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【逢瀬】おうせ
図書室を閉める時間まで、残り30分を切った。もうじき、エリスが来る。
作者のあとがきを含めて、193ページ。
読み始めたとしても、物語が佳境に入ったあたりで栞を挟むことになるだろう。
それは都合が悪い。カトリは薄い文庫本を書棚に戻し、貸し出しを行うカウンターに引き返した。
物静かな文学少女が生徒の半数を占める、私立Y女学院。その図書室はいつも静かだ。
近くの区立図書館のほうが蔵書が豊富だといって、皆そちらに流れる。
カトリはカバンの中から、国語辞典を取り出した。暇つぶしに新しい言葉を覚えて、すぐに忘れようと思い立ったのだ。
心を無にして、ぱっと開いたページには、こうあった。
【黄泉】よみ
初っ端から、なんと縁起の悪いこと。
カトリの眉間に皺が寄る。
しかし、純粋に字面だけを見てみれば、どうだろう。とても死者がひしめく、おどろおどろしい世界を意味するとは思えない。人差し指でふりがなを隠しながら思い描いたのは、レモネードが湧き出る噴水だ。
黄色いしぶきを立てながら、広い水盤を裸足で思いきり駆け回りたい。この夏の暑さを、ものともせずに。
辞典を閉じて、再びぱっと開く。
【玉響】たまゆら
ほう。音と意味は知っていたが、こういう字を書くのか。
人差し指で、ふりがなを隠す。なんとなく人名のように見える。遥か昔の中国に生きた、薄命の歌姫。そんな感じだ。
彼女の死後、その美しい歌声は伝説になり、永久に語り継がれ、人々の中でいつまでも生き続ける。ずっとずっと、長く。
さてもう一度、と辞典を閉じたとき、カトリは窓の外が暗くなっているのに気づいた。
【夕立】
これもそうだ。この二文字から、雨を連想することなどとうてい不可能だ。
燃える夕日を背にしたその人の顔は、逆光のせいで判別できない。それでも、強い意思を宿した両眼が、こちらを見つめているのがわかる。
窓の外で、ざああっという音が鳴り始める。
すると、校庭へ繋がる非常口の引き戸が、音を立てて開いた。
「待たせたね、カトリ」
「そこから入るなと言ったはずです」
カトリが言う。
夕立の中から現れた侵入者は、濡れそぼった長い髪を豪快にかきあげた。はしばみ色の目を縁取るまつげが、ぱっぱっと水滴を飛ばす。まるで新しい惑星が誕生する瞬間のようなまばたきを、カトリはできる限り平常を装いながら眺める。
彼女がエリスだ。漢字で書くと、【襟守】。
いついかなる時も襟を正し、規律を守る。字の並びからはそのようなイメージが感じ取れるが、残念ながら本人はご覧のありさまだ。苗字なのだから仕方がないだろう、と本人は言う。
「タオルはどうしたんですか」
「降る前から、びしょびしょさ」
ちなみにカトリは、【佳図里】と書く。こちらは親から賜った、名前である。
どことなくスクエアな印象の三文字には、生真面目な性分がよく出ていると思う。
そんな自分の名前を、カトリは大層気に入っていて、同時に、ちょっとつまらない、と思っているのだった。
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