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「大人だって、甘えたい時ぐらいありますよ」
そう言って優しい手付きで俺の髪を撫でてくるその姿はまるで女神だ。
ずっと甘えていたい。ずっとこの手を感じていたい。
だけど徐々に重たくなっていく瞼に抗えなくなってきた。
ああ勿体ない……
「涌田(わきた)。この前の打ち込みはまだか?」
「え?あー……さーせん、まだ手つけてないっすわ」
「はぁ!?おまっ、あれ1週間も前の話だよな?時間ならいくらでもあっただろうが!?」
「いやいや俺超忙しかったっすから」
「まぁまぁ加賀美(かがみ)くん落ち着いて。涌田くんも今からやろうとしてたんだよね?そうだよね?」
「部長の言う通り!今からやろうと思ってたんすよ!」
それで話が終わったのか再び各自仕事をし始めたが、加賀美さんは必死で怒りを抑えているのか、机で項垂れた。
もうこれで何回目だろうか。加賀美さんが疲れきっている姿を見るのは……
我が社の情報システム部はハッキリ言って機能していない。
そんななか一応形を保っていられるのは、優秀な加賀美さんがいてくれているおかげだ。
だけどどんなに加賀美さんが優秀でも、優秀な加賀美さんの足を引っ張る人しか情報システム部にはおらず、いつも加賀美さんは疲れきっていた。
部署が違うのでたまに情報システム部の横を通りすぎる時にチラッと見る程度だったが、せっかくの男前も常に顔色が悪く、身だしなみも不格好では宝の持ち腐れだ。
けれどそれでも女性社員からは人気なようで「私がお世話したい」「役立たずの社員を早くクビにしてよ!!」と黄色い声をあげているのをよく耳にする。
女性社員は加賀美さんの味方で、見るからに不摂生な加賀美さんのお世話をしようとしているが、加賀美さんは女性社員からの差し入れやお世話を頑なに断っているらしい。
夜中の22時に会社に来たのはただの偶然だった。明日は土日で仕事が休みになる。
だからその間にやっておきたい書類があったのに、その書類を仕事場に忘れて来てしまった。
まぁ月曜にやればいいやと思ったが、数時間経ってもどうしても書類のことが気になってしまい、結局仕事場に取りに来た。
真っ暗な社内は心細く、直ぐに書類を手にし帰ろうとしたが、ある部署がまだ電気がついているのに気付いた。
「お疲れさまです……まだお仕事中ですか?」
突然声を掛けたせいか、パソコンに向かって仕事をしていた加賀美さんは後ろを振り向き、これでもかという程目を見開いた。
「……あぁ、開発部の……」
「北見(きたみ)です。忘れ物を取りに来たんですが、まだ加賀美さんが仕事しているので驚きました。いつもこんな時間まで残ってるんですか?」
「なかなか仕事が終わらなくてな……」
問い掛けに否定はせず、こちらに向いていた視線を再びパソコンに戻してしまった。
その姿にどうしようもないほど胸が苦しくなった。
「……そんなに頑張らないでくださいよ」
「ありがとう。だけど大丈夫だから」
知りもしない後輩からの言葉だからか、とても素っ気ない返答だった。
どうやったらこの仕事人間がこっちを向いてくれるのか。そして、どうしたらゆっくり休んでくれるのか。
着ていた上着を脱ぎ、それを加賀美さんの肩に掛けた。
「お腹空きませんか?たしか給湯室の冷蔵庫にぶどうのゼリーが置いてあるので、もしよければ食べませんか?」
加賀美さんの動きはピタリと止まり、それと同時にクゥーッとお腹の鳴る音が聞こえてきた。
「ふふ。今持ってきますね。向こうのソファーで待っててください」
急いで給湯室に向かい、冷蔵庫からぶどうのゼリーを取り出した。
ついでにお湯を沸かしココアを作って情報システム部に戻ると、ソファーで腕組みをした状態の加賀美さんが待っていた。
「お待たせしました。もし甘い物が苦手じゃないならココアもどうぞ」
「……ありがとう」
加賀美さんと少し空間をあけてソファーに座り、自分の分のココアを飲みながら加賀美さんが食べ終わるのを待った。
「……ちょうど腹が減ってたところだった」
「そうだったんですか。それならよかったです」
ゼリーを食べ終え、ココアを飲む加賀美さんに視線を向けるとボーッと上の空だった。
「仕事のことでも考えてるんですか?」
「ああ。でももう急ぎの仕事は終わった。……終わったが、上司も後輩も使えないからな、急ぎの仕事がなくても念のために終わらせたいものはまだまだたくさんあるがな」
「そうなんですか……。ちゃんと寝れてますか?」
「それは家でってことか?家でなら寝れてないな。最近はいつもこのソファーで寝泊まりしてる」
今座ってるこのソファーは本来寝る用のソファーではないので、加賀美さんが寝るとソファーから足ははみ出るだろうし、寝心地もそんなに良くないだろう。
きっと睡眠時間もあまり取れてないから、隈もこんなに濃く……
「少し横になりませんか?」
「いや……」
ココアを飲み終わり、コップをテーブルに置いたのを見届けてから、拒否する加賀美さんの身体を自分の方へと引っ張った。
「!?これ、膝枕」
「ダメですか?」
リズム良くとんとんすると観念したのか、身体の力を抜き、顔を上に向けてきた。
「これじゃあ子どもを甘やかしてるみたいじゃないか」
「大人だって、甘えたい時ぐらいありますよ」
寝転んだことで乱れた加賀美さんの髪を直していると、スゥースゥーと下から寝息が聞こえてきた。
完
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