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哉多が間違いなく館へと戻るのを確認しがてら、ちらとこちらから見える窓の方に目を向けた。
建物の角度的に図書室や彼の部屋からこの場所は見えない、と思う。少なくともこの東屋の中は絶対に窺えないはず。
頭ではわかってるんだけど。それでもわたしにとって思い出のこの場所で、他の男の子と変なことしてるなんてかけらも思ってほしくないし。彼に知られなくてもどのみち自分で自分のことがますます嫌になりそうだ。
じゃあ室内でこそこそとならいいのか、って考え出すときりがないが。わたしの身体はわたしのものだし誰にも迷惑かけてない。誰と何したって悲しむ人も傷つく人もいないんだから、といつも通り自分に言い聞かせた。
それでもどことなく疾しいのは。やっぱり特別恋をしてるわけでもない相手と大した必然性もないのに成り行きでなあなあな関係を持ってる、ってことが我ながら上手く整理できてないんだろうな。
哉多との仲が終わったら、次に万が一何か適当な機会があっても今度こそスルーしよう。こういうのがどんなもんかは一応わかったし。
してるときはそれなりに気持ちいいし何も考えられなくなる瞬間があるのはありがたいけど。
なければないでもう一生なくても別にわたしとしてはどうってことないな。と疼きの残滓となかなか乾きそうもない湿った下着の感触に閉口しながら、わたしは要らないバラの花の首をぱちん、と勢いよく切り落とした。
季節はさらに進んで、本格的な秋になった。わたしがこのお屋敷に来てからもう三度目の秋シーズンの庭園公開だ。
春と秋通して数えるとカフェももう五季目だから。わたしと澤野さんもすっかり慣れて、取り回しはだいぶ楽に感じられるようになった。バイト数人に来てもらってシフトを組んで、ある程度は任せられる。
就活も終盤であとは数社に絞られてきたから時間的な余裕出てきた、と言い張る哉多も時折顔を出して、昔取った杵柄で補助してくれるので正直少しは楽できたし。最初の頃に較べるとあっという間に公開期間が終わった気がした。
その間も着々とホールとパーティールームの改装は進んでいた。
バラ園に一般のお客さんが訪れている期間は大きな機材の搬入とか、工事の音が酷い作業は避けてもらっていたけど。その間も庭園公開に差し支えのない工程は進行していたので、クリスマスや新年を待たずに思ったより早めに改装は完了しそうだ。
柘彦さんがそのことをどう感じているのか。確かめられる機会はわたしには全くといっていいほどなかった。
今では呉羽さんがこちらに来ていない日は、彼はほとんど自室から出て来なくなった。わたしがその顔を見ることは滅多にない。
出て来るのも彼女に促されてダイニングでディナーをとるときか、お客さんを招んでその接待をさせられる時だけ。彼の自然で落ち着いた様子を見たのはもうずいぶん以前、結婚前のことだ。
最近はいつでも張りついた能面のような無表情とガラス玉のような何も映していない目。お客さんや呉羽さんから話を振られればきちんと失礼のない範囲で受け応えているが、その調子といったら何だかあらかじめプログラムされたAIが喋っているようだった。
あれを耳にして結婚する前と何も変わらないと判断する人たちの感覚が信じられない、と料理をサーブする役割に徹しながらこっそりと心の中で思う。呉羽さんはまあ、以前の彼を知らないから比較対象がそもそもないし。仕方ないと言えばそうなんだけど。
茅乃さんのみならず澤野さんも。柘彦さんが以前と違っててなんか様子がおかしいとか、全然感じてもいないのかな。と不審には思うがこちらからそういう話題を持ち出していいのかわからずにいた。これ以上夫婦のことに口を出すな、と茅乃さんから既に牽制されてしまったし。
彼女の考えとしてはあくまでわたしを心配しての話で、怒られたわけじゃない。だけどそう言われて改めて意識してみると、確かに呉羽さんが時折こっちを伺ってるような目つきを向けることがあるのに今さらになってようやく気づいた。
料理を運んだりお皿を下げたりするためにわたしがダイニングに入ったときに、何気なく柘彦さんに話を振ったり何か尋ねたりして喋らせよう、とすることが多いように思える。それで彼が常識的なつつがない反応をすると、ほらね。何も問題ないでしょとでも言うかのように独特な間を持たせてわたしにちらと目を向けたりするのだ。
一度、思わせぶりにこっちに目を向けてからわざとのように、ふとその場で彼を病院に連れて行って検診を受けさせたときの話を始めたことがあった。
「よかったわ、柘彦さんがお医者様にかかるのをちゃんと承知してくれて。この人ったら、もう何年も健康診断受けたこともなかったんですよ。自分のことには本当に無頓着なひとなんだから、とても放っておけないわ。わたしと結婚する前は一体どうしてたのかしら、全く」
「自覚症状なくても進行する病気もありますものね。だけど、特に異状はなかったんでしょう?結局」
招待客の女性がそつのない相槌を打った。
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