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part3
今朝、チャイムが三回鳴った。正直来ないと思っていた。母は昨日の日勤が終わってから、どこかにいるらしい。反応したのは僕だけだったが、出なかった。一日の大半はオナニーをしていた。録画しておいた映画を観て、スウェーデンのミステリを読んで、ゲームをしていた。全ての過程の合間に、オナニーをした。悲しみしか残っていない。学校に行かなかったのは勿論、林に本物のナイフで刺されたくなかったからだ。家にいると安全だ。ボス戦を戦っていた。アパートの小さなリビングに不釣り合いな大画面テレビには、林に似たゾンビのボスがいた。しこたま弾を撃ち込んでいると、チャイムが鳴った。カレンダーを見た。日付の下には「夜」と書かれていた。顕微鏡のような小さな世界には、鼻の大きくなった変な顔の貴美香がいた。チャイムが一回切りなのは、僕がいることを分かっているからだ。ドアを開ける。
「おはよう、貴美香」
「おはよう。もう夕方だよ?はい、これ。宿題と通信入ってるから」
礼を言っても、一向に動く気配がない。昨日と打って変わって、従来のような笑顔を見せてはいるが、何か言いたげな面持ち。僕としては、早く林と決着をつけたい。どちらかにして欲しくて、でも帰らせるのもやはり悪い気がして、声をかけてしまう。
「今日母さん一応夜勤だけど、どうする?」
答えを待たず、ローファーをきちんと揃えて上がる。制服から、一日の学業と女性の匂いがする。先回りしてテレビを消し、僕の部屋へ誘導する。貴美香が来た時は、彼女はベッドに座り、僕は勉強机の椅子に座る。今日もそのような構図で、貴美香は本棚の一番上のCD群を興味ありげに眺めていた。
「前聞いてたのってどれ?」
嬉しくなって、特別に引き出しに入れていたCDを取り出す。
「これだよ。ファーストEPなんだけど、その内馬鹿みたいにメジャーになって、プレミアがつくんじゃないかな。最近では一番ビビッと来たからね。六曲だけど、かなり気に入ると思うよ」
「貸してもらってもいい?」
「勿論いいよ。是非是非聞いて欲しくて。アプリにも取り込んでるから、返すのはいつでもいいよ」
そう言ってやると、嬉しそうに膝の上に置いて足をブラブラさせた。持ち前の短いスカートは、座るとほとんど捲れ上がって、細いのに肉付きのいい太腿が余すことなく露になる。ついでに、というよりはメインディッシュだが、本日は黒の、大人びた下着がちょうど白い肉に両脇を挟まれるようにして、控えめに顔を出す。恐らく目線で気づかれているだろうが、恥よりも好奇心が勝ってしまうし、彼女も特に何も言わない。
「昨日はごめん。急に感情的になったりして。でもね、相談したかったの。翔太ぐらいしかいないから」
「気にしてないよ。俺の方こそ、すぐに帰れなんて言って、ごめん。結局母さん帰って来なかったし、全然上がってもよかったのに。急に言われて、ビックリしちゃったんだよ。藤崎だっけ?あいつと貴美香が繋がってるなんて、誰も思わないじゃないか。でもなんで、あいつが不登校になったのが貴美香のせいなんだ?そこだけは、いくら考えても分からない。君みたいな人が、人を傷つけるとは思わない」
「傷つけてないの。それが問題よ」
青色のタイルカーペットが敷き詰められた部屋は、一人の時よりも明るい。しかしながら、徐々にトーンが落ちてきている。彼女は下唇を嚙み締め俯いた。長らくして、やっと口を開いた。
「私ね、彼に襲われたの。付き合ってるから、厳密にはそういうことだとは思わないかもしれないけど、確かに傷つけられたの」
意外だった。藤崎は、もやしみたいな人間だ。顔は確かに整っているが、なよなよした、争いを解決するためには自己犠牲を払ってでも穏便に済ませるような人間だ。自己犠牲の結果、学級委員を請け負ったことは覚えている。どう考えても、人に害を与えるようなタイプには見えない。
「雨が降ってたの。急な雨だったから、私以外傘を持ってる人なんて勿論いない。私ね、学校で二人でいるところはあまり見られたくなかったの。余計なことに巻き込まれないためにもね。でもその日はどうしようもなくて、恋人らしく相合傘をして帰ったのよ。彼の家まで送ったの。藤崎君は部屋に上げてくれて、バスタオルも持って来てくれた。そんなに濡れていたわけじゃないけど、優しかったのよ。色々な話をしたの。男子は学級委員を押し付け合うけど、女子からすれば、学級委員は憧れの的だから、私は凄いって。みんなの憧れだって。それで、クラスの事とか、委員会頑張ろうとか、慰め合ってたわけ。いつもは帰り道に話す程度だったから、私も嬉しくなっちゃって、お邪魔したのも初めてだったし、随分と話し込んだの」
僕は話の主導権を握られるのが嫌いだ。それでも、今回ばかりは展開を知りたくて、いつになく真剣に相槌を打っていた。
「それで私、帰りたくなくなっちゃって、彼にキスをしたの。ベッドに押し倒して、キスをしたの。これがいけなかった。彼はね、驚いた顔をして、次に獣のような顔に咄嗟になって、私を押し倒してきたの。それからはあっという間よ。脱がされたの。制服を全部、お気に入りの赤い下着もね。彼、初めてみたいで、むやみやたらに挿れてきた。不思議と胸には一瞥しただけで、すぐに挿れてきたの。濡れてもなかったわ。痛かった。何度も叫ぼうとしたわ。でもできなかった。確かその日、彼の兄弟も家に居たの。だから、叫ばなかった。そんな状態でも、彼を想ってしまったの」
僕になんと言って欲しいのだろうか。出る幕はない。彼女は震えていた。彼女の隣に行って、座ることしかできなかった。ああ、この哀れな女性の首筋からはいい匂いがする。
「生理だったの」
その意味が、よく解らなかった。大変なことだというのは分かっているけど、やはり返答が思い浮かばない。僕だって、無知なのだ。
「よく気づかなかったと思う。例え気づいていたとして、止められなかったんだと思う。出すことしか頭になかったのよ。自分の手とアソコ、ベッドが血まみれなのに気づいて、真っ青になってた。私は制服だけ急いで着て逃げた。傘を忘れて来ちゃったの。それでも走った。雨の日に限って、傘を差さないなんて。ねえ、翔太。男の人ってみんなそうなの?藤崎君もパパも翔太も、みんな一緒なのかな?私って、そういう女の子なのかな?」
いよいよ、言葉を失ってしまった。重力より随分と重たい話だ。僕にどうしろって言うのだ。この美しい女性は、僕にとって宇宙人になってしまった。宇宙人は、大きな目から、大粒の涙を流していた。白い肌が熟れた桃みたいになっていた。
「それは……ほんとに酷いな。俺はきっと、違うと思う」
それしか言えなかった。饒舌は閉ざされた。彼女の肩を、そっと抱き寄せることしかできなかった。ティッシュを箱のまま渡そうと立ち上がり、戻って俯いた顔を覗き込んだ。すると彼女は、回り込む形で僕を押し倒し、馬乗りになった。呆気に取られている内に、キスをされた。彼女は自分で制服を脱ぎ捨てた。細いイメージの彼女は、着痩せするタイプのようだ。黒に包まれた胸が、大きく揺れた。殆どパジャマ姿の僕は、隠せなかった。貴美香は泣きながら笑っていた。笑いながら立ち上がり、下着を脱いだ。
カーテン越しの激しい夕日に照らされて、艶めかしく光った。深海に住む、誰も見たことがない美しい生物を独り占めしているみたいだ。身体はもう立派になっているのに、幼い。未完成という完成形を為して、堂々と目に焼き付いてくる。腰のラインは美しい壺に似た華麗な曲線を描く。光を受けた青白い肌を含め、骨董品に似ている。著名な彫刻家の最盛期の逸品。きっと足の裏には、知らない男の頭文字が彫られている。僕以外の男の名が彫られているのだ。彼女はそのまま、僕の胸に顔を横たえる形で抱きしめてきた。ちょうど臍に挿入するように、当たってしまっていた。気にすることなく、彼女は一層きつく抱きしめて、束の間の愛をくれた。
僕は、何もできなかった。
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