夕立の匂い

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「雨が降りそうだから洗濯物しまっておいて」  夏になると母は、電話越しに私にそう言うことが多かった。  鍵っ子だった私は、学校から帰るといつも家で1人で過ごしていた。  母が電話をかけて来た日はいつも本当に夕立に見舞われた。  私は洗濯物を取り込む度に疑問に思った。 「どうしてお母さんは雨が降るってわかるの」  何度か私は母にそう尋ねたが、母はいつも、 「匂いでわかるのよ」  と私の納得のいく答えを教えてくれることはなかった。    いつからか私は母からの電話が来る度、窓を開けて外の匂いを嗅ぐようになった。  それでも雨が降る日と降らない日の違いなんて分からずにいた。  それからも私は、毎年夏が来る度、母からの連絡を受けると外の匂いをかぎ続けた。  連絡手段が家の電話から携帯に変わり、電話からメールに変わっても、私は匂いを嗅ぎ、その度に首を傾げていた。  そんな私も20回目の夏を迎えた年のある日、大学からの帰り道、雲が空に広がった様子を目にし、不意に匂いを嗅いでみた。  匂いを嗅いだ私は急に急がなければと思い、走り出した。  そして家に着いた私は急いでベランダの洗濯物を取り込み、一息ついた。  すぐに雨の音が部屋まで響いた。  その日、私は初めて夕立の匂いというものを知った。  やっと分かったよ母さん。  母が帰宅すると、私は子供がはしゃいでるかのように母にそのことを報告した。 「なんだい、やっとわかったの」  母は少し呆れているような笑い顔でそう言った。────      それから10数年、仕事の最中、夕立の匂いを感じた私は娘に電話をかけた。 「雨が降るから洗濯物を取り込んでおいて」  家に帰るときちんと洗濯物はしまわれ、私は娘を褒めた。  すると、娘が私に尋ねた。 「どうしてお母さんは雨が降るってわかったの」  私は思わず笑みを浮かべた。  懐かしい気持ちになり、同時に母の当時の心情を想像してみた。 「匂いでわかるのよ」    そう言って、私はその場を後にした。  去り際、今は亡き母の遺影に顔を向けると、母が笑ったような気がした。
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