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「あのさあ」
私は飛田翔に話をふっている。入学して二ヶ月と少し。教室の誰かに対して個人的に話しかけるのはきっとこれが初めてだ。
「どうしてトビタはアンドウやイガワより名簿が先なの? あ行、か行、さ行、た行。トビタの〈と〉ってずっと後のはずなのに」
トビタは相変わらず眠そうな顔で、目の前の私を見上げている。
私は、親戚の家にある壊れた昔のテープレコーダーのように繰り返した。「どうしてトビタはアンドウやイガワより名簿が先なの? トビタの〈と〉ってあ行よりずっとずっと後だよね?」
「は? 俺、そもそもトビタじゃねえし」
眠そうだったトビタは、ジャンク品として売られてる開封済みの箱なしフィギアみたいなうつろな顔になった。
「みんなにトビタって呼ばれてるのに私の前ではトビタじゃなくなるの?」
「いや、そうじゃねえけど」
「トビタっていうのは、こいつのアダ名。小学生のときからずっとだよ」
アンドウハヤトがトビタの背中から顔をひょいと出して言った。
アダ名。すなわち本名ではない。
飛田翔はトビタショウじゃなかった。おもしろい。私はワクワクしてトビタの机に両手をついた。
「トビタショウじゃないんだ?」
「当たり前だろ」
「本当の名前は?」
「そいつの名前はねえ、飛ぶに田んぼに羽がついた翔と書いて〈アスカダカケル〉って読むの。でも先生も含めて誰もアスカダカケルなんて読まねえけどな。だからトビタって呼んじゃってもいいよ」
アンドウハヤトがイガワタクヤと顔を見合わせて「ウシシ」と笑っている。謎は解けたけど、トビタとはほとんど会話できてない。でしゃばりなアンドウにイライラしつつある私がここにいる。
「トビタ、私の名前を知りたいか?」
私はアンドウから視線を逸らしてトビタを見つめ、ごっつりして言った。
「知ってる。ヒダカミライ――だろ?」
トビタは相変わらず眠そうな顔で私を真っ直ぐ見据えている。
私は名前を知られていた。トビタに名前を知られていた。なんだか不思議に嬉しくて、私はトビタの左肩を右手で叩きながら「うんうん」と頷いた。
そして。
話すことがなにも無くなった。そりゃそうだ。今の今まで教室に漂う空気を構成する元素のひとつにすぎなかった私には、これ以上の共通の話題などなにもない。
「では失礼する」
私は一礼してから自分の席に戻った。私の席の周りだけなぜだかとっても空気が薄い。
この日のうちに、私は一部の女子たちから〈不思議ちゃん〉の烙印を押されてしまった。もちろん誰も私に直接そう呼び掛けてきたりはしない。それでも気配でなんとなくわかる。不思議ちゃん。不思議ちゃん。ヒダカミライは不思議なやつだ。あんまり関わんないほうがいいかもよ。
でも、しょせんは雑音だ。私は陰口なんかぜんぜん平気だった。いや、平気だと思い込もうと努力する私が教室の窓際の席にいた。教室の窓から見える風景がいつもと違って見える。視界のすべてが夏色に染まりつつあった。夏がきっと私の耐性を強くしている。私は生きたいように生きるし、話したい人とは話したいことを話したいだけ話す。私は今、高校生。高校生となった私は中学までの薄い私とは違うのだ。私は生まれ変わったのだ。根本的に。人は勇気を出して変わろうと思えば必ず変われる。私はそう信じていたい。
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