11-3.喪失

2/2
前へ
/157ページ
次へ
 自身に向けられる凶器、ばたばたと降り注ぐ生暖かい血。ルクレシスの虚弱な四肢はもはや指一本動くことが出来ず、刃が太陽を反射する様を呆然と凝視することしか出来ずにいた。 「!!!」  怒号や悲鳴も掻き消えて、耳には何も聞こえず、喉から悲鳴すら出すことが出来ない。 (皇!)  魂を縛る存在を声にならない声で呼んでいた。  燃える水による奇襲に驚いてルクレシスが暴れたおかげで、蒼天の体からルクレシスの体が一瞬だけ離れた。その瞬間を狙って手に持っていた剣をラーグは投擲した。  皇の飾りがふんだんに付けられた無駄に重い剣だったが、その自重のために軌道がそれることなく空気を切り裂き、蒼天の胸を刺し貫いた。  貫かれた衝撃に瞠目した後に、一転して蒼天は薄ら笑いを浮かべ、手に持っていた剣を振り上げた。道連れとばかりに人質に瀕死の体で剣を振り下ろそうとする。  ラーグは投擲と同時に雑兵が腰に帯びている短剣を引き抜くと、一気に祭壇を駆け上がり、蒼天との距離を詰めた。 「そいつの命を生かすも奪うも我だ。誓約の邪魔立てをするな。」 「暁を、同朋を皆殺しにしたお前は一人でこの泥舟の上に座しているのがお似合いだ。」  内臓を貫かれてなお、起立し、しゃべることの出来ることに驚きだが、蒼天は鬱蒼と嗤いながら、ラーグの剣を受ける。 「自ら半身を手放した者に言われたくないな。行く先が地獄だろうと、崩壊だろうが、あれは魂の一片まで連れて行く。」 「お前が殺したのだろう、暁を。お前に、安寧の夜を…赦さない」  だが力のない刃は簡単に払うことが出来る。至上の主である皇にここまで迫り、宮を奪い、皇軍を翻弄した叛逆者の最期にしては呆気ないな、と妙な空虚感が漂う。 「恨み言は地獄で聞いてやる。先に眠れ、兄弟。」  そのまま短剣を心の臓に突き立てた。  心臓を潰された魂は女神の元には戻れない。永遠に続く辛苦の地獄に落とされると言われる。ラーグ自身も再び転生したいとは思わない。この手にかけた者たちの恨み言を聞くために共に地獄に堕ちるべきだろう。だが、それはまだ先のことだ。  深々と刺さった短剣を伝って、熱い粘液がラーグの手を濡らして行く。皇衣も鮮血によって重く纏わりつき、今世にラーグを繋ぎ止める呪いの枷のようだ。  兄弟であった者の最期の命の火が燃え尽きると、短剣に生命を失った四肢がずっしりとのし掛かってくる。  ラーグはその枷を振り払うように短剣を引き抜いて、蒼天の身体を床に打ち捨てた。    その瞬間に皇軍全体が鬨の声を上げた。 「逆賊は討ち取った!一人残らず処刑しろ!」  事切れたかつての兄弟であり、叛逆の首謀者であった首を掴んで将兵に、潜伏する逆賊に見せつけるようにさらした。燃える水で浮き足立っていた皇軍が熱狂的に皇への賛歌と鬨の声を上げて、応える。  一気に力を戻した皇軍が赤水に率いられて、神官達を猛然と討ち取っていく。ラーグは蒼天の首から手を離した。どしゃりと重い音と共に床に崩れ落ちた。  全てが苛立たたしく感じた。  蒼天の骸の横で震えるルクレシスへ抑えがたい冷たい怒りが湧いてくる。 「ひどい様だな。なぜ我の命に従わず、身を晒した。小鳥一匹括れぬ弱者が」  短剣の前に身体を踊り立たせ傷を負い、ラーグの制止を聞かず踊り子の奸計に乗ろうとした。  誓約をもってしても、これはラーグの手から逃げようとする。  鎖に繋ぐか。薬で頭を壊せばいいか。  昏い思考に塗りつぶされていく。  兵達の上げる割れんばかりの勝鬨も聞こえなくなる。  ルクレシス(これ)の血肉、思考、感情、感覚の一片であってもラーグの零れ落ちていくことが耐え難い。  怯え何も出来ぬままにラーグの手の内にいればいい。  これ以上喪うことにラーグの正気は耐えられない。 (もし喪うなら…) 「…申し訳ございません…我が身はいかなる時も御身の側に…」  惰弱なルクレシス(それ)はその身体を引き摺り、ラーグの足の甲に恭順の口付けし、そのまま倒れた伏した。 (笑止…)  ルクレシスの弱弱しい声がラーグの思考を止めた。  ラーグが手ずからルクレシスの身体を抱き上げると、彼の意識は失われていた。  手に戻った身体の熱がラーグの凍った思考をじわりと溶かす。 『こんな狂った世界は無に帰せ』 『こんな国なぞ守る価値もない』  蒼天の魂の残滓が皇の耳元を過ぎていく。  ランスの贄を腕に抱きながら、《夜明け》の絶望に囚われていた蒼天に返す。 「愚かでも我は命が尽きる時まで、この国の贄として立ち続ける。」 (我が影として見届けよ)  《夜明け》前の日々がひどく淡く感じられる。屈託のない暁が蒼天を連れて、ラーグのものにやってくる。一緒に打ち合いをしよう、だとか、一緒に食事をとろう、だとか、そんな他愛もないことに誘いに来た。  しかし、そんな感傷に浸っても仕方がない。夜が明けて、陽だまりの日々はなくなり、容赦のない太陽の光が同朋たちの骸を明らかにする。  あの夜を生き残った蒼天もラーグの手の内で死んだ。全てが死んでしまった。  腕の中の四肢はぐったりとのしかかっているのに、心許ないほどに軽い。そして常よりも熱かった。傷と心労とを癒そうとする生命の本能的な防衛なのだろう。 (これだけは死なせない)  ルクレシスに向けるこの自分の執着じみた情がなんであるのか知らぬ。  別にそれは何だっていい。同情だろうが、自分の身上を重ねているだけでも。  暁を亡くした蒼天が喪ったものを重ねたのがあの踊り子だったのだろう。始まりの神殿風に仕込み、代わりとして寵愛した。ただの身代わりだったのか、そうでなかったのか。冰を混沌へと突き落とす騒動の末に、その半身を自らの手で壊した。 「我は手放したりなぞしない。」  蒼天の遺骸を一瞥して、力なく垂れる四肢をもう一度、抱え直す。神殿内の両翼の居室群にはすでに紫水の指揮する軍が入り込んで殲滅行動を行っているのが見える。祭場では赤水が抵抗する逆賊を捕縛しているのが見える。一両日中に冰にはびこる反逆者たちは掃討されるだろう。
/157ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2675人が本棚に入れています
本棚に追加