3-3.解離

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3-3.解離

 医師から身体を動かすように言われたこともあって、体術の時間を持つようになったが、そこで指南役として紹介されたのは、驚くほど屈強な男性であった。 「ランスの御方、恐れながら御前に侍らせていただきます。」  足元に拝跪されてもルクレシスを圧倒するほどの逞しさであった。  もともと皇国の人間は狩猟に長けており、背が高く、がっしりとした体格をしている。女性もルクレシスよりも体格が良いくらいで、筋肉のつき方が先ず違う。肌の色も褐色で、瞳や髪は黒色が多い。皇国は長い歴史の中で版図を広げてきた多民族国家ではあるが、大方が南方民族で構成されている。ランス国は北方民族に属し、肌の色も髪の色も薄いことが多い。  ルクレシスの瞳は北方では珍しく色濃い。皮肉にもランス国の王族の最も誇りとするランスルーとも呼ばれる非常に珍しいとされる濃紺の瞳であった。髪は色の薄い白金色である。  北方民族の中でもランスのある地方は平均的にそれほど体格は大きくはない。それでも成人男性の平均身長はルクレシスよりも高い。  ルクレシスは産まれてから、ほぼ軟禁された生活を送ってきた。陽の下でのびのび過ごすという幼少期もなく、運動することも禁じられていたため、身体が育たなかった。祖国ではその貧弱さを嘲笑されることもあったが、皇国にくると一層自分が貧弱に感じる。特に彼のような大柄な男性を前にすると。  黄皇国の者たちにとっても、この客人はまさに壊れ物のようだった。あまりの細く、世話をするときにはうっかり傷つけてしまわないかと戦々恐々として丁寧に扱わざる得ない。皇だけは例外だが。  火の神殿の者を最初に見た時には圧迫感を感じてしまったが、ルクレシスに付き合うことが出来る忍耐強い人物だった。  彼は体術の指南役だということだったが、走ることすらまともにしたことのないルクレシスはすぐに息を切らしてしまうし、足をもつらせてしまう。しかも、次の日には夜伽をした後かのような全身の痛みに襲われて、側仕えに全身マッサージさせることになってしまった。  本来は神官は体技と剣技を教授する予定だったが、剣はそのまま脚の上に落としてしまいそうであったので、次からは庭を散策するというメニューに代えざるを得なかった。  朝、起きると神官がやってきて、半刻ほどかけて内庭を歩いて回る。夕食前にも半刻程、座学で凝り固まった身体をほぐす体操を神官と一緒にする。本来の身体を鍛えるというところまでは道のりは遠そうだが、少しずつ身体がほぐれて行くのが感じられて、ルクレシスは彼との時間を楽しみに思うようになった。  座学では皇国語で読み書きを習う内に、母国語よりも読み書きが出来るようになってきていた。まだまだ子供向けの本ではあるが、本を一冊ずつ読んで行くのが今の楽しみになっている。  何より語彙が少しずつ増えたことで侍従たちと言葉を交わすことも多くなった。皇国語を全く修得せずに来たため、当初は侍従達が大体を察して、動いてくれていた。ルクレシスも彼らに何かを要求するということもなかったので、一言も発しない日もあったくらいだ。夜伽では決まりきった定型句以外言葉は必要がなかった。  今は皇国語を習っていることを知っている侍従たちは進んでルクレシスに言葉をかけてくるようになっている。  生まれて初めて毎日に変化がある。  「楽しい」という感覚を初めて感じた。散策に出かけて楽しい、本を繰って楽しい、みんなが優しくて嬉しい。  でも、何か遠い。  祖国では日がな一日、 窓の外を眺めて過ごして、時折やってくる悪意の嵐に為す術なく打たれるだけだった。 『穢れた血』 『淫乱の子』  侮蔑をこめて投げられる言葉。わざわざルクレシスが軟禁されている部屋まで来て、面罵してくるのは王太子ジシスとその取り巻き達であった。2つ上の従兄がその言葉の意味をどこまで知っていたのか分からないが、周りの大人をを真似て、鬱憤晴らしのようにルクレシスに様々な言葉を投げつける。  ルクレシスはただ黙って耐える他ない。 「おい。聞いてんのか!」  反応のないことに苛立った取り巻きが小突かれて、椅子から落とされることもあった。 「こいつ、白痴だからな。何しても分からないんだってさ。」  最初は大人から咎められたらという躊躇いがあったが、誰にも咎められないと知ると調子に乗りやすい子ども達である。すぐに暴力に遠慮がなくなる。  ルクレシスの細い身体は少年たちの力に対しても無力で、突き飛ばれた際に打ちどころが悪くて、意識を失ったこともあった。目を覚ましたら、母親がさめざめと泣いていて、悲しませて申し訳ないと思ったのを覚えている。  彼らが咎められたのか知らないが、流石に目立つ怪我をさせると不味いと思ったのか彼らは力づくの暴力から陰湿な暴力へと変えた。 「淫乱の子は淫乱なんだってさ。こいつも淫乱なのかな?」  取り巻きの誰かが、誰かが「脱がしてみろよ」と服を剥ぐように命じる。  力ずくで服が引っ張られ、元々襤褸の服が嫌な音を立てて破れた。そしてルクレシスの身体中を抓ったり、嘲笑して辱めるのだ。  嬉々としている彼らが恐ろしかった。しかし一番恐ろしかったのはそれを爛々とした目で見ているジシスだった。目が合うと「生意気だ」とより激しい仕打ちを受けることになるので、ルクレシスは目を伏せて、ただやり過ごす。  ルクレシスにつけられていた下男下女は全くの素知らぬ振りで、それどころか破れた服のことでルクレシスを折檻することもあった。    心を隔てていると、何も感じなくてすむ。痛みも悲しみも憤りも遠くなって、不確かなものになる。遠くにあって、それはルクレシスの上を過ぎていく。自分はそれを見ているだけ。 (母上はどうして居られるか…)  自分と同じ白金の髪の母は、いつも泣いていた。自分を孕んだばかりに辛い思いばかりして哀れだった。  権勢を誇る貴族に生まれ、前途洋々であったはずが、王妃の傷心につけこんで王城に入り浸り、王を誘惑した姦婦だといわれるようになった哀れな女性だった。  自分が王族として認められたのであれば、母の立場も変わっているのだろうか。 (願わくば、あの人に平穏がありますように…)
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