罪の雨

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 天気予報によると、今日の夕方には局地的(きょくちてき)に雷雨になると言う。  美都子(みつこ)は首からかけた手ぬぐいで汗を拭うと、空を見上げた。 「やっぱり、雲が出てきたねぇ。今日は少し早めに仕事を切り上げようか」  夫には去年先立たれてしまったが、長男夫婦と同居している。  長女は関西に嫁いでいるが盆正月には孫とともに帰ってきた。  今年、八十になる美津子の日課といえば何十年変わらず毎日、畑に出て仕事をすることだった。働き手が減ったこともあり農業の収入だけでは安定せず、長男が出稼ぎに出ている。  嫁は、久方ぶりに孫を連れて里帰りをしているので今日は、雷雨が来る前に仕事を切り上げる事にした。  美都子は、のんびりと好きな俳優が出ている刑事ドラマでも見ようかと考えていた。  手ぬぐいを頭にかけ、籠を背負って田んぼのあぜ道を歩いていると、衝撃と共に頭部が熱くなって反射的に頭を抑えた。  何事かと手のひらを見ると血で真っ赤に染まっていた。 「ううう……!」  振り向くと、般若(はんにゃ)の顔をした女が石を振り上げたかと思うと、もう一度ガツンと大きな衝撃(しょうげき)が走って倒れ込んだ。  籠から転がり落ちる野菜に雨がポツポツと落ちて、額から流れ落ちる血の間からその女を驚愕の表情で凝視する。  ――――まさか。  ――――どうしてあんたが。   美都子は夕立の冷たい雨を感じながら、絶命する寸前に呻いた。    ――――この女の顔には見覚えがある。 ✤✤✤  終戦直後から、焼け跡地にはヤミ市の露店がひしめき合って並び、違法な売買が庶民の生活を支えていた。  美都子は父親を戦争で無くし、母親と共に姉弟を支えるためにヤミ市の赤線で働いたが、ある日そんな生活に嫌気がさして母親と自分の稼いだ金を持って地方に飛んだ。  もともと、金遣いは荒く盗みにも抵抗は無い性格で軽薄だった美都子は家族になんの未練も無かった。  派手な娼婦の格好は、よそ者への監視が厳しい田舎では浮いてしまうので、ヤミ市で適当に購入した地味な服に着込んだ。  家族も仕事も捨て、自由になれる場所が欲しくて列車に飛び乗ったは良いものの、見知らぬ土地でなんの宛もなく、ただ気のみ気のまま都会を出てきた美都子に仕事など直ぐに見つかるはずもなかった。  すぐに所持金と、食料が底を付いた美都子はフラフラと田んぼのあぜ道を歩いていた。  こんなことならば、逃げ出さず進駐軍(しんちゅうぐん)の相手をしていれば良かったと思ったが、帰ったところで軍人上がりの悪い奴らに折檻(せっかん)されるだけだ。 「雨でも降ったらたまらないわね」  夏の天気は崩れやすい。  夕立が来ては叶わないと早歩きをしていると、前方に(かご)を背負った老婆が歩いていた。  ――――魔が差すとはまさにこの事だろう。  美都子は空腹さと金欲しさに我を失っていた。手のひらほどの石を掴んで近寄り、老婆の頭を殴り付けた。 「ううう……!」  一度老婆を怯ませ、金と食べ物を脅し取ろうとした美都子だったが目を見開いた老婆の姿があまりにも恐ろしい。  しかし、なんとも言えない奇妙な感覚を感じていた。  そして我に返って自分がとんでもない事をしでかしてしまった焦りと、老婆に顔を見られてしまった事でパニックになると、もう一度高くとどめを刺すように石を振り上げると絶命させた。  ポツポツと雨が強まり、雷の音が鳴り始め美都子は、その場から一目散(いちもくさん)に逃げ出した。  この豪雨なら、雨が殺人の証拠(しょうこ)をすべて消してくれるだろう。  老婆の死に顔は恐ろしく、結局何も取れず逃げ出して、農家の玄関先でうずくまっていた所を助けられた。  それから美都子は、記憶喪失(きおくそうしつ)(よそお)い、この農家の長男と親しくなると、仄暗い罪から逃れるべく男の元へと嫁いだ。  だが、おかしな事にいつまで経っても老婆の遺体が見つかる事はなく、行方不明になったと言う噂も全く聞かない。  そして不思議なことに美都子のもとに刑事が聞き込みに来るような事は一度もなかったのだ。  警察に捕まる恐怖に怯えていた美都子も子供が生まれ、この土地にも慣れ幸せな日々過ごすようになるにつれて、次第(しだい)にあの日のことはすべて白昼夢(はくちゅうむ)だったに違いないと思うようになっていった。  やがて子供たちも結婚し、無事に孫も生まれ順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の余生を過ごしていくうちに、その出来事もいつしか記憶の彼方へと消えていった。 ✤✤✤  天気予報によると、今日の夕方には局地的(きょくちてき)に雷雨になると言う。  美都子(みつこ)は首からかけた手ぬぐいで汗を拭うと、空を見上げた。 「やっぱり、雲が出てきたねぇ。今日は少し早めに仕事を切り上げようか」  罪の雨/終
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