1-3.籠の内

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 冰の臨時の執政官となった紫水は、瑠璃の宮が意識を取り戻し、回復傾向にあることを聞きながらも、見舞う時間も取れていなかった。  未だ側仕えの手引きが無ければ歩けぬという報告に真実(まこと)かと疑うことは致し方ないだろう。瑠璃の宮が虚弱というのも有るのだろうが、宮の使用人達が過剰に甘やかしているという方が真実だろう。  命を賭して仕える主を賊に拐かされた宮の使用人の悲嘆が相当であるのは想像に難くない。  誘拐されていた間は、時間にすれば一日にも満たなかったが、瑠璃宮の老年の侍従長は一晩で一気に老け込んだ程だ。  あれの境遇が不遇だったことが輪をかけて、使用人達を過保護に走らせるのだろう。未だに幼な子のような頼り無さだ。  彼の生い立ちについて紫水も同情はする。半血であること、濃紺(ランスルー)であること、虚弱であること、それらは瑠璃の宮の責ではない。しかし、精神薄弱なまま無知に甘んじて居ては、彼は一生あのままだ。  皇は飼い殺す気だ。彼が居れば皇は概ね機嫌が良い。皇に訪れる嵐のような狂気は瑠璃の宮がいることで凪ぐ。だが霧散するわけではない。  徐々に少しずつ狂気は皇を侵食する。その妄執は倦んで、いつか瑠璃の宮を喰い殺し、皇を喰い潰すだろう。  紫水にとって唯一無二で至高の主は皇だ。皇に正面から見据えられた時に紫水は皇に全てを捧げることを誓ったのだ。何とか皇が狂気に堕ちてしまわぬように、瑠璃の宮を引き摺り上げねばならない。  たとえ皇が望んでおらずとも、我が主の破滅を引き留めたいのだ。  なのに紫水は冰の臨時執政官として留まらざるを得なくなってしまった。しかも、為すべきことは死刑執行書への皇の代理としての自身の真紋を押していくことだ。  紫水は文官ながら、これで何人を葬ることになるのか昏い息を吐く。 「宮様…少し休まれませんと…」  心配そうな顔で侍従が恐る恐る申し出るが、それにも嘆息で返す。  一日でも早く冰を平定しなければ、この弱体化しているところを帝国に突かれるのかもしれないのだ。休んでいる暇などない。  反逆者を根絶やしに、冰の民をひたすら従順であるように圧倒的な力で支配せねばならない。彼らの財産は全て没収され、皇国のものとなる。公奴隷として、女子供は農作業に従事させ、男達は石切場で働かせる。  抵抗する者、財産を秘匿しようとした者達は皇軍によって捕縛されて、見せしめとして刑に処される。公奴隷の中でも烙印持ちになると一層処遇は厳しくなり、同じ公奴隷同士も弱い者を虐げることで日頃の鬱憤を晴らすようになる。  陰惨とした空気が日々広がるのは致し方ないものの、紫水は暗澹たるため息を吐くしかできない。 「新しい執政官と神官の就任があり次第、皇都に戻る。それまでに片をつける。今しばらく無理をかけるが頼むぞ。」  紫水が休まぬ限り、侍従達も休むことはできない。負担をかけていると思うが、あと一週間もすれば、皇都から着任があるだろう。そうすれば、引き継ぎが終わり次第、皇の元に帰還することができる。  長大な距離を移動しなければならないことが鬱陶しいが、こんな南の最果てまで来てしまった以上致し方ない。  紫水が皇から離れたことは未だかつてなかったことである。早く戻らねばと焦る。  皇と瑠璃の宮の共依存的な関係を不思議に思っていたが、皇と離れていることに焦燥感のある自分のことを考えると嗤えない。 (皇と瑠璃のそれとは違うだろうが…)  皇が瑠璃の宮に真名をお与えになったと閨番の報告で聞いた。  紫水は最も皇の近くに居たはずなのに、やってきたばかりの瑠璃にこうも簡単に持って行かれるとは思っていなかった。  それが色情を含んだ嫉妬かというと違うだろうと思う。皇のことは男としては尊敬しているが、男色の気は自分にはない。幾度かは体を重ねたが、それは仕えるという意味合いでだ。丁度、飼い主に嫁が出来て主人の関心を奪われた犬の嫉妬のようなものだ。  紫水自身、皇に依り頼みすぎなのかもしれない。目が覚めてから、寝台に身を横たえる瞬間まで全て皇の側にあった。 (だから皇は還俗して婚姻することを勧めるのか。)  紫水がのらりくらりと躱すので皇もそれほど言ってこないが、数度、還俗して妻帯しても良いと言われたことがある。皇の側以外に魅力的に思える場所もなくて、そのようにすることもなかった。   (そういえば、最近全く閨事に久しいな…枯れたか…いやいや…)  疲れているからか、思考が変な方向に捻れていく。今日くらいは男娼を買ってもいいかもしれない。 (できれば…可愛い気のある子がいいんだが。)  ただ、神官も男娼も大抵、人を喰ったような可愛げのない奴が多いのが難なのだ。  思考が仕事から逃げているのを無理矢理仕事に戻す。  冰の平定とともに、始祖と言われた大逆人の使った奇術のような水を燃やす術についても調査をせねばならない。  燃える水は皇軍を無様に狼狽させることには成功したが、切り札ではなかった。あんな苔脅しを皇軍に対して仕掛けて始祖は何をしたかったのか。 (燃える水の存在を顕示しただけではないか…)  水は火を消す作用がある。水が燃えるはずがない。ただ、石もそれ自体が燃えることはないのに、火石だけは燃える。本来燃えぬ物が燃える、そこには神の奇跡が宿っているからだと説明されるが、何か絡繰があるはずだ。  火力は国力だ。ランスという小国が独立を保っていられるのは、各国が互いを牽制しあって、均衡をとっているためだ。  もう一つは火石の毒のためだ。  ランスの谷の寿命は周辺諸国に比べて異様に短い。何より火石が産出される谷の寿命は四十にも満たないらしい。他が六十近い中で極端である。鉱脈が深くなればなるほど、小柄な子供が危険きわまりない火石の採掘に入るようになり、谷では三十過ぎの成人を見かけることは稀とと、ランスの中枢に入った高位神官の報告もあった。  内情惨いほどの猛毒だ。誰もこの毒を身のうちに呑み込みたくはない。  この恐ろしい事実を火石を求める各国は知らぬふりをしている。ランスの谷に押し付けて利潤にだけあやかろうとする。  皇国も同様だ。火石に頼るしかない。火石に頼るしかないから瑠璃の宮は人質として皇国にやってきた。寵童としての瑠璃の宮ばかりが目立つので忘れてしまうが、彼は皇国への火石の定量輸出の手形なのだ。火石の輸出が止まれば、皇国は帝国に進撃されずとも瓦解するだろう。それは帝国も同じである。  だからこそ燃える水の存在は脅威になり得る。火力量は国力に直結する。燃える水はこの大陸の勢力図を一変させる可能性があるのだ。
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