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呉羽さんはやや大袈裟にため息をついてそれを肯定した。
「そうなんです。本当によかったわ、何事もなくて。もともとこの人体質的にいろいろと不安な点があるし。太陽の光を思う存分浴びて運動することもできないんですもの…。それなのに、自分を顧みることもなくて。誰かついてないと駄目なタイプだと思うの」
「じゃあ、結婚なさって正解ね、柘彦さん。よかったじゃない、こんなに体調を気遣ってくれる奥様と一緒になれて」
話を振られても特に動じた風もなく、彼は機械的な淡々とした声で応じた。
「はい。この方はいろいろな面で。僕のことを考えてくださっています」
以前のディナーのときみたいに感情がこもっている話し方ではなかった。反射で上っ面だけ話を合わせてるみたい。
だけど呉羽さんは特に違和感を覚えなかったのか、やや誇るような笑みを浮かべてほんの一瞬ちら、とこちらを伺ったように見えた。
わたしは何も気づかないふりをしてまとめた皿をしっかり持ち上げて小さく頭を下げ、その場を辞す。
巻き込まれたら駄目なのはわかってる。どのみちここでできることは何もないし。
わたしを撃退して気が済んだのか、彼女がさっきより砕けた口調でその話題を続けたのを背中で聞きながら隣のキッチンへと撤退した。
「何年間もろくに運動もしていないのに健康状態が維持できていたのは本当にラッキーだったとしか言いようがないんだけど。お医者様が仰るにはあまりにも閉じこもりきりなのはやっぱり精神衛生上よろしくない、時には気分転換が必要ってことらしいのね。でもこの人、こういう性分だから。いっそ思いきって旅行に連れ出すとかもいいのかも。この家にいるとどうしても自分の部屋に引っ込んでずっと出てこなくなりがちだから…」
「それじゃあ、いっそ呉羽さんの出張にご主人もご一緒に同伴されたら?思いきって海外に滞在するのもいいかもしれないですよ。日本にこもっているより気分も解放されますしね」
同席してる男性が話を合わせると、呉羽さんが弾む声ですぐさまそれに同意するのが聞こえた。
「ああ、いいかも。そうすれば行った先々で。わたしの伴侶です、って紹介して回るいい機会にもなるしね…」
いやちょっと。それはいくら何でも相当に酷いよ。
振り向いて口を出したくなるのを必死にこらえた。
夫婦が内々で話し合って決めるべき話だ。当然わたしに口出しする権利はない。
だけど、それでも。普通にご自身の夫を見ていれば、彼が知らない人たちに囲まれて社交をこなさなきゃいけないことに潰れそうな負荷を感じているってことくらい理解できそうなものだ。
離れたところからたまに目にするわたしでも彼の弱りゆく状態はありありとわかるくらいだから。奥さんなら察してあげられてもいいと思うのに。
と憤然となったけどやっぱりその場で介入して話に口を挟んだりはできなかった。呉羽さんが怖い、ってわけじゃない。だけど、お客さんたちに失礼になるだろうし。部外者の前で非常識なふるまいもできない。
これが身内しかいない場だったら彼女にどう思われようが一度思いきり意見してみたかったけどな。いやまあ無駄か。むしろ、わたしみたいなもんが訳知り顔で話に入っていって彼を庇えば。
こっちがつらく当たられるくらいで済めばいいが。おそらく、自分は間違ってないってことを証明するために柘彦さんをもっと叱咤して今以上にがんがん連れ回して、ほらね全然大丈夫でしょ。とかえって意地になって見せつけてくるおそれさえある。そのあと反動で本当に彼の心身が壊れてしまえば取り返しがつかないし。
本当にわたしができることは何もないのかなぁ。直接呉羽さんに意見するのは悪手だって判断して、思いきって茅乃さんに介入を頼んでみたけど結局何も通らなかったし。
彼自身が自分で主張できればもちろん問題ないわけだけど。この様子を見てると本人に全くその気が見られないのも気になる。
まるで自分がこの先どうなるかはもう関心がない、抗う気力は全然なくてただこのまま衰弱して消えてなくなっても構わないって思ってるみたい。わたしはそれじゃ嫌だ、何でもいいからとにかく生きていてってどうやったら伝えられるだろう。
だけどそれも彼にとってはきっと迷惑な話なんだよな、とぐるぐる巡る苦悩で頭をいっぱいにしながらお皿をシンクに入れて水栓を捻る。ざあざあと溢れ出す水の音に紛れてわたしは深く重いため息をついた。
「眞珂」
意地悪な声じゃない。むしろ柔らかい、優しいといっても過言じゃない喋り方。だからといってこいつが本当に優しいのかどうかは。また全然別の話だが。
「…ほんとに可愛いね。今の、その顔。…恥ずかしがらないで。もっと脚、開いて?」
「ん、あっ。…でも」
わたしはどうしようもない羞恥と切なさで身を捩らせた。何も、わざわざあえて見なくたって。そこがどんな状態になってるかはどうせ。全部わかってるくせに…。
こんなにそこが火照ってじんじんするのは。別に頭の上で縛られた手首のせいじゃない、と自分に必死で言い聞かせる。
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