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 空が白々と明け始めた頃、宮殿の裏手から黒馬に乗ったダグボルトが姿を現す。  プレートメイルに身を固め、いつもの枯葉色のマントを纏っている。  朝靄に覆われた市街地にはまだ人気は無い。  前回のように、市民の歓声を浴びて出立する気にはなれなかったため、わざわざこの時間を選んだのだ。  アルーサとの戦いからは、すでに二週間が過ぎていた。  ジャベリンで穴を開けられた鎧と盾の修理に時間がかかったためだ。  その間、ダグボルトは深夜の修練場で一人トレーニングに励み、ヴィ・シランハでの穏やかな日々ですっかり鈍った体を鍛え直していた。  ダグボルトの後ろから白馬に跨ったウォズマイラが現れる。  あれからアルーサはずっと部屋に引き籠ったままであったため、やむを得ない決定であった。  根気強い説得によってテュルパンも渋々了承していた。  市街地は静寂に包まれ、時折、遠くの方で野犬の吠え声が聞こえる他に物音は無い。  そのため二人の乗る馬の蹄の音がやけに大きく響く。  二人は特に言葉を交わすでもなく、西門の通用口に向かった。  靄の彼方に、石造りの城壁が微かに浮かび上がる。  幾度となく名無き氏族(ネームレス)の襲撃を食い止めてきた由緒正しき代物だ。  だがそれも『白銀皇女』の前では完全に無力なのだ。  ヴィ・シランハが一瞬にして消滅させられた光景が脳裏に蘇り、ダグボルトは慌てて頭を振ってそれを打ち消す。  とにかく一刻も早く『黒獅子姫』を復活させて、今後の対応を考えなければ――。  不意に眼前の靄を切り裂いて、人影が現れ、ダグボルトはハッと我に帰る。 「アタシを置いて行こうなんて考えない事ね」 「アルーサ!」  二人は同時に驚きの声を発する。  そこには腕を組んで堂々と立つアルーサがいた。  鎧の代わりに動きやすい衣服を身に纏い、真新しいフード付の革のマントを羽織っている。 「あなたはずっと部屋に引き籠ってたじゃないですか!? どうして突然出てきたんですか? てっきりダグボルトさんに負けて、落ち込んでるものだと思ってましたよ」 「は? アタシが負けた? 何言ってんのよ、アンタ?」  アルーサは小莫迦にするような口調で言った。 「あの時、アタシは降参してなかったのに、アンタとテュルパンが勝手に試合を止めたんじゃない。だから引き分けよ」 「確かにそうだな」  ダグボルトはあっさりと認める。 「だが今はお前と再戦してる暇は無いんだ。やりたいなら俺が帰ってきてからにしてくれ」 「そんな事分かってるわよ。だけどアンタが魔女にやられちゃったら、再戦も糞もないでしょ。だからアタシもついてってやるわ」 「ちょっと待ってください!! ダグボルトさんには私が同行するんですよ!!」  ウォズマイラが慌てて口を挟むが、アルーサは意にも介さない。 「残念、アンタは居残りよ。元々、そのつもりでアタシを目覚めさせたんでしょ。だったら何も問題ないじゃない。早くその馬をアタシに貸しなさいよ」  アルーサは強引にウォズマイラを馬から降ろすと、代わりに自分が乗った。  おとなしい去勢馬のためか、乗り手が変わっても特に暴れる様子は無い。 「その様子だと体調は良さそうだな」 「当たり前でしょ。あれからずっと部屋に籠って、筋力トレーニングに励んでたのよ。眠ってる間に落ちた筋力はちゃんと回復したわ」  アルーサは肘を曲げて力こぶを作って見せた。  顔色も二週間前より良くなっていて、肌に艶もある。  確かに体調に問題はなさそうだ。  ダグボルトは、不満げな顔のウォズマイラに優しく声を掛ける。 「悪いな、ウォズ。こうなった以上、やっぱりお前はここに残るべきだ。テュルパンの言う通り、劫罰修道会にはまだお前の力が必要だからな」 「……分かりました。ではお元気で、ダグボルトさん」  それだけ言うとウォズマイラは俯いたまま走り去って行った。  ダグボルトは気付かなかったが、彼女の目には涙が光っていた。  城壁を守る守備兵に声を掛け、ダグボルトは通用門を開けて貰う。  二人はレウム・ア・ルヴァーナを出ると、霧に包まれた荒野に向けて馬を進める。 「そう言えばちゃんと自己紹介してなかったな。俺はダグボルト・ストーンハート。これからよろしくな」 「は? 何がよろしくよ。言っとくけど、まだアンタを信用したわけじゃないわ。むしろアンタを監視するために、ついていくようなもんなんだからね。慣れ合いなんか絶対に御免だわ。旅の途中で不審な行動を取ったら、その場でぶち殺すからね。分かった?」 「ああ、分かった」  ぶっきら棒にそう答えつつも、ダグボルトはヘルムの下で苦笑いを浮かべる。  アルーサは色々と面倒臭い性格のようだが、特に悪意は感じない。  そのため、どこか憎めないものを感じていた。 「じゃあさっさと行きましょ、えーと……ダグ何とか・スト何とか」 「……名前を覚える気が無いなら、ダグだけでいい」    **********  モラヴィア大陸を南北に分かつ赤竜砂漠。  その南方には広大なシュベレク回廊と呼ばれる地域がある。  聖堂騎士団とアシュタラ大公国の手によって、シュベレク回廊東部の霊峰ルヴァーナとその周辺区域から名無き氏族は排除されたものの、回廊全域をアシュタラ大公国が領有する事に、東のフェルムス=トレンティア連合王国が異を唱えた。  かの国はアシュタラ大公国とは海上で度々軍事衝突している関係上、大幅な領土伸張など絶対に認められない立場にあったのである。  聖天教会の仲裁の元で行われた二国会談の結果、聖地レウム・ア・ルヴァーナだけは、建設費用を負担したアシュタラ大公国の保持権が認められた。  しかしその他の区域は、タイフォンの街などの独立自由都市が支配する中立地帯となり、アシュタラ大公国の手から抜け落ちる形となってしまった。  緩衝地域として利用される事になったシュベレク回廊は、併合を画策するアシュタラ大公国と、それに反対するフェルムス=トレンティア連合王国の軍事衝突の場となり、何度も甚大な被害を被った。  それは歴史の常――強者に振り回される弱者の悲劇であった。  そして『黒の災禍』の後、シュベレク回廊で暮らす人々は、今度は『紫炎の鍛え手』と『碧糸の織り手』の軍勢の戦いに巻き込まれる事となった。  二人の魔女が死んだ直後、傭兵達の横暴に耐えかねた人々が反乱を起こし、多くの街や村が解放されたとはいえ、それ以前に滅ぼされた所も少なくはない。  アシュタラ大公国方面への道すがら、廃墟と化した村や街を通過する度に、ダグボルトは陰鬱な気分になる。 (聖天の女神よ。なぜミルダやウォズの呼びかけに何も答えて下さらないのです? あなたにほんの僅かでも慈悲の心があるのなら、どうか不毛な争いに一刻も早く終止符を打って下さい……)  レウム・ア・ルヴァーナを発って四日後、二人はアシュタラ大公国の東の要衝であったガルダレア城塞の跡地に辿り着いた。  城塞には『紫炎の鍛え手』軍の残党が立て籠もっていたため、周囲には劫罰修道会の義勇兵達が森の木々を切り出して造り上げた簡易砦があった。しかし今は放棄されており、人の姿は無い。  その理由は子供でも一目でわかる――包囲対象であるガルダレア城塞は跡形も無く消え失せていた。  跡地にはテーブルのように平らな大地が広がっている。  凄まじい熱で焼かれたため、大地は細かいひびの入った黒いガラスのようになっていた。  中にいた人間は、きっと苦しみを味わう暇すらなく焼け死んだ事だろう。 「な、何でこんな事になってんのよ……?」  凄惨な光景を見たアルーサは、そう呟くのがやっとだった。 「『白銀皇女』の仕業だ。何ヶ月か前に、あいつがここを一瞬で消し去ったんだ」  そう答えるダグボルトの口の中はからからに乾いていた。  あの時の光景を脳裏に思い描くだけで魔女への恐怖が蘇り、無意識のうちにヘルムの上から顔の火傷の痕をなぞっていた。 「これが『見えざる焔』の力だ。これで分かっただろう。お前じゃあいつに勝ち目はない。あいつを攻撃しようとした瞬間には、お前は殺されているはずだ。そういう相手なんだよ。あの『白銀皇女』はな」 「………………」  思わず黙り込むアルーサ。  しかしこれで『白銀皇女』と戦う事を諦めただろと思うのは間違いであった。  むしろ逆に闘志を燃やしていたのだ。 「……フン。それでもまだ私には『白銀皇女』を倒せる技があるわ。アンタにもまだ見せてない、どんな魔女でも一瞬で滅する事の出来る必殺技がね。それをアイツの『見えざる焔』より先に発動させられれば、アタシの勝ちは確定よ」 「そうか。そいつは楽しみだな」  全く心の籠らない口調で答えるダグボルト。 「あーッ! アンタ、全然信じてないでしょ! ホントなんだからね! ホントに必殺技、持ってんだからね!」 「分かったからもう先に進もう。ずっとここにいてもしょうがないだろう」  ぶうぶうと文句を垂れるアルーサを置いて先に進む。  アシュタラ大公国跡地――『碧糸の織り手』のかつての支配区域へと。    **********  ガルダレア城塞の跡地を抜けた後、ダグボルトはいつにもまして周囲に目を配り、慎重に馬を進めていた。城塞の先にある、モグスリン山地の曲がりくねった山道は、待ち伏せには絶好の場所だったからだ。  『碧糸の織り手』は死んだとは言え、彼女の配下だった傭兵団が、今度は盗賊団として襲って来る可能性がある。用心するに越したことはないのだ。 「そんでこれからどこに行く気?」  二日かけてようやく山の下り道に差し掛かった時、ダグボルトの後を進むアルーサが尋ねた。 「海上カジノに行くためには船が必要だ。だからまずは港町を回って、船を出してくれる人間を探すつもりだ」 「あのねえ、そんなのんきに探し回ってたら、時間がいくらあっても足りないわよ。それよりここから南南西にあるコルロヴァの街を訪ねてみない? あそこは昔、アタシの家の領地で、港には父が所有してた船があったの。ムーンシェイド号っていう立派な帆船がね。誰かに奪われてなければ、今もそこにあるはずよ」 「そうか。お前は貴族の家柄だったんだな。だが『猛禽の女郎』との戦いで、よく船を破壊されずに済んだもんだな」 「父は『猛禽の女郎』との戦いには参加してないわ。『黒の災禍』の少し前に、この国で大流行した赤蝋病で亡くなっちゃったらしいから」  アルーサは平坦な口調で言った。  一見、平静を装っているように見えるが、やはりショックな出来事だったらしく、小柄な身体が微かに震えている。 「……でも幸か不幸か、そのおかげでムーンシェイド号だけは失わずに済んだの。そしてその後、ガンダーロ大公が『猛禽の女郎』に殺されて、国内は大混乱に陥ったわ。そんな中でも、気丈な母は女手ひとつでしっかりと家と領地を守ってた。幼い私の眼から見てもすごい立派だったわ。でも、それも『碧糸の織り手』がこの国に乗り込んでくるまでの話だけどね、結局、母は『碧糸の織り手』への降伏を拒んで殺され、一人逃げ延びた私は劫罰修道会の修道士に拾われたってわけ」  アルーサは自分の事を話し過ぎていた事に気付き、気まずそうな顔をする。 「何か、長々とつまんない話しちゃったわね。今となっては貴族の家柄なんて糞の役にも立たないけど、父も母も領民を苦しめるような酷い統治はしてなかったから、コルロヴァの人達はきっと私を助けてくれるはずよ。こういうご時世だし、さすがにただでとは言わないだろうけど」 「心配するな。金なら十分持ってきてる」  ダグボルトの馬が運ぶ積荷の中には古王金貨の詰まった袋が入っていた。  無論、これはダグボルト個人のお金では無く、テュルパンが劫罰修道会の乏しい軍資金の中から渡してくれたものだ。  今までの貢献を考えれば当たり前とも言えるが、それでもダグボルトは、テュルパンの好意に深く感謝していた。 「とりあえず今日はここで休もう」  そう言うと、ダグボルトは休憩できそうな窪地で馬を降りた。  すでに日は暮れかけていて、空の薄暗さが大地に染みこむように広がっている。  ダグボルトは近くの灌木に馬を繋ぐと、積荷から地図を取り出し。コルロヴァの街へのルートを確認する。 「ここから南南西……。そうなるとこの山の先のアクスビーク・ブリッジを渡って、ホロミット大河を越えなきゃならんようだな」 「ひとつ言っとくけど、アクスビーク・ブリッジっていうのはただの橋じゃないわ。大河の両岸を繋ぐように建てられた堅牢な城塞型大橋で、五百人くらいの兵が収容できる構造になってんの。ガルダレア城塞程じゃないけどなかなかの難所よ」  背後から地図を覗き込んだアルーサが説明する。 「そいつは面倒だな。他にホロミット大河を渡れる橋は無いか?」 「残念ながら無いわ。後は北上して山岳地帯を大きく迂回するか、あるいは大河を渡る船を探すぐらいね」 「うーむ……。どちらの手段も時間がかかるし、食料の残りも考えると、ここは最短ルートであるアクスビーク・ブリッジを渡らざるを得ないな。だがお前の話の通りだとすると、そこは『碧糸の織り手』軍の残党に占拠されてる可能性がかなり高い。ここまでは無事に来れたが、明日は戦闘を覚悟した方が良さそうだな」  ダグボルトは地面に落ちていた大きめの石をコの字型に積んだ。  中央に拾い集めた灌木の枝を置いて、焚き火を起こすと、小さな鍋を積み石の上に置いてお湯を沸かし始める。  水が沸騰すると、そこに砕いた塩漬けの干し肉と、カチカチの乾パンを入れて、柔らかくなるまでじっくりと煮込んだ。  干し肉の塩と脂が水に溶け込み、辺りに美味しそうな匂いが漂う。 「出来たぞ。お椀を貸せ」  アルーサが、荷物の中から自分用の木彫りのお椀を差し出すと、鍋の中身をたっぷりと注いで返す。  そして今度は自分のお椀にも注ぐ。  アルーサのものより二回り程大きく、使い込まれて傷だらけの武骨な錫のお椀だ。 「……どうでもいいけど他の料理は作れないの? いつもこればっかで飽きたんだけど」  スプーンでお椀の中身をかき混ぜながら、げっそりとした顔でアルーサがぼやく。 「だったらたまには自分で作ったらどうだ?」 「嫌よ。料理なんてアタシの柄じゃないもん。だけどこれは料理なんて呼べるレベルじゃないわ。まともな感性のある人間なら、もっと創意工夫を……ってアンタ、今何入れたの!?」  驚いたダグボルトの手が止まる。  ちょうど自分のお椀の中身に、小さな壺から一つまみの香辛料を加えているところであった。 「アタシには薄い塩味の飯を食わせてといて、自分のだけ、ちゃんとした味付けしてるわけ!? 一人だけズルいわよ!!」 「ズルいも何も、これは自分用の調味料だ。旅慣れた人間は、単調な保存食の味に飽きないように、こういった自分用の調味料を持ち歩くのが常識なんだよ。ウォズが準備した荷物の中にも入ってると思うんだがな」 「出発した日の夜に見た時には無かったわよ、たぶん。ちゃんと確認したわけじゃないけど……」  そう言いながらアルーサは、荷袋の中身をドサドサと乱雑に地面に落とす。  毛布や着替え、食料の詰まった袋などが散乱する中で、アルーサは何かを発見する。 「アイツ、荷物の中にこんなもん入れてたわ」  アルーサが手にしていたのは一冊の薄い書物だった。  何度も読み込まれているらしく、手垢に汚れ、背表紙がボロボロになっている。  パラパラとページに目を通したアルーサは意外そうな顔をする。 「ふうん、恋愛小説ねえ。アイツ、真面目な顔してこういうの読むんだ」  そういうとその場に腰を下ろし、小説を読み始めた。  いつの間にか調味料の事などすっかり忘れ去り、お椀の中身をスプーンで口に運びながら、夢中になって読み耽っている。 「おいおい、本を読みながら飯を食うな」  思わず咎めるダグボルト。  しかしアルーサは周囲の事などお構いなしの様子であった。  無視されたダグボルトは急に馬鹿馬鹿しくなり、毛布にくるまって地面に横になる。 「俺はもう寝るからな。お前が先に周囲を見張れ。何も起きないとは思うが、一応警戒はしとけよ」 「はーい」  アルーサの生返事にうんざりしつつも、ダグボルトは毛布を頭まで被り、目を閉じた。  毛布越しにひんやりとした風が肌に伝わってくる。  それが焚き火で火照った体を覚ましてくれて心地いい。  ダグボルトはいつしか眠りについていた。    ********** 「ふあああああああ~。眠い~」  馬上で大きく口を開けてだらしなくあくびするアルーサ。  朝日が眩しいのか、しきりに瞬きを繰り返している。 「昨日遅くまで本を読んでるからだ。今日は戦闘になるかも知れないから、早めに寝ろって言っただろ」  馬を並べるダグボルトが冷たい目を向けると、アルーサは気まずそうに視線を逸らす。 「ね、寝たわよ。アンタと見張りを交代してからすぐにね」 「嘘つけ。毛布に包まってからも、俺に背中を向けてこっそり読んでた癖に。隠してもバレてるんだからな」 「うっ」  アルーサは思わず口籠る。  そして照れ臭そうに地面を向いて小さな声で呟く。 「……意外と面白かったのよ、あの本」 「全く、お前って奴は……。とにかく先を急ぐぞ。何としても今日のうちにアクスビーク・ブリッジに到着するからな」  二人は山岳地帯を抜け、なだらかな丘陵地帯に辿り着く。  一面の緑が目に眩しい。  こういう状況下でなければ、日向ぼっこでも楽しみたくなるような牧歌的な風景だ。  眠たげなアルーサのために何度か休憩し、日が落ちる直前にようやくホロミット大河が見える場所までたどり着いた。  ダグボルトは木陰で馬を降りて、遠眼鏡(望遠鏡)で大河の方を窺う。  レンズ越しに映るのは、川幅が千ギット以上はある大河を繋ぐアーチ型の大橋と、それを覆うように聳え立つ高さ十二ギット程の三階建てと思われる長方形の城塞。  大橋の入口のアーチ門は、上下開閉式の巨大な落とし格子で塞がれていた。  屋上には、まるで周囲を威圧するかのように、紺色の布地に白い蜘蛛の紋章が縫い込まれた、『碧糸の織り手』軍の軍旗が高々と掲げられている。 「あれがアクスビーク・ブリッジか。『碧糸の織り手』軍の旗はあるが、屋上に見張りの姿は無い。もしかすると『碧糸の織り手』が死んだ時に、みんな逃亡したのかも知れん。だがそうだとしても、あんな堅牢な落とし格子が降りてては、正面からは通れそうにないな」  そう言うとダグボルトは遠眼鏡をアルーサに渡す。 「そうね。アタシ一人なら『神鳴槍の戦具』で空を飛んで、対岸まで飛べるんだけどね」  アクスビーク・ブリッジを一瞥したアルーサが呟く。 「それなら俺を抱えて飛べば……」 「ちょっと! 自分の体重考えなさいよ!」  すると冗談だとばかりに肩をすくめて見せるダグボルト。  アルーサは軽くため息をつくと遠眼鏡を返す。 「とにかく、まずは本当に敵がいないかどうか調べるのが先ね。ちょっと空から偵察してくるわ」  そう言うとアルーサの身体を流れる神気が収束され、光り輝くプレートメイルの形に具象化される。  背中に生えた四枚の翼がこすれ合い、か細い金属音が鳴り響く。 「たぶん屋上には非常用の梯子があるはずだ。もし敵がいないようならそいつを下ろしてくれ。だが偵察するにはまだ時間が早い……おい、ちょっと待て!」  アルーサは話を最後まで聞かずに宙に舞い上がった。  そして空中でくるりと方向転換すると、アクスビーク・ブリッジに向けて飛んで行ってしまった。  ダグボルトはため息と共に呟く。 「空からの偵察は目立ち過ぎるから、念のために夜になるのを待てって言おうとしたのに……」  そしてあっという間に一刻が過ぎた。  日は完全に落ちて、柔らかな月明かりが辺りを照らす。  アルーサは城塞の向こう側に姿を消したまま、未だ戻らない。  待たされるダグボルトはじりじりと焦燥感を味わっていた。  雑草のそよぐ、ざわざわという微かな音にすら苛立ちを感じる程だ。 (あいつめ。偵察だけでいいのに、余計な事をしてるんじゃないだろうな……)  すると突然、城塞大橋入口の落とし格子が軋む音と共に上がり始めた。 (まさか敵に気付かれたか!?)  ダグボルトはすぐに馬に乗ると、腰のスレッジハンマーを引き抜いた。  彼がいる開けた丘は、多数の兵を相手するには不利な場所であった。  一か八か入口で敵を食い止めようと、橋に向けて馬を走らせる。  馬の蹄が大地を抉り、土と雑草を撒き散らす。  だが大きく開いた入り口から姿を現したのは、敵兵では無くアルーサであった。  しかも『神鳴槍の戦具』を解除して、旅の服装に戻っている。  驚いたダグボルトは慌てて馬を止める。 「偵察しに行ったはずのお前がどうしてそこにいるんだ!?」 「外から見た限り、全く人影が無かったから、思い切って屋上から内部に入ってみたのよ。でもどこにも敵の姿は無かったわ。みんなずっと前に逃げたみたい」 「まさか俺に何も言わずに勝手に中に入ったのか!? 敵が待ち伏せてたらどうする気だったんだ!!」  ダグボルトは怒りもあらわに叫んだ。  だがアルーサは全く悪びれない様子でこう答える。 「その時は返り討ちにしてたわよ」  そして呆れて言葉を失うダグボルトに、さらにこう言った。 「どうでもいいけど、さっさと引き返してアタシの馬も連れてきてよ。早くここを渡りましょう」  ダグボルトが渋々馬を連れてくると、それに乗ってアルーサは大橋の城塞部に入っていった。  仕方なくダグボルトも後に続く。  中は真っ暗だったが、アルーサのプレートメイルが放つ神気の輝きのおかげで、辺りを見通すことが出来た。  大河を繋ぐ幅十五ギット程の通路は吹き抜けになっていて、高い天井部分までは明かりが届かない程だ。  また敵の侵攻を阻むために、通路の何ヶ所かに馬止めの柵が設置されている。  柵には迎撃用のクロスボウと矢筒が幾つか立て掛けられている。  左右の壁の二階部分には、弓狭間(外敵に矢を放てるように設計された細い小窓)が無数にあり、壁の向こう側にある居住区画からの攻撃を可能にしている。  また左右の居住区画を繋ぐように、三本の空中廊下があり、そこにも弓狭間が備え付けられている。  この城塞型大橋にまともに正面から攻撃を仕掛ければ、大打撃を受けるのは間違いないだろう。  アルーサの言葉通り、橋には人気は全くない。  しかし周囲を観察したダグボルトは、この状況に不自然なものを感じていた。 「『碧糸の織り手』軍の連中が撤退したのなら、どうして武器を置いていったんだ? それにここは外と比べてやけに寒い。まるで冬山に迷い込んだみたいだぞ。どうも嫌な予感がする……」  通路のあちこちが凍結していて、寒さでダグボルトの吐く息は白くなっていた。 「アンタって図体がでかい割に、ずいぶんと用心深いのね。それならこんな場所、さっさと抜けちゃえばいいでしょ」  そう言うとアルーサは正面を指差す。  対岸の出口の落とし格子は下がっていて、格子の隙間から月明かりが差し込んできている。  落とし格子の側の床には、大きなレバーが設置されていた。  あれを操作して開閉するのだろう。  二人は馬止め用の柵の隙間をジグザグに通り抜け、出口へと向かう。 「きゃっ!」  半分ほど来たところで、急にアルーサが小さな悲鳴を上げた。  ダグボルトは反射的にスレッジハンマーに手を伸ばす。 「どうした?」 「天井から水滴が……」  ダグボルトは軽くため息をつくとハンマーから手を離す。  だが水滴を拭ったアルーサの手を見て一瞬凍りつく。 「それ、血じゃないか?」 「え?」  慌ててアルーサは自分の手を見た。  そこには悪臭を放つ、薄い焦げ茶色の液体が付着している。  アルーサは気持ち悪そうに手を振って、それを払う。 「こんなのただの赤錆よ、きっと」 「お前の光で天井を照らせないか?」 「うん。やってみる」  アルーサの右手から溢れだす神気が、ターゲットシールドに形を変える。  そして盾の表面から放たれる光を上へと向けた。  暗闇に包まれていた天井がさっと照らし出される。 「なっ……!」  二人は絶句する。  そこには無数の氷柱がぶら下がっていた。  目を凝らすと氷柱の中に人影が写る。  ダグボルトが遠眼鏡で観察してみると、そこにはミイラ化した人の姿があった。  氷漬けになった死体は、ざっと見ても百体以上はあるだろう。 「こいつはひどいな。鎧を着けてるところを見ると、ここを守っていた傭兵達のようだが……」 「それがどうしてこんな事に?」 「そいつはたぶん……」  ダグボルトの言葉を遮るかのように、轟音と共に近くの壁が崩壊する。  驚いた馬が暴れそうになるのを、二人は必死に抑えた。  壁の裂け目から現れたのは、ぬらぬらと光る粘液に包まれた奇怪な怪物だった。  体長四ギットくらい。八本の太い脚、爛々と輝く四つの丸い目、腹部はでっぷりしてと丸い。  表皮は艶のある毒々しいラベンダー色の外殻で覆われている。  口元の象牙のように滑らかな鋏角から、ぽたぽたと消化液が滴り落ちる。 ――亡き『碧糸の織り手』の尖兵であった、『蜘蛛の異端』。 「どうして主が死んだのに、こいつは普通に活動してるんのよ!?」 「『偽りの魔女』が死んでも『異端』は人間には戻らん。それどころか主を失ったおかげで、今度は自由気ままに暴れ回るようになる。いわゆる野良の『異端』ってやつだ」  驚くアルーサを見てダグボルトが解説した。  ダグボルトと『黒獅子姫』は、今までの旅で『偽りの魔女』を倒した後、こうした野良の『異端』を全て刈ってから先に進んでいた。  誰かに命令を与えられなけば動かない『赤銅の異端』のように、安全なものも例外的にはいたが、大抵の『異端』は放っておけば、周辺の村落に被害を与えかねないからだ。 「たぶん『碧糸の織り手』軍の連中は、制御を失ったこいつに殺されたんだろう。だがこのまま放っておけば、ここを通ろうとする者に害を及ぼすはずだ。こいつを片付けから先を急ぐとしよう」 「了解。そういう事なら任せといて!」  アルーサの左手に光のジャベリンが現れる。  しかし同時に『蜘蛛の異端』の口から、凍りついた糸を固めた、西瓜ほどの大きさの氷塊がアルーサ目がけて放たれる。  それでもアルーサはまるで動じず、手首を軽く動かしてジャベリンを放った。  身体にぶつかる寸前の氷塊が、まるで爆発したかのように無数の煌めきと化す。  氷塊を砕いたジャベリンは、そのまま『蜘蛛の異端』の口にぶすりと刺さった。  傷口から青い体液が流れ落ちる。 ――キュルキュルキュルキュル。  鋏角を擦り合わせ、悲痛な叫びにも似た音を上げる『蜘蛛の異端』。 「一撃で倒し切れなかったか。じゃあ次でとどめを刺してやるわ」  だがアルーサはぽかんとする。  『蜘蛛の異端』は空中に浮いていた。  まるで蝶に生まれ変わったかのように、ふわふわとした奇妙な動きで。 「な、何なの、こいつ。蜘蛛の癖に空も飛べんの!?」 「いいや、そいつの身体をよく見てみろ!」  ダグボルトの指示通り、目を凝らして見ると、『蜘蛛の異端』の身体には透明な凍糸がびっしりと巻き付いていた。凍糸で引っ張られた『異端』は、奥の暗がりに吸い込まれるように消えていった。  そして何かを噛み砕く様な音と、くちゃくちゃという不快な咀嚼音が通路に響き渡る。  アルーサは音の正体を探ろうと、ターゲットシールドの放つ光を動かした。  光によって映し出されたのは、先程のものの倍はあろうかという巨体の『蜘蛛の異端』。  通路の天井に逆さに張り付いいて、アルーサの一撃を受けた『異端』をむしゃむしゃと捕食している。 「アイツ、共食いしてやがるわ……」  アルーサは忌々しげに呟いた。ダグボルトもヘルムの中で顔を強張らせる。 『おで、みんなぐっで、大ぎぐなっだ』  巨体の『異端』は鋏角を擦り合わせて、人間の声に似せた不協和音をかき鳴らした。 「まさか貴様、人間の言葉まで話せるようになったのか!?」  さすがにこれには驚くダグボルト。  おそらく共食いによって得た魔力によって、知能も向上したのであろう。 『ぞうだ。だぐざん、だべだら、あだまもよぐなっだ。おで、もう、むでぎ。お前らも、ぐっでやるぞう!』  巨体の『異端』が口を大きく開くと、隕石にも似た巨大な氷塊が二人に向けて放たれた。。  その一撃は凄まじい衝撃で石床を抉り、瓦礫と砂埃を撒き散らす。  二人は際どいところで直撃をかわし圧死を免れた。  だがアルーサは、いなないた馬の上でバランスを崩し、小柄な身体が地面に叩きつけられる。  彼女を振り落した馬は、橋の入り口から外に逃げていってしまった。 「おい、大丈夫か!?」  ダグボルトもすぐに馬を降りる。  馬の尻をぴしゃりと叩くと、アルーサの馬の後を追うように外に出て行った。 「当たり前でしょ。アタシをナメて貰っちゃ困るわ」  アルーサは落馬の瞬間にプレートメイルを身に纏い、衝撃を防いでいた。  そしてすぐに翼を羽ばたかせ、ふわりと宙に舞い上がる。  再度放たれた氷塊を、空中で身体を捻って華麗にかわす。  それと同時に巨体の『異端』目がけて滑空する――星屑のような煌めきの軌跡を虚空に残しながら。  氷塊は空中廊下の一つに激突し、ダグボルトの頭上に瓦礫を降り注がせる。  ヒーターシールドを上に掲げてそれを防御しつつ、タグボルトも通路の奥へと前進する。 「莫迦ッ!! 一人で突っ込むな!!」  だがアルーサは聞く耳を持たない。  すでに戦闘状態にある彼女は、心地よい高揚感に浸っていた。  三度目の氷塊をかわした瞬間に、左手に具象化されたジャベリンを巨体の『異端』に投げつける。  だが巨体の『異端』は前脚を巧みに動かし、口から噴き出した凍糸をかき集めて、即席の盾を創り出した。  放物線を描く光のジャベリンはその盾を貫くが、粘着性の高い凍糸に阻まれて、そこで止まってしまう。 「ちょっとは知恵があるみたいね。でもそれはただの囮」  ジャベリンに気を取られているうちに、すでにアルーサは巨体の『異端』の横に回り込んでいた。凍糸の盾に刺さっているジャベリンは光の粒子に変わり、アルーサの手元に戻ると再度具象化される。 「これでお終いよッ!!」  無防備な腹部を狙って、ジャベリンを突き立てんとするアルーサ。  しかし全身が、まるで凍結したかのように動かない。  アルーサはようやく気付く。  巨体の『異端』の周囲には、透明の凍糸が張り巡らせてあったのだ――。 『そご、おでの巣。おで、あだまがいいがら、さぎに罠ばっでだ。お前、まんまど引っががっだ、まぬげ』 「間抜けって言うな!!」  しかし凍糸は、鎧や翼に纏わりついて動きをほぼ完全に封じていた。  かろうじて動かせる脚をばたつかせるが、もがけばもがくほどかえって凍糸が絡み付いてしまう。  ついに観念したかのように抵抗を止めたアルーサに向けて、巨体の『異端』はじりじりと近づいて行く。  死者の手のような青白い鋏角が、手招きするような動きで、咥内の黒々とした冥府の闇へと誘う。 「止めろーーッ!!」  ダグボルトは頭上に向けて叫ぶ。  だが天井までは十ギット以上あり、彼の武器では巨体の『異端』を阻止するのは不可能であった。  周囲を見渡したダグボルトは、馬止めの柵に立て掛けられたクロスボウを手にした。  幸いな事に、敵の襲撃を想定してか、すでに矢がつがえられている。  柵同士を繋いでいる長いロープを外し、鋼鉄の矢に固く結わえ付ける。  そして巨体の『異端』の目に狙いを定められる場所に移動した。  『蜘蛛の異端』の表皮は固く、魔力や神気を帯びていない攻撃では、目以外の箇所に当てても弾かれてしまうからだ。  ダグボルトは手振れを防ぐために、柵の上にクロスボウを置き、慎重に、だが迅速に狙いを定める。 (俺の狙撃の腕で当てられればいいんだが……)  だがそこで急に、聖地防衛隊での任務時に、名無き氏族への狙撃を外してしまった事を思い出す。 (……いや、大丈夫だ。狙いを定めて引き金を引くだけ。こんなの外しようがない)  精神を集中させ、必死にそのイメージを頭から追い払う。  引き金に掛かる左手の人指し指に力が入った。 『そごのお前ッ!! ざっぎがらごぞごぞど何をじでる!?』  不意に巨体の『異端』がダグボルトの方に頭を動かした。  ダグボルトは慌てて指を止めようとするが、時すでに遅し。  発射されてしまった矢の射線は、巨体の『異端』の目から大きく逸れている。 「糞ッ!! 外したか!!」  あの時と同じミスを冒し、ヘルムの中で唇を噛むダグボルト。 「いいえ、むしろいい場所を狙ってくれたわ」  突然、ぴくりとも動かなかったアルーサが言葉を発した。  同時に振り子のように身体を動かし、狙いを逸れた矢を勢いよく蹴り飛ばす。  軌道が変わった矢は、ダグボルトが初めに狙いをつけた場所に命中する――すなわち巨体の『異端』の黒々とした丸い目へと。 『ギシャアアアアアアアアアアアアアアッ!!』  火花が散るほどに激しく鋏角を擦り合わせ、悲鳴にも似た音を発する巨体の『異端』。 「いいぞ、アルーサ! ……さあ、力比べと洒落込もうじゃないか、蜘蛛野郎ッ!!」  ダグボルトは、矢に結ばれたロープの端を右の義手に巻き付け、力強く引っ張り始める。  全身の筋肉が膨張し、歯を食いしばる口から歯軋りの音が鳴る。  ピンと張ったロープがギリギリと音を立てる。  巨体の『異端』は、八本の脚の爪を天井に食い込ませて必死に抵抗した。  だが体長八ギットの巨大な体躯が、少しずつダグボルトの方に引きずられ始めた。 「まったく……。何て莫迦力なの、アイツ」  思わず呆れるアルーサ。  修練場での決闘の時もそうであったが、ダグボルトの力技には度肝を抜かれるばかりであった。 「うおおおおおおおおおおおおおおおお!!」  獣の咆哮にも似た雄叫びを上げて、ついにダグボルトは巨体の『異端』を天井から引き剥がした。  勢いのついた巨体の『異端』の身体は、そのまま空中廊下に激しく叩きつけられる。  あまりの衝撃に石造りの空中廊下が、まるで積木細工のように粉々になって崩落する。  滝のように流れ落ちる瓦礫と共に、巨体の『異端』の身体が地面に激突した。  しばらくして崩落が収まると、急に辺りがしんと静まり返る。  もはやその場で動くものは無く、ダグボルトは勝利を確信した。  だが次の瞬間、瓦礫の下から埃で真っ白になった巨体の『異端』が現れる。  表皮のあちこちが大きく裂け、青い体液を噴水のように噴き出しながらも、まだ生き長らえていた。 「こいつ、まだ動けるのか!?」  ダグボルトはすぐに身構える。  睨み合う一人と一体。  そして先に動いたのは――。 「キシシッ……お、おで、あだまがいいがら…ご…ごういう時は……逃げるっ!!」  巨体の『異端』はいきなり身体の向きを変えた。  口から吐き出された凍糸が、出口の落とし格子近くの床のレバーに巻き付く。  糸を引くと、大きな音を立てて落とし格子が上がっていく。  必死に身体を引きずりながら、巨体の『異端』は八対の脚で出口へと走る。 「待てッ!!」 「追わなくてもいいわよ」  走り出そうとしたダグボルトに、頭上のアルーサが声を掛ける。  見上げたダグボルトはギョッとする。  アルーサのプレートメイルの表面を、まるで放電しているかのように神気の光筋が走っていた。 「アンタのおかげで、体内の神気を十分に高める時間が稼げたわ。止めはアタシが貰うわよ!」  全身から放たれた雷が、アルーサを拘束していた凍糸を一瞬で焼いた。  同時に『神鳴槍の戦具』が形態を変える。  四枚の翼が八枚に。  ジャベリンとターゲットシールドが合わさり、四ギット程の長さのグレートランス(長槍)へと――。 ――魔に歪められし生命よ。聖天の女神の威光に依りて、救済の一擲を与えん。  小さな赤い唇から紡ぎだされる死の宣告。  八枚の翼から溢れ出す神気の輝きが、アルーサが両手で抱え持つグレートランスの先端に収束され――そして放たれた。  『異端』の巨大な身体よりも、さらに大きな稲妻と化して――。  その余りの眩しさに、思わずダグボルトは右目をつぶる。  通路の壁や床が衝撃でビリビリと震え、光と轟音で埋めつくされる。  そして再び静寂と闇が戻る。  ダグボルトが目を開いてみると、眼前に巨体の『異端』の姿は無く、床に黒っぽい焦げ跡が残るだけであった。 「何て威力だ。どうやら俺は、お前の力を過小評価してたらしいな」  ダグボルトは驚嘆の声を発する。しかし返事は無い。  アルーサの方を見たダグボルトは再びギョッとする。  『神鳴槍の戦具』が解除され、翼を失った彼女の身体は地面へと落下していた。  ダグボルトは反射的に前に飛び出していた。  そして際どい所で、彼女の小柄な身体を両腕でしっかりと抱き止める。  しなやかな筋肉の感触が鎧越しに伝わる。 「あれがアタシの必殺技『天雷活殺』。これでホントにあるって分かったでしょ。神気をほとんど使い果たしちゃうから、一日一回が限度なんだけどね」  アルーサは平然とした表情で言った。 「だったら何であの状況で使った!? 敵を倒しても、墜落死したら意味無いだろうが!!」  思わず大声を上げるダグボルト。  アルーサは一瞬きょとんとしていたが、少し考えてこう答える。 「それは……。アンタが受け止めてくれるって分かってたからよ」 「ほう。じゃあ、ようやく俺を信頼しようって気になったんだな」  ダグボルトは意地の悪い口調で言った。  するとアルーサは、慌てて両腕の間からすり抜けた。 「するわけないでしょ、莫迦っ! アンタにはまだアタシの力が必要だから、ここで死なせたりはしないだろうって思っただけ。調子に乗んないでよ、オッサン。それより早くアタシの馬を探してきて」 「俺がか?」 「当然でしょ。アンタ以外に手の空いてる人間がいる?」  ダグボルトは反論しかけるが、結局何も言わずに口を閉じた。  これ以上やり合っても時間の無駄だ。  仕方なく深いため息をつくと、馬を探しに寒空の下へと出て行った。
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