第19章 空虚を埋める

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今までうっすらと考えていなくもなかったことをつい、うっかり口に出してしまった。 茅乃さんは多分これまで何度か他人からそう言われた経験があるんだろう。全く怯まず落ち着いてその案を否定した。 「わたしじゃ外からお金を引っ張って来られないもん。身内同士で一緒になっても資産的には全然プラスがないから、意味ないよ。それにこっちは向こうの世話一方的に焼くだけで、特に得るものもないからね。わたしは社交界に出る立場じゃないから。旦那が美形でも見せびらかす場所も意味もないよ」 「…ほんとに結婚にメリットデメリットしか意味見出さないんですね」 ここで恋とか愛とか持ち出してもしょうがないが。とうんざりと呟きつつ、でもそれこそが茅乃さんと柘彦さんの間に決定的に欠けてるものなのかも。と案外本質を突いたことを考えた。 お金なんてあってもなくても、お互いの間に親密な愛情があれば二人はとっくにそういう選択をしていたに違いない。これまでに時間はたっぷりあった。 「その点呉羽さんの場合は家や資産や育ち、教養と併せて夫だってどこに出てもマウントの道具になる立場なんだし。他人より目立ったり優位取れるポイントは少しでも多く持ってた方がいいでしょ。そうやってお互い必要なものを相手に期待できると踏んで一緒になった夫婦なんだから。周囲が傍から余計な口挟むことでもないと思うけどな」 そりゃあなたは。呉羽さんから館の改修費用を引っ張り出せたってことで目的を達成できたんだから、二人がどうなろうと知ったこっちゃないんでしょうが。 わたしはだんだん心理的にエキサイトしてきて、彼女のデスクに両手を突いてぐ、と半身乗り出してここぞとばかりに言い募った。 「だけど。本人が苦手って誰もがわかってる場に、あそこまであちこち連れ回す必要ないじゃないですか。この上自宅まで社交場になっちゃったりしたら…。いくらそれが目的で結婚したからと言っても限度があります。最近のあの方の表情や顔色、茅乃さんだって見てるでしょ。あんな…、虚ろで人形みたいな顔つき。いつも真っ青で血色も悪いし。どこか身体悪くしてるんじゃないかって。誰も心配してあげないんですか?」 「それは大丈夫。呉羽さん、あの人を病院に連れてって検診を受けさせるのに成功したから。今のところ特に健康上の問題はないらしいよ。これまであの体質なのに、滅多に診察も受けたがらなかったから。そういう意味でも奥さんできて彼にはよかったんじゃないかな、結果として」 「あ。…そ、ですか」 あっさり切り返されて予想外の内容に口ごもる。 まあでも、お医者さんに診てもらえてたのは意外ながらありがたい話だ。もともと虚弱体質なはずだし、本当にあんな辛そうでどこか悪くしてないのかな。ってことはずっと一番頭に引っかかってたから。 茅乃さんはパソコンの方にちらと視線を戻し、軽くかちかち、と音を立ててマウスを操作しつつ淡々と言葉を継いだ。 「今後は定期的に検診を受けさせるように取り決めもしたらしい。傍で思うより当人たちもちゃんと考えてるって思った方がいいよ。まあ、あんたが心配で気を揉むのもわかるし、その気持ち自体は柘彦さんにとってはありがたいことだとは思うけどね。健康上の問題がないんだったら本人たちがいいって言うんなら任せておけばいいんじゃない。彼だって、ああ見えて本来いっぱしの大人なんだから。本当は嫌なら嫌だって自分の口からはっきり表明しようと思えばできるはずじゃないの?」 尤もなことをずばりと指摘されて図らずも怯む。 「それは。…そうなんですが。でも」 彼がこういうとき、ちゃんと自分の意思を表に出して戦える人ならそりゃ心配ないだろうけど。何かの理由で自己主張できず本当は嫌でたまらないのを押し込めて彼女に従ってるとしたら。このままでいいのか? そこまで考えて一瞬思い淀む。…そういえば、結婚前までは。何があっても頑として自分の意思を曲げない、絶対他人の意のままにならない扱いづらい人としてお屋敷中の人間に認識されていたのが柘彦さんだったんだっけ。 昼間は起きてこないで夜中に活動はする、食事は他の人と一緒には絶対に摂らない(時折わたしとは例外)。大学まで出たのに仕事はしない、外出絶対しない、対外的な場には出ない。頑なにそれでやってきたのに、どうして今は抵抗もせずに奥さんに従っているんだろう。 わたしは俯いてしばし黙り込んだのち、頭の中でもやもやと渦巻く違和感を何とか言葉で表現しようと努めた。 「…だけど、あの方。どう見ても喜んであんなことに従ってると思えないです。渋々、だとしてもそういう表情を見せてればまだいいんですが…。いつも能面みたいに無表情だし顔色もすごく悪いし。何か、奥さんのすることに対して抵抗できないでいる理由があるんじゃないですか?」 「眞珂は何らかの理由であの人が奥さんに強制されて支配されてる、って本気で考えてるわけ?」 茅乃さんはマウスを操作する手を止めて真っ向からわたしを見上げて尋ねた。…そうはっきり訊かれると。
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