は一歩ずつ後退せざる得ない。分隊長の顔が悔しげに歪む。  宮を盾に取られ、動けずにいる兵から馬を奪った。 「中に間諜どもも居る。好きにしたらいい。私は領都の陽の神殿にお邪魔する。皇に是非お目通り願いたいものだ。」  そのまま馬の腹を蹴って、皇軍の真ん中を突っ切る。棒立ちになる兵を踏み潰して、弓矢を番えて来る兵士に宮の身体を向けてやる。  分隊長が慌てて叫ぶ。 「宮様だ!傷つけるな!」  通りに配置されていた兵たちも一瞬身構えるが、人質をとられていることに逡巡した間に道を開けてしまう。 「すぐに伝達しろ!一隊は奴を追え!一隊は皇の元へ。一隊は残党狩りだ。」  硬直の解けた分隊長が慌てて指示を飛ばす。この騒乱の中心である《始祖》を目の前で取り逃がし、最優先事項であった宮まで保護できなかったとなると、訴追の上、厳罰は必至である。焦って指示を出すが、《始祖》を目の当たりにした冷や汗が止まらない。一部の隙もない立ち振る舞い。圧倒的な威圧感。 「…あれは、一体、誰なのだ…」  分隊長も呆然とした呟きは喧騒に紛れて散った。
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