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part4
目を覚ますと、彼女は裸のまま横にいた。僕はというと、殆どパジャマみたいな服を着たままだった。臆病なのだ。意気地無しなのだ。優しく彼女を起こす。何ごともなかったように、ゆっくりと制服に戻る。
「翔太、ありがとね」そう言って笑った。僕は、これが欲しくて生きているのかもしれない。
終業式らしい。明日から夏休みが始まる。学校には行きたくないけど、貴美香を送って行くことにした。ズボンだけ制服に着替えて、白いパーカーを着る。真夏の馬鹿だ。授業を聞けない人間の定番なのだ。貴美香は朝から、機嫌がいい。
「終業式だけは来たほうがいいって。おいでよ。私が守ってあげるから」
行く気はなかったが、安心してしまった。
あまり時間を気にしていなかったにも関わらず、早く学校に着いてしまった。先生達は慌ただしいが、どうやら部活の朝練はないみたいだ。校舎の方へ行きたくなかったので、グラウンドの端にある、プールへ行くことにした。高い柵を一つ越えて、短い階段を上がってみると、プールサイドに青色の滑り止めはなく、水も少し汚れていた。夏休み中に使う筈だが、今は整備されてないようだ。それでも立派に、晴天を映す鏡になっている。貴美香は傘を差したまま、子供みたいに足先で水面に円を描いてはしゃいでいた。愛おしくなって、隣に行くと、プールサイドにちょこんと座った。僕も続いた。彼女は楽しそうに口を開いた。
「夏休みに入ったら、もう会えなくなるね」
何を意味するか、分からなかった。恐ろしくて聞くこともできない。
「この夏で、みんな変わっちゃうの。私も、他のみんなも。部活が無くなって、みんな高校受験に向けて、勉強を始めるの。今までワルだった人も、少し焦りだして、日焼けして丸坊主だった人も、ほとんど白くてボサボサになるの。この夏でみんな変わって、卒業したら、みんな離れ離れ。誰にも、どうすることもできないの」
途端に寂しくなった。彼女は、とても優秀なのだ。
「そうかもしれない。いや、きっとそうなんだ。皆が何を考えているのか、僕にはちっとも分からない。いい高校を目指すんだ。君もそうだろう?かなり多くの人が、物凄く勉強して、いい高校に行くんだ。そしていい高校に行った人は、いい大学に行くんだ。卒業したら、就職して、結婚する。子供ができて、お金がもっと必要になって、仕事を頑張って、昇進して、お酒をたらふく飲んで、年老いて、死んで行くんだ。僕には、分からないよ」
「何が分からないの?翔太がそんな風に一生懸命話すこと、珍しいね」
「それがいいとされていることだよ。本当にいい人生って言えるのかな?俺は、もっと知りたい。色々なことを知りたい。いい高校に行かなくたって、大学に行かなくたって、就職しなくたって、沢山本を読んで、考えて、色んな場所に行って、そうやって死んで行きたい。例えばだよ、例えばの話だけど、貴美香みたいな人と一緒になって、バイトでもしながら、小さな賃貸を借りて、二人でゆっくり過ごす。いっぱい遊んで、季節の周回をゆっくり過ごすのさ。子供は作らずに、趣味に時間を費やして、お金を貯めて、たまに旅行して。何もない日は、昼間に起きて、カフェでも巡って、夕暮れには帰ってきて、二人でベッドに入って、ぬくぬくだらだらする。お金はそんなに要らないんじゃないかな。最低限で、それでもずっと二人でいる。二人揃って生きる。僕にとっては、それが一番の幸せだと思う。貴美香にとっては分からないけど、どう思う?」
「私もそう思う。そう思うけど、なってみなきゃ分からないじゃない。お金だって、稼ぐのが思ってるより大変かもしれない。だからとりあえず普通になってみるために、勉強するの。定型の人生を、目指してみるの。私にとっては普通の人生が大事なの。高校生になったら家も出たい。私にとって“普通”の人生を送るには、野獣達とはオサラバしなきゃならないの。あなたは違うけどね」
「じゃあ、一緒にいようよ。寂しいこと言わずに。俺は全力で、貴美香を応援するし、邪魔しないし、変なこともしないから」
「変なことはして欲しいな。優しくね。貴方だけは、変わらずにいて欲しいの。それに、変わらないと思える、唯一の人なの。どうか、純粋なままでいて」
僕は立ち上がり、彼女の傘を取り上げて、プールに投げた。
「傘なんて、僕がいたら要らないよ。僕が守るんだ。貴美香が辛くないように、泣かないように、傍にいて、ずっと守るから。だから、寂しいこと言うなよ。どうにかなるんだ。どうにでもできるんだ。二人でいるだけで、物事が違って見えて、隙間風すら美しく見えるんだ。僕は、そんな世界を生きたい」
彼女は無言で立ち上がり、潤んだ目のままゆっくりと僕の胸に顔を預けて来た。優しく包み込むと安心したようで、目を閉じて噛み締めていた。微かに揺らぐ波の影と同じ速度でゆっくり揺れると、彼女は赤子みたいに力を抜いた。横っ腹を突かれたように、突如としてビクッと反射を起こすと、外敵の侵入を察知したように覚醒した。咄嗟にするりと腕を抜け、静寂を保っていた水面に僕を突き飛ばした。
青空バックの君が揺らいで、沈む。気泡が空に還る。炭酸の本来の姿だ。酸っぱいのだ。ぼんやり膜の張った視界の中で、光を見た。純粋なる輝き。陽光が鋭く水面を突き刺し、円環を保って網膜にこびりついた。哺乳類不在のラッセンみたいだ。後光の射す、彼女は神様女神様。僕をとことん汚してしまう。ああ、夏が終わる。ああ、青春が終わる。このまま底のない永遠に、堕ちてゆく。その時ふと流れてきた。聞き覚えのある曲。やっとサビを聴ける。物語の間にすっ飛んでしまったのだろう、大サビまで到達していた。葡萄みたいなベース。金切声だけのジャズマスター。人を殺めそうなドラム。やくざでアンニュイなボーカルの消えかかりそうなシャウト。僕は確かに、青春を生きていたのだ。幕を閉じた後、もうどうなったっていい。僕の短い人生は、ここで終わるのが一番綺麗なのだ。
曲が終わったところで、人魚がやって来た。二つの頭が飛び出して、地球の大気を吸うと、黒いブラが透ける制服とシャンプーハットみたいなスカートを見た。生存本能というやつだ。彼女は思いの他ふくよかな胸を潰し僕を抱きしめ、キスをした。
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