嘘は夕立のように

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 気温三十三度という真夏日に社会の教師である担任に資料室の整理を頼まれ、汗だくで仕事を終えて教室に戻るとがらんとしている。時計を見ると帰りのホームルームが終わって一時間以上が経っていた。さっさと帰ろうと教壇の前の自分の席へと歩きながら教室を見渡す。昼間の乱雑さを思い出し、何も乗っていない机が並ぶ様は何とも言えない気持ちになった。けれど一つの違和感を視線が捉える。窓際の後ろから二番目の佐藤優馬の机の上に一冊のノートが置かれていた。無意識の内にそこへ足が向かう。ノートを手に取ると迷いもなく開いた。  ―夕立が降る日に教室の窓を開け放ち水浸しにするー  その文字を見て驚きと共にわなわなと震えた。学級委員長である僕はその計画を阻止しなければならないだろう。  佐藤は特に目立つような生徒ではない。友達は少ないようだが問題行動はない。休み時間にはボーッと外の景色を見ているか寝ているかというような人物だ。  僕はと言えば内申書を良くする為に学級委員長になったような人間である。だからクラスメイトに対して良いことをしようとは思わない。担任や他の教師達に良い生徒だと思われればそれで良いのだ。望むのはこのクラスが何事もなく一年を終えること。面倒は特に御免である。  僕と佐藤はクラスメイトというだけで話したことは一度もない。それなのに一冊のノートのせいで僕と佐藤の人生は初めて交わることになった。もちろん、こんなことで交わりたくはなかったし、むしろこのまま交わらずに終わりたかった。ノートなんて見なければ、と自分の行いを悔いたが思い直す。見たからこそ阻止出来るのではないか。何事もなかったかのように。  ノートを見てしまった翌日の昼休み、僕は佐藤を体育館裏に呼び出した。ノートを勝手に見たことを謝りはしなかった。中に書かれていることに比べれば大したことではないからだ。 「もうバレたんだからやめてくれるよな」  僕は威圧的に言葉を発した。 「そっか、バレちゃったか」  佐藤は案外あっさりとした態度だった。  簡単に解決出来たじゃないかと安心していた矢先、佐藤がもう一度口を開く。 「でもやるから」  それだけ言うと佐藤はくるりと背を向け歩き出した。  引き止めなければならないのに何も策を持っていないことに気付く。僕は苦々しく黙ってその背中を見送るしかなかった。  僕は教室に戻るとすぐにリアルタイムで雨雲の動向がわかるアプリを入れた。今日はどうやら雨は降らないらしい。それだけが救いだった。  次の日の昼休み、またしても僕は佐藤を体育館裏に呼び出した。勝てる分野で勝負しなければいけないと考えた僕は討論を選んだ。何故そんなことがしたいのかと聞けば何かしらの理由が返ってくる筈だ。どんな理由であれ佐藤を言い負かす自信はあった。それなのに、だ。「理由はない」それが佐藤の答えだった。理由がないとなると僕の頭の中には大きなクエスチョンマークが現れるだけであった。だったら宥めてみようとも思ったが理由がない奴をどうやって宥めれば良いのかこれまた皆目検討もつかなかった。僕に打つ手がもうないとわかると佐藤は去って行った。  放課後の教室で頭を抱えていた僕はアプリを見て胸を撫で下ろし席を立った。  勝負に出た僕は勝負にもならなかった昼休みのことを考えてその日眠ることが出来なかった。  また次の日、僕は焦っていたが学級委員長らしく律儀に昼休みまで待った。今回こそは勝負にする。いや、勝負に勝たなければならない。 「先生に報告するけど良いのか」  見慣れた佐藤の顔を睨み付け漫画みたいな台詞を放った。格好悪いけれど実のところ自分ならこれが一番堪えると思ったからだ。 「言いたいなら言えば良い。でも俺は必ずやり遂げる。結局はクラスで事件が起きて内申書の為だけに委員長になったお前の立場はどうなるだろうな? もっと賢い方法で止めると思ってたけど残念だな」  佐藤は平然と答えた。  見抜かれている。もしやクラスの全員に見抜かれているのではないかと疑心暗鬼になる。クラスみんなが自分の狡さを見抜いて佐藤のように何かをしようとするのではないか。 「み、みんなの為に学級委員長になったんだよ」  僕は青ざめて震えるのを必死に押さえつけながら言った。  佐藤の視線と無言の空間に押し潰されそうになる。 「わかった。先生には言わない」  負けを認めるしかなかった。  放課後、僕はアプリを見つめ雨は降りそうもないというのに怒りでどうにかなりそうな自分を落ち着かせるのに必死だった。  昨夜眠れなかったというのに頭は冴えている。佐藤がどうしたらあの計画を中止してくれるのかということに意識を集中させているからだ。こんなことが日課になっている苛立ちからため息が出る。佐藤のことが未だにわからない。頭のおかしい奴の考えることなんてわかる訳がない。しかし不意にあることを思い付いた。もしかしたら権力には屈するかもしれないということにだ。自分が学級委員長であることを最大限に活かす方法があるではないか。自分自身でシミュレーションしてみる。もし学級委員長に立候補したのが自分だけではなかったら、そして他の奴に決まってしまったら。腹いせにクラスを滅茶苦茶にしてやろうと企んだら。そいつに学級委員長を代わってやるからやめてくれと言われたら。僕ならやめるだろう。やはりこれは上手くいく。そうとしか思えなかった。良い夢が見れそうだと満足して僕は目を閉じた。  次の日、いつものように昼休みに佐藤を呼び出し昨晩考えた名案について話した。シミュレーションでは委員長の座を譲られることになっていたがもちろんそれは出来ない。だから副委員長になるのはどうだと持ち掛けてみたのだ。幸い学校の方針により副委員長は置いても置かなくても良いということになっており、うちのクラスにも副委員長はいない。それなら委員長である自分が佐藤を推薦してやろうというのだ。恐らくはクラスメイトもそれほど興味はなく反対意見は出ないだろう。だからすんなりと副委員長になれる筈である。佐藤は受け入れるだろう。心に余裕すらあった。それなのに佐藤から返ってきたのは「そんなものに興味はない」それだけだった。  一人取り残された僕の頭上からぱらぱらと雨が降る。我に返り焦る。佐藤は今日、決行するかもしれない。五時間目も六時間目も、気が気ではなかった。けれど幸運にも帰りのホームルームが終わった頃には雨はやんで晴れた空に戻っていた。それでも何も解決出来ていないことが僕の心を曇らせている。  もう何も思い浮かばない。草原で寝転がって流れていく雲を眺めていたい気分だ。  夜になってベッドに入るとすぐに目を閉じた。策がなくなった最後という最後にはやるべきことが一つある。もうそれをするしかないのだ。  きっと最後になるであろう昼休み、体育館裏で僕は泣いた。泣き落としというやつだ。悲しくなくても涙は出るということをこの時初めて僕は経験した。よし、もっと泣いてやろうと泣けるだけ泣いた。佐藤はきっと冷たい目で見てくるだろう。その上冷たい言葉を投げ掛けてくるだろう。それでも僕は必死に泣いて縋った。こんなにもやめてくれと頼んでいる、情けない姿をお前に晒している、人の心があるならわかってくれ、と。そして現実に思ってもみないことが起きた。 「実は委員長に見つかるようにわざとノートを出しておいたんだ。おかしなこと書けば止めてくれると思って。仲良くなりたかったから」  気まずそうに僕を見ながら佐藤がそう言ったのだ。  驚いてわあっ、と声を上げてしまいそうだったがなんとか自分の中に留めた。これはチャンスだ。選択肢を間違えてはいけない。 「こんなことしないでも仲良くなれる。もうなってるだろ?」  僕は嘘偽りのない瞳を作り、佐藤に向けた。 「そうだな」  佐藤は笑った。見たことのない笑顔だった。これこそ嘘偽りはないと確信出来た。  二人で教室に戻り、午後の授業を受けた。放課後、僕は一緒に帰ろうと佐藤を誘った。アプリを開くと今日は夕立が降ると書いてある。けれど窓はちゃんと二人で閉めた。僕は勝負に勝ったのだ。  次の日、学校へ行くと僕のクラスは大騒ぎになっていた。深夜に降ったゲリラ豪雨が開け放たれていた窓から入り込み教室が水浸しになっていたのだ。僕はもしやと佐藤を見る。佐藤は僕にピースサインを送っていた。
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