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「な、なんで……」
彼の名前を呼ぶことはできなかった。
声が震えて。うまく言葉にならなかった。背筋を冷たいものが駆け上がっていくのを感じた。恐怖、だろうか。
間宮さんの家に連れていかれた夜、一度だけ私は彼に榊くんの安否を尋ねた。けれど「知る必要はない」と取りつく島もなく言われ、加えて急に間宮さんの機嫌が悪くなってしまったように感じたのでそれ以降自分から話題をふることはしなかった。
――まさか生きてたなんて。
組の金を横領して幹部の恋人と駆け落ちしようとした。殺され、海に沈められてもおかしくはない罪状だ。
けれど榊くんは生きていた。そうして今私の目の前に立っている。しかも五体満足な状態で。
最後に会った時よりも髪が結構伸びていて毛先があちらこちらにむかってはねていた。やつれた表情をしていた。
「よう、華。元気だったみてえじゃねえか」
「……榊くん」
今度はなんとか声を絞り出すことができた。
体に力が入ってくれない。ベッドの背もたれに体を預けたまま動けない私にむかって、彼は右手を近づけてきたかと思うと手の平で一発頬を叩いた。
「っ……」
「よくも俺を売ったな」
そのままベッドの背に手をついた榊くんは、ジリジリと顔を近づけてきた。
「俺は死にそうな目に遭ってたっていうのによ。お前はぬくぬく安全地帯ですごしてやがって。聞いたぜ。お前今、間宮の家で暮らしてるらしいじゃねえか」
――別に売ったわけではない。と言うと語弊が生じるかもしれないが、私はただ単に逃げ出したかったのだ。あの環境から。空気がどんよりと澱んで、いつからこうなってしまったんだっけと考え続ける生活から。
だいたい先に私を捨てたのは榊くんじゃないか、と思ったところで正論なんて通じない相手だったと気づいた。
それが通じるなら彼はDV男になどなっていない。
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