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覚えている。
お父さんとお母さんと三人でいつも歩いたことを。
家から公園、その茂みの奥、青原山から流れる神様の滝まで。
そこで私たちはいつも神様にお願いするの。
「美佳子が素敵な女の子になれますように」
今の私は知っている。
神様はいないということを。
私にはアザがある。この世に生まれたその日からずっと。
右眉の下から右目の周囲と頬にかけて灰紫色をしたそのアザは、いつからか私の心の中にも出来てしまっていた。
「美佳ちゃん、今日は帰りが遅くなっちゃうからお父さんと先に食べててね」
そう言うと、いつもの白いスニーカーを履き母は家を出て行った。
全国チェーンの書店に勤める美佳子の母は、休日以外は十八時頃に帰ってきて食事を作る。所謂サラリーマンの父は十九時から二十時の間に帰ってきて私を含めた三人で食卓を囲むのが、物心ついた時から十三歳の今日まで続いている彩木家の日常だ。月に一度、在庫の確認の日には母の帰りが遅くなるので、父が帰ってから定番の野菜炒めをつくるのも当たり前になっている。
「はあ……」
洗面所の鏡に映る見慣れたはずの自分に思わずため息が出る。
どんなに目がぱっちりとしていても、地域では可愛いと評判の制服を着ていても、精一杯の笑顔で笑ってみても、気分が晴れきることはない。できるだけアザが隠れるように頬の辺りが長めにカットされた黒い髪は、「今日はきっと雨が降る日だ」と直感するときの薄暗い雲のように、自分の心さえも覆っている気がした。
美佳子は母が八時に出かけてから中学校に行くまでの十五分を家で過ごす。特別な用がない限り、早めに学校に行くことはない。家からの一年二組の教室までは早歩きで十五分。本鈴のなる八時三十分ぴったりに席に着くのが、中学に入ってからの美佳子の日課だった。
「では、今日のスペシャルゲストの登場です。どうぞ」
「みなさん、おはようございます。月城ひびきです。本日はよろしくお願いします」
美佳子が学校に出掛けるまでの十五分はいつも格別興味のないニュース番組をぼんやりと観ていることが多いが、この日は少し違った。新進気鋭の女優、月城ひびきが朝の情報番組に出演していたからだ。
月城ひびきは二十歳になったばかりの女優だが、デビューしてまだ二年足らずにも関わらず、CMやドラマなど、続々と出演の場を広げている人気者である。今朝の情報番組でも、海外の映画に大抜擢されたと紹介されており、美佳子はこの番組を食い入るように見ていた。
「綺麗だなぁ。こんな人になれたらな」
一人になったリビングでつい、独り言が漏れる。
長く艶やかな黒髪に、切れ長の大きな黒目。二十歳ながら、周りのアイドルや女優にはない落ち着いた存在感。偶然、月城ひびきのデビュードラマを観た二年前から美佳子にとって理想の女性は彼女であり、芸能界の中でも流されることのない雰囲気を纏う月城ひびきのようになりたいと思うようになっていた。
月城ひびきの出演シーンが終わると、ちょうど八時十五分。用意していた鞄を素早く手に取ると玄関へ向かった。
二階建てに天窓のある家は美佳子が小学四年生の時に新築されたもので、美佳子は木目調の白い扉を出て鍵をかけ終えると、視線を下に向け、早歩きで学校へ向かう。
できるだけ早く。だけど髪が浮かないように。
まっすぐに伸びた光沢のある髪は羨ましがられる。だけど、ちょっとした風でもふわりと浮き上がるその髪が恨めしいときもある。少しくらい癖があったら、風にも負けないかもしれないのに。
青原中学校までの道のりは住宅街がつづく。大きめの通りに出ると、美佳子が住んでいる戸建ての並ぶ区画と、団地が並ぶ区画の間を直進していくだけだ。
青原中学校からさらに十分ほど歩いた先に美佳子も通っていた青原小学校もあり、時間によってはこの通りに小中学生の群れができる。美佳子はそれを避けたいのだ。
通勤や散歩の人だけがまばらになったこの時間に、それでもすれ違う人たちに顔を伏せがちに足を素早く交互に出す。走ると目立つ。顔を伏せすぎても目立つ。そのギリギリを狙って。
「顔、どうしたの?大丈夫?」
二週間前に学校帰りにすれ違ったおばさんに掛けられた言葉。
その時だけではない。美佳子にたまに掛けられる言葉。
親切で訊いてくれているのはわかる。でもそんなのいらない。放っておいて欲しい。他の子と同じようにただすれ違うだけでいいのに。こっちを見ないで。目を動かさないで。気にしないでよ。
「大丈夫です」
言葉とは裏腹に、ぶつけようのない気持ちが美佳子の心の中にだけ積もっていく。
どうして、世界はこんな風なんだろう。私が普通じゃないんだろう。
私が悪いのかな。
普通でいい。
美佳子の願いはただ一つ。普通になること。
この世界が嫌いなわけではなかった。三歳のころから同じ団地に住んでいた詩乃とは小さい時からずっと仲良しで今だって変わらない。青原小学校に通っていた時もアザをからかってくる男子はいたけど、その度に詩乃は注意してくれたし、美佳子も言い返したりしていた。男子と女子の境界性は曖昧で、そんな曖昧な輪の中に美佳子はちゃんと、いた。
青原中学校は青原小学校と鏡見小学校の卒業生が大半を占める。一部、私立の中学へ進学する子ども以外は皆、青原中へ進むため、中学校入学時には知った顔が半分、知らない顔が半分という状態になり、入学当初こそ同じ学校出身者で固まるが、ひと月も経つころには、どこの小学校だったか等は、ほとんど意味をなくしたように輪ができていた。しかし、ちょうどその頃、美佳子の足は輪の外に出てしまっていた。
いつのまにか。というのが正しいのだろう。少なくとも周囲の人間にその自覚はなかったであろう。だが、美佳子にはいくつか思い当たることがあった。
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