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追憶の断章(その一)
――聖霜暦七百五十三年 寒緋桜の月(二月) 七日 (『黒の災禍』の約二年前)
雪混じりの冷たい風が、レオルム山脈の山肌を撫でるように吹き付ける。
麓の山林の木々が風で揺れ、亡霊のざわめき声のような不気味な音を立てる。
山の中腹にある教皇庁で働く司教や聖堂騎士は、各々の制服の上に毛皮の防寒マントを羽織って、厳しい冬の寒さに耐えていた。教皇庁は高い城壁に囲まれているため、幾分風は和らいでいるが、肌を切り裂くような冷たい空気からは逃れられないのだ。
この峻厳な地は、聖天教会の創設者であるオーギュント・ペイモーンが、百五十二年前に最初の修道院を建てた場所であった。
過酷な環境こそが純粋なる信仰を育む。
それがオーギュントの考えだったのだ。
**********
グレイラント公国の下級騎士の出身であるオーギュントは、戦場で戦いに明け暮れる生活に空しさを感じ、やがて女神ミュレイアへの信仰に目覚めた。
だが当時、ミュレイアを信奉する教団の多くが腐敗に塗れ、信仰は地に堕ちていた。
そこで情熱に溢れた若きオーギュントは、自らの手で新たな宗教組織である聖天教会を設立したのである。
その後、聖天教会は、名無き氏族(ネームレス)の手から聖地ルヴァーナ山脈と周辺区域を奪取しようと画策していたアシュタラ大公国と手を結ぶ。
そして教会の総司教(後の教皇職に当たる)となっていたオーギュントは、北部諸国の王を熱心に口説き落とし、彼らの資金援助を得て、信仰心を持った傭兵や騎士を集めて聖堂騎士団を結成させた。
さらに自らの手で聖堂騎士団の指揮を執り、アシュタラ大公国との共同作戦によって、ついに聖地奪取に成功したのだ。
聖地を手に入れた意義は大きかった。
女神ミュレイアを信奉する他の多くの教団が合流し、いつしか聖天教会はモラヴィア大陸最大の宗教組織となった。それは同時に、聖天教会が多大なる政治的権力を手に入れた事を意味する。
その一方で、目的を果たした聖堂騎士団を、オーギュントはあえて聖天教会には組み込まず別組織に留めた。そして自分に代わる新たな総長に指揮を任せ、世界各地の教会や、聖地の防衛任務を依頼したのである。
聡明なオーギュントは、宗教機関と軍事機関が一体化する事の危険性を、本能的に理解していたのであろう。
そうした慎重な政治的判断があったからこそ、その後の聖天教会の繁栄があったといえる。
しかしながらオーギュント本人は、肺炎により三十五歳の若さでこの世を去った。
聖天教会を設立してから十年後の事であった。
彼は僅か十年足らずで、この世界の秩序に大きな変革をもたらしたのだ。
**********
教皇庁の城壁内部は大聖堂 (カテドラル)を中心として、司教達が暮らす住宅区画、参拝者を相手にする商業施設などがある。
一般人の大聖堂への立ち入りは禁止されているが、代わりに死後聖者に認定されたオーギュントの霊廟が解放されていた。
地理的な問題もあって参拝客は決して多くは無い。
それでも信仰心豊かな者達は、この霊廟を訪れるために過酷な山道を抜けて来ているのだ。
しかし一般人には極秘だが、実は二十年程前に、密かに麓から大聖堂の地下に通じる直通トンネルが掘られていた。
一般人には舗装されていない危険な山道を使わせ、不便を強いる一方で、大司教達は馬車に乗って悠々と教皇庁に向かう事が可能なのだ。
もしオーギュントが生きていたら、聖職者達の堕落ぶりを嘆く事であろう。
薄暗いトンネルの中を蹄の音が反響する。
黒塗りの馬車の外板につけられたランプの、仄かな明かりが寒々としたトンネル内部を照らす。
木材を何枚も貼り合わせた頑丈な造りの一方で、外部に装飾などは一切無い、
派手な物を嫌う、乗り手の好みを反映した代物であった。
トンネル内部に設置された幾つかの検問を抜けて、馬車は大聖堂の地下に到着した。
御者が馬車のドアを開くと、中から杖をついた一人の男が現れる。
年齢は五十前後。
髪は真っ白で、目は死んだ魚のように虚ろ。
顔には深い皺が刻まれていて、実年齢より遥かに老いているように見える。
長身で痩せぎすの身体で、青白い肌には静脈がくっきりと浮き出ている。
地味な黒外套の下に僧服を身に着けているが、それとは不釣り合いなロングソードを腰に佩いていた。
「すぐに護衛の聖堂騎士を呼んで参ります」
御者は恭しい口調でそう言ったが、白髪の男は首を横に振る。
「必要ない。用事はすぐに済むし、あまり目立ちたくないのだ。お前はここで待て」
白髪の男はそれだけ言うと、座席に置いてあった大きめの旅行鞄を持って、杖をつきつつ一人で大聖堂の中に入っていった。
レウム・ア・ルヴァーナの大聖堂と比べると数段劣るものの、教皇庁の大聖堂も荘厳な造りであった。
広々とした大理石の廊下を、豪奢な服を纏った大司教達が我がもの顔で闊歩する。
しかし白髪の男とすれ違った時には、皆がキョトンとする。
見慣れた顔ではあるが、服装のせいで誰だか分からなかった、という様子だ。
だがすぐに、通り過ぎた男の背に向けて深々と頭を垂れる。
それは風采の上がらぬ地味な白髪の男が、実際は地位が高い人物だという事を物語っている。
やがて白髪の男は、教皇の執務室がある二階の廊下にやって来た。
そこには一人の若い聖堂騎士が立哨していた。
白髪の男は、何も言わずに聖堂騎士の脇を通り抜けようとしたが、あっさりと止められてしまう。
「お待ちを。ここから先は、許可なき者が立ち入る事は出来ません。教皇猊下に面会のご予約はとられてますか?」
その若い聖堂騎士は、白髪の男には見慣れぬ顔であった。
男がしばらく教皇庁を離れていた間に、警備任務に就いたのだろう。
男は無言で襟についている徽章を見せる。
「枢機卿(教皇の補佐職)猊下でございましたか。これは失礼いたしました」
しかし若い聖堂騎士は、脇を通り過ぎようとした男をまた止めた。
「朝の瞑想の時間は、誰も通さぬよう教皇猊下に厳命されております。申し訳ありませんが、今しばらくお待ちいただけますでしょうか」
若い聖堂騎士は、廊下の端に置かれたソファーを手で指し示した。
「それと武器を預からせていただきたいのですが」
そう言われて、白髪の男は自分の腰に剣を履いているのに、今頃気付いたような顔をした。
「実を言うと、これは一度も使った事がないのだ。戦場にいる時に見栄えがいいから身に着けていただけなのだが、確かに武器は武器だな」
ロングソードを聖堂騎士に渡して、男はソファーに腰掛けた。
そして無表情のまま、ずっと壁の一点を見つめたまま動かなくなる。
その姿は、まるで石像に戻ったガーゴイルのようだ。
(初めて見る人だけど変わってるな……)
若い聖堂騎士は思わず苦笑いを浮かべる。
半刻(三十分)程過ぎた所で、巡回中の先輩の聖堂騎士が通りかかった。
「ここの警備はお前一人なのか?」
「はっ。本当はあと二人いるんですが、一人が高熱を出してふらふらしていたので、もう一人が付き添って医務室に連れて行きました」
「だったら先に待機室に行って、そいつらの交代要員を呼んでくるべきだったな。教皇猊下のお部屋をたった一人で警備するなど、本来は許されない事だ。まあ今回は見なかった事にしよう。お前はまだ新人だからな」
「申し訳ありません。以後気をつけます」
若い聖堂騎士は、済まなそうな顔をして素直に頭を下げる。
「それで何か異常は無かったか?」
「はい。客人が一人参られましたが、教皇猊下の瞑想のお時間のため、そこでお待ちいただいています。それと武器を携帯していたので、こちらで預かっておきました」
そこで初めてベンチの方を見る先輩騎士。
地味で目立たない格好のため、白髪の男に今まで気付かなかったのだ。
だが男の正体に気付いて、一瞬で顔が青ざめる。
若い騎士からロングソードをひったくると、白髪の男の前に跪き、恭しい仕草で差し出した。
「聖堂騎士団の人間が無礼を働き、大変申し訳ありませんでした。指導が行き届いていなかった事を、どうかお許し下さい」
「別に気にしてはいない。彼は自分の務めを忠実に果たしただけだ」
白髪の男は淡々とした口調でそう言うと、腰にロングソードを帯びた。
「それで、そろそろそこを通っていいかね?」
「勿論でございます。猊下でしたら、いついかなる時でもお通りしていただいて構いません」
あまりにも唐突な展開に、若い聖堂騎士はポカンとしている。
しかし白髪の男の外套の肩に、小さく刺繍された『天高く聳え立つ塔』の紋章に、ようやく気付いて顔面蒼白になる。
「そんな……。あなたはまさか……」
――男の名はバーティス・ブラックタワー。
教皇庁枢機卿団の総帥にして、イスラファーン王国の南部貴族連合を束ねるダーレン伯でもある。
階級の上では教皇に次ぐナンバー2だが、権力的には教皇をも凌ぐ存在。
聖天教会の事実上の最高権力者なのだ。
**********
ブラックタワー家はイスラファーン王家の傍流であり、肥沃な農土を持つ広大なダーレン地方を治める名家である。その家に生まれた時点で、バーティスの人生は保障されたもののはずであった。
しかしバーティスの人生は、決して順風満帆だったわけではない。
バーティスは生まれてすぐに母親を失い、新しく母となった女性は彼を疎んじた。
そして父親は、継母との間に生まれたバーティスの二歳年下の異母弟ガイラートを耽溺するようになったのである。
バーティスが十二歳の時に事件は起きた。
その日、ブラックタワー家の屋敷の前に、果物のジュース売りの屋台が通りかかった。
それを見たガイラートは、すぐに母親に果実ジュースをねだった。
するといつもはバーティスに冷たい継母が、珍しく二人分のジュースを買ってくれた。
バーティスは何の疑問も感じず、買ってもらったジュースを飲んでしまう。
だが急に胸に焼けつくような痛みを覚え、激しく吐血して意識を失った。
ジュースには毒が盛られていたのだ。
幸い、医師の懸命な治療のおかげで、バーティスは一命を取り留めた。
だが胃と肺をひどく損傷し、激しい運動の出来ない身体となってしまった。
食事もままならぬせいか、みずみずしかった肌は老人のように皺だらけになり、美しかった黒髪もいつしか真っ白になっていた。
結局、ジュース売りはどこかに行方をくらましてしまい捕まらなかった。
だがさすがのバーティスも薄々気付いていた。
あのジュース売りは継母が雇った暗殺者だと。
そして継母は、以前にましてバーティスに冷たくなり、さらに使用人達までもがよそよそしい態度をとるようになっていった。
彼にもはや味方など一人もいなかったのだ。
身の危険を感じたバーティスは、修道院に入りたいと父親に願い出た。
それはブラックタワー家を継ぐ事を、事実上放棄するようなものだが、父親は喜んで認めた。
父親も病身となったバーティスより、健康なガイラートに家を継がせたいと考えていたのだ。
かくしてバーティスは、貴族の生活を捨て聖天教会の一司祭となった。
バーティスが十八の時に父親が病死したが、暗殺を恐れて葬儀には参列しなかった。
しかしもうそんな心配をする必要など無かったのだ。
父親は遺言状で、ガイラートをブラックタワー家の後継者として指名していた。
ブラックタワー家にとって、バーティスはすでに過去の人間だったのだ。
だがバーティスは決してあきらめてはいなかった。
修道院という閉鎖空間の中での濃厚な人間関係は、バーティスの中に眠っていた資質――人心操縦の能力を引き出していた。
人間関係の機微を見極め、教団内で順調に地位を固めていったバーティス。
同時に、子飼いの司祭を通じてブラックタワー家の使用人を買収し、ガイラート達の情報も密かに収集していた。
ガイラートは父親が亡くなったすぐ後に、若い貴族の娘と結婚していた。
しかしこの妻はひどい浪費家で、高価な宝石や衣装などを次々と買いあさり、それが原因で姑と度々衝突していた。
そしてガイラート自身も、段々と自分の母親を疎ましく思うようになっていった。
ガイラートがブラックタワー家を継げたのは、母親のおかげなのだが、三十を過ぎても未だに子ども扱いされて、政治的問題や家庭問題に口出しされるのに、いいかげん嫌気がさしていたのだ。
ついに復讐の機会は巡ってきた。
バーティスのスパイとなっていた宝石売りの商人が、いつものようにガイラートの妻に会いに行くと、彼女は悲しげな顔をしてこう言った。
「ごめんなさい。無駄遣いのし過ぎだってお姑さんにものすごく怒られちゃったから、もう宝石は買えないの」
彼女の頬には涙の痕があった。相当ひどい叱責を受けたようだ。
「もしかしてブラックタワー家の財産は、姑殿が握っておられるのですか?」
「ええ、そうなの。最初のうちはガイラートが財産を管理してたんだけど、私が無駄遣いするからって、あの人が自分で管理するようになったの」
「それは酷い話ですね。ブラックタワー家の財産は、全てガイラート殿のものですから、妻であるあなたがどう使おうが怒られる道理はありませんよ」
そして商人は声を潜めてこう言った。
「いっその事、姑をこの世から消してしまってはいかがですか? 彼女さえいなくなれば、あなたは自由にお金を使えるようになれますよ」
驚く妻に商人はこう続ける。
「私は闇の世界に顔が利きます。よろしければいい暗殺者をご紹介しましょう」
商人はガイラートの妻を口説き落とし、暗殺計画に同意させた。
妻から計画を打ち明けられたガイラートは唖然としたが、母親を憎む気持ちは彼も同じだった。
結局、最後は彼も同意し、計画は実行された。
暗殺に使われたのは、奇しくも毒入りの果実ジュースであった。
母親の暗殺に成功し、ガイラートはブラックタワー家の実権を全て手中に収めた――かに見えた。
バーティスが衛兵を引き連れ、継母の葬儀に乗り込んでくるまでは。
バーティスはその場で衛兵に、ガイラートとその妻を拘束させた。
宝石売りの商人は、口封じのためにガイラートに始末されていたが、手紙などの暗殺計画の証拠は全てバーティスの手元に集められていた。
長い裁判の結果、首謀者であるガイラートの妻は絞首刑となった。
ガイラート自身は終身刑を宣告されたが、収監されてから一年後に、独房の中で首を吊っているのを看守に発見された。
一方、バーティスはイスラファーン王国の国王であるアルディーン二世に、自分をブラックタワー家の新たな後継者として承認してくれるよう願い出ていた。
アルディーン二世はバーティスを一目見た瞬間、直感的に危険な男だと見抜いたものの、南部貴族連合の強い推薦もあって承認せざるを得なかった。
周到なバーティスは、あらかじめ南部貴族連合を懐柔して、自分への支持を取り付けていたのだ。
こうしてバーティスは、三十七歳にしてブラックタワー家の跡取りに返り咲いた。
そして現在、五十二歳となったバーティスは、さらに強大な権力を手に入れ、聖天教会を牛耳るようになっていた。
しかしバーティスも決して全知全能というわけではない。
『血みどろ(ブラッディ)ダンリーの反乱』では、敵対する『清廉派』の情報を流していたスパイのアレンゾが、おそらくは故意に報告を遅らせたため、『清廉派』の反乱への関与を止めさせることが出来なかった。
おかげで教会の腐敗が世間の目に触れる事となり、気の進まぬ教会改革に乗り出さざるを得なくなったのだ。
アレンゾは密かにバーティスと手を切ろうとしていた。
だがバーティスにとって幸いな事に、アレンゾは女癖の悪さが仇となって、二年前に赴任先の聖地レウム・ア・ルヴァーナで命を落としていた。
とはいえ、もう二度と慢心はするまいと、バーティスは心の中で固く誓ったのだ。
**********
平謝りする二人の聖堂騎士の脇を通り抜け、教皇の執務室に向かう間も、バーティスは思考に耽っていた。
(……あの新人騎士について、全てを知っておく必要があるな。名前、家族構成、性格、趣味、好みの女のタイプ、金遣いが荒いかどうか、他にも全てをだ)
バーティスは教皇庁で働く全ての人間を徹底的に調査していた。
大司教、聖堂騎士、使用人に至るまで全員だ。
人間を思いのままに操るには、まずは相手の事をよく知る必要がある。
そうして相手の弱みを見つけ、ある者は脅迫し、またある者は買収してスパイに仕立て上げるのだ。
この教皇庁のあちこちにスパイがおり、密かにあらゆる手紙の写しがとられ、噂話を含む全ての情報が彼の元に集められていた。
無論、彼の上司であるヴィクター・クレメンダール教皇に関する情報もだ。
たとえ相手が上司であっても、弱みさえ握っておけば精神的優位に立てるからである。
バーティスは執務室の扉をノックすると、返事も待たずに中に踏み込んだ。
壁際の暖炉を火かき棒で弄っていた赤毛の若いシスターが、バーティスに気付いて立ち上がる。
そばかすの浮いた純朴で整った顔は、暖炉の熱で林檎のように赤く上気している。
(シスター・マレン・ミロー。十六歳。アドラント王国北西部ラデン村出身……)
バーティスは心の中で確認する。
彼は教皇庁で働く人間の個人情報を全て暗記しているのだ。
奥の書物机で瞑想にふけっていたクレメンダール教皇が目を開いた。
バーティスの顔を見て微笑む。
「これはバーティス殿。こうして会うのはずいぶん久しぶりですね」
クレメンダールは今年で四十六歳だが、中性的で整った顔立ちのせいもあって、まだ三十台に見える。
瞳は淡いブルー。
髪は栗色で、肩までの長さまで伸ばしていて、前髪は眉のあたりで切り揃えられている。
演説の時は外しているが、普段は丸眼鏡をかけている。
これが魔女狩りの提唱者だとは、とても思えないような柔和な風采だ。
しかしひとたび演説が始まると、まるで別人のように清廉かつ苛烈な言葉を、滝のように吐き出すのだ。
「座っていいかな? ずっと立っていると足が震えてくるのだ」
そう言うとバーティスは、返事も待たずに客人用のソファーに腰を下ろす。
大理石のテーブルに杖を立て掛け、重そうな旅行鞄をどんと置いた。
「悪いが少し席を外してくれ」
バーティスがそう言うと、シスター・マレンはぺこりとお辞儀して執務室を出て行った。
「彼女(あれ)を気に入ってくれたかな?」
二人きりになるとバーティスが尋ねた。
「ええ。実にいい子です。生真面目で、職務に真摯に取り組む姿勢は素晴らしいと言う他ありません。そして――」
「そして処女だ」
バーティスはきっぱりと言った。クレメンダールも重々しく頷く。
「ええ。それこそが何よりも重要です。女性は男よりも遥かに純粋で、高度な精神的善性を持ち合わせています。しかしその一方で、一度でも男を知ってしまった女性は肉欲に憑かれ、誘惑に弱くなってしまいます。それはつまり、善性を失って魔女と化す危険が高くなるという事です」
クレメンダールは滔々と自説を語り始めた。
それに同意するようにバーティスは一々頷いて見せる。
クレメンダールは、自分の理論や理念を少しでも否定される事を極度に嫌う男だった。
そのため教皇に就任するや否や、周りを賛同者で固め、異論を唱える者はどんどん排斥していったのである。
バーティスも表向きは賛同者を装っていた。
教義にケチをつけない限り、排除される事は無いと分かっていたからだ。
「君が彼女(あれ)を気に入ってくれたのなら何よりだ。実は私の手元には、他にもいいシスターがたくさんいるのだ。君さえ良ければいつでも連れて来よう」
話がひと段落ついたところでバーティスは言った。
シスター・マレンをクレメンダールの側に仕えさせたのは彼であった。
地方の修道院に部下の司祭を送り、クレメンダール好みの若い処女のシスターを集めさせていたのだ。
無論、シスター・マレンが、バーティスのスパイである事は言うまでもない。
好みのタイプとはいえ、クレメンダールは決してシスター・マレンに手を出そうとはしなかった。
むしろ指一本でも触れるのを恐れているようであった。
男の手が触れただけで、処女性が損なわれてしまうと考えているのかもしれない。
「ありがとうございます。必要な時は声をお掛けしますよ。……ところで本日はどういったご用件ですか? 最近はイスラファーンの後継者問題に深入りしていて、枢機卿会議にもほとんど顔を出していなかったようですが」
クレメンダールが尋ねると、バーティスは急に厳しい顔になる。
「そのイスラファーンの件だが、王位を争っている二人の王子の仲裁を、イザリア王女(後の『翠樹の女王』)から頼まれたと聞いている。君は引き受けたのかね?」
一瞬の沈黙。
「どこでそのような話をお聞きしたのか知りませんが、別に何も――」
「君と腹の探り合いをするつもりはない。とぼけるような真似は止めて、早く質問に答えてくれないか?」
クレメンダールの話を遮ると、威圧的な口調で言った。
クレメンダールは眉を顰める。
バーティスがこのように力関係を誇示するような口調になるのは珍しい事だった。
「……アルディーン二世が亡くなって早二年半。イスラファーンの国土は内戦で荒廃し、人々は戦いに厭いています。イザリア殿は父親を死なせてしまった事を悔やんで、修道院に引き籠りましたが、そうした状況を見て、私に二人の兄の仲裁を依頼してきました。あなたが弟君のエミル王子に肩入れし、兄のレマルク王子の王位継承に異を唱えさせた事は良く知っています。しかし女神ミュレイアによって創られしこの世界に、平穏と安定をもたらすのが教皇である私の責務です。彼女の依頼を引き受けるのは、むしろ当然ではありませんか。断る理由などどこにもありません」
するとバーティスは、旅行鞄から書類の束を取り出してクレメンダールの前に置いた。
「イザリア王女は魔女だ。侍女とシスター達の供述書、他にも彼女が魔女であるという証拠は全て揃えておいた。後はこの魔女認定の書類に君のサインを貰うだけだ」
「はあ……」
クレメンダールは気の進まぬ様子で供述書に目を通す。
おそらくバーティスは、侍女達を金で買収して嘘の証言をさせたのであろう。
(イザリア王女とやり取りしていた手紙は全て暗号で書かれていたのに、どこで情報が漏れたのやら……)
クレメンダールは首を傾げる。
だが理由は単純であった。
バーティスは、配下に暗号解読専門のスタッフを抱えていた。
そのため全ての手紙の内容が、完全に筒抜けになっていたのだ。
「魔女認定ができるのは審問騎士だけですよ。ですからこれは、私からマデリーンに渡しておきます。彼女が証拠をよく吟味した上で、問題が無ければイザリア殿の魔女認定を行うでしょう」
バン――。
いきなりバーティスは書物机の上に手を叩きつけた。
「審問騎士は君の代理人として働いているだけではないか! 魔女認定なら君にも出来るはずだ! 今すぐここにサインをしたまえ!」
顔は無表情のままだが、見る者を凍りつかせるような禍々しい瞳で、クレメンダールを睨み付けていた。
それは普段は決して見せる事は無い、絶対権力者としての貌であった。
クレメンダールは軽くため息をつくと、机の引き出しから羽ペンとインクを取り出し、書類にサインした。
「これでいいのでしょう? すぐにイザリア王女を拘束するよう、マデリーンに伝えておきます」
満足できる回答を引き出せたバーティスはようやく笑顔を見せる。
「うむ、ありがとう。これで内戦の仲裁の話も無かった事になるな。教皇である君が、魔女の依頼を受けるわけには――」
そこまで言ったところで、バーティスはふらふらと客人用のソファーに腰掛け、苦しげに咳き込み始めた。
「大丈夫ですか? 誰か呼んできましょうか?」
心配するクレメンダール。
だがバーティスは首を横に振ると、懐から咳止めの薬液が入った小瓶を取り出した。
中身を一気に飲み干すと、少しずつ咳が収まっていった。
「済まない……。さっき少し興奮したのが良くなかったようだ」
ようやく言葉を発せるようになったバーティスが弱々しく言った。
「正直、この薬を飲むのは嫌なのだがな。有り得ないと分かっていても、毒が入ってるのではないかと考えてしまうのだ。いわゆる『ダモクレスの剣』というやつだよ」
「何です、それは?」
「権力の座にある者は、常にそれを失う恐怖と戦わなければならないという警句だ。シラクサという国の僭主(王を殺して、新たに王位についた者)に仕えるダモクレスという男が、許可を得て玉座に腰掛けてみたところ、頭上に剣が吊るされているのに気付いたという。僭主はそうやって死の危険を身近に感じる事によって、常に自らを戒めていたのだ。かつての王と同じ運命を歩まないようにな」
それを聞いてクレメンダールは怪訝な顔をする。
「シラクサ? そんな国は聞いた事ありませんよ」
「実は私もだ。先祖代々伝えられてきた話なのだが、我が祖先の誰かがでっち上げたものなのかもしれんな」
バーティスはその
話をそこで終えると、今度は旅行鞄から分厚い帳簿を取り出して書物机の上に置いた。
「イザリアの件で君には大きな借りが出来た。ささやかながらこれはそのお礼だ」
「一体何でしょう?」
「君の政敵であるワレンツを葬り去るための道具だよ」
クレメンダールの瞳がきらりと輝く。
聖堂騎士団の総長ワレンツ・ルッターダントは、聖女セオドラ・エルロンデと並んで、現在もクレメンダールの魔女狩りに堂々と異を唱える数少ない人物であった。
しかもレウム・ア・ルヴァーナに潜入していたマデリーンの報告では、クレメンダール打倒のために密かに同志を募っているらしい。いつまでも放っておくわけにはいかない人物だった。
だがクレメンダールは唇の端を歪めてこう言った。
「私の政敵……ですか。しかしワレンツはあなたの政敵でもありますね。私を利用して、自分の政敵を葬り去ろうなんて悪いお方だ」
バーティスは無言で軽く肩をすくめて見せた。それはお互い様だと言わんばかりに。
クレメンダールは帳簿をパラパラと捲ってみた。
見ているだけで頭が痛くなるような膨大な数字が羅列されている。
クレメンダールはその数字の中に、幾つか赤線が引かれている箇所を見つけ出した、
「これは聖堂騎士団の昨年度の収支会計記録ですね。この赤線の引かれている数字は何ですか?」
「それは不正な改竄が見られた箇所だ。聖地防衛隊の収益を実際より少なく報告する事で、ワレンツは聖地での管理運営費用、並びに銀行収入の一部を横領しているのだ。聖堂騎士団は聖天教会から独立した外部団体だから、君の手で直接奴を総長の座から引きずり下ろす事は出来ない。だがそれだけの証拠があれば、女神の威光を借りて犯罪行為に手を染めた罪で、奴を聖天教会の弾劾裁判にかけて政治的抹殺を図る事が可能なのだ」
「成程……。よくこれ程の証拠を集めましたね」
クレメンダールは感心したように言った
「実は前に同じような手を使った事があるのだ。あれはワレンツがイスラファーンの近衛騎士団の団長だった頃の話だ。奴は私をイスラファーン王家に仇なす害獣のように考えていたらしく、私が陛下に近づくのを何度も邪魔してきたのだ」
「つまりは正常な判断力の持ち主だったという事ですね」
クレメンダールは皮肉るように言った。
しかしバーティスはそれを無視して話を続ける。
「――それで私は、奴を排除する事に決めた。奴には清濁併せ呑むところがあって、優秀な部下ならば多少の不正には目をつぶっていた。それを利用して、奴の部下の公金横領を暴き立てて弾劾したのだ。奴自身が罪を犯したわけではないが、部下を庇って自ら近衛騎士団を去る道を選んだ。その時は、奴がまた私の前に立ち塞がるなど考えもしなかったのだがな」
バーティスは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「そうでしたか。彼との間にそんな因縁が……。しかし部下を庇うような性格から考えると、彼自身は不正を働く様な人物では無いように思えますが?」
「無論だ。それに奴は、同じ過ちを二度も繰り返すような愚か者ではない」
「ではこの帳簿は……」
「言うまでも無く奴を嵌めるための偽物だ」
沈黙――。
そしてクレメンダールは深いため息をついた。
「……実を言うと、そうではないかと思ってました。聖堂騎士団は収支会計記録に不正が無いように、監査機関に聖天教会の司祭達を加えています。その目をすり抜けて不正を働くなど、相当難しいはずですからね。しかしこんな偽の証拠にワレンツが釣られますか? 彼なら鼻で笑い飛ばすだけだと思いますが」
するとバーティスは不敵な笑みを浮かべた。
「君は何も分かっていないな。この場合、逆に偽物だからいいのではないか」
そして首を傾げるクレメンダールに説明を始めた。
「もしこれが本物の証拠なら、ワレンツはレウム・ア・ルヴァーナに引き籠って、知らぬ存ぜぬを貫き通すだろう。弾劾裁判に出て行く事は、奴にとって身の破滅を意味するからな。だが偽物の証拠ならどうするか。奴は堂々と弾劾裁判に乗り込み、偽物の証拠に釣られた君を、逆に弾劾するはずだ。それで君を教皇の座から引きずり下ろす事は不可能でも、信用に大きな傷をつける事が出来るからな」
「つまりこちらがわざと隙を見せる事で、彼をレウム・ア・ルヴァーナから誘い出そうというわけですね」
クレメンダールは、ようやくバーティスの策略を理解した。
「しかしその計画では、私がかなり不利な立場になります。どのように形勢を挽回して下さるおつもりですか?」
「奴が君を弾劾するには、裁判場のあるこの教皇庁までたどり着かなければならん。だがレウム・ア・ルヴァーナからここまではかなりの距離がある。早くても三、四週間はかかるだろう。その途上で不慮の事故が起きんとも限らん。そうではないか?」
そう言ってバーティスは今度は酷薄な笑みを浮かべる。
まるで地獄から這い出てきた悪魔のような邪悪な笑みだ。
「事故に見せかけて彼を消すと? しかしそう簡単にいきますか?」
「勿論、奴だって十分用心はするはずだ。護衛の聖堂騎士も大勢連れてくることだろう。だが私の下には汚れ仕事を得意とする食客がいる。その者なら――」
「いえ、そういう仕事なら私達に任せていただきましょう」
不意に執務室の中に冷たい女の声が響き渡った。
部屋の片隅に置かれた衝立の影から、一人の女騎士が姿を現す。
女騎士は禍々しい漆黒のプレートメイルを身に着け、鮮血のような真紅のマントを羽織っている。
悪名高き審問騎士団の正式な装備だ。
「レウム・ア・ルヴァーナで出会った時、ワレンツは私を愚弄したのみならず、教皇猊下に対しても暴言を吐きました。だからあの者は私の手で始末をつけたいのです」
彼女の名はマデリーン・グリッソム。
審問騎士団の団長であり、同時にクレメンダールの懐刀でもある。
年齢は二十九。美しいが温かみの無い顔立ち。青みを帯びた長い黒髪を後ろで結っている。
ワインレッドの瞳と対照的に、肌は雪のように白い。
しかし白い肌には不釣り合いな、醜い傷跡が身体のあちこちにある。
腰には漆黒のレイピアを佩いていた。
「サー・マデリーン。いたのなら早く言ってくれればよかったのに」
バーティスはわざとらしい仕草で驚いて見せる。
だがマデリーンは冷たい眼差しを向ける。
「これは戯言を。あなたはこの部屋に入った瞬間に、私の存在に気付いたはずです。それはこの衝立を見た時のあなたの視線で分かります。そして教皇猊下との会話の間も、ちらちらとこちらを見ていましたね」
鋭い指摘を受けたバーティスは突然激しく笑い出す。
顔の筋肉を引き攣らせたような身の毛もよだつ笑いだ。
そして咳によってようやく笑いが中断すると、クレメンダールにこう言った。
「なかなか頭の回転が速い女じゃないか。正直言うと、あのような切れ者を側に置いておく君の気持が理解できないな。内心、いつ寝首を掻かれるか気が気でないんじゃないか?」
「マデリーンの忠誠は確かなものです。裏切る事など有り得ませんよ」
「だといいがな。……そういえば君は、女にも男と同じように教育の機会を与える気らしいな。本気かね?」
今まで聖天教会の神学校では、男は高等部まで自由に通える上に、推薦が得られれば大学進学も可能だった。
だがその一方で、女はどれだけ高い学力を持っていても、中等部までしか通わせて貰えない状況であった。
しかしクレメンダールは宗教改革の一環として、男と同様に、女も進学出来るように教育カリキュラムを変更させる事を決定していたのだ。
「ええ、もちろん本気ですとも。女性が賢くなって社会進出を果たし、あらゆる役職に就けるようになれば、彼女達の影響で人類の善性はより一層高まるはずですからね」
するとバーティスは、今度はクックッという忍び笑いを漏らす。
「それはどうかな。女に知恵を授けるというのは、言うなれば暗殺者に毒薬を渡すようなものだ。女は愚かな方がいい。女に過ぎた力を与えても、それを悪用するだけだぞ」
すると二人の話を聞いていたマデリーンが突然口を挟む。
「女が知恵を悪用する? まさか謀略と謀殺を駆使してここまで成り上がってきたあなたの口から、そのようなお言葉を聞けるとは思いませんでしたよ」
「マデリーン!」
クレメンダールは、彼女をたしなめるように言った。
だが直截的な暴言を聞かされても、バーティスは顔色一つ変えなかった。
「これは一本取られたな。では用も済んだ事だし、私はこれで失礼するよ。さらばだ、ヴィクター。ワレンツの件はそこのサー・マデリーンに任せよう」
バーティスは旅行鞄と杖を手にすると立ち上がった。
そしてクレメンダールが護衛をつけようとするのを断って、一人で執務室を後にした。
バーティスがいなくなるとマデリーンが口を開く。
「猊下、なぜあの男が連れてきたシスターを側に置いておくのです? シスター・マレンは間違いなくあの男のスパイです」
「そんな事は分かっている。だがシスター・マレンを遠ざけた所で、バーティスは極秘に別のスパイを送り込んでくるだけだ。それなら初めからスパイだと分かっている人間の方が、安心して側に置いておける。彼女を重要な機密に近づけなければ何も問題ないのだからね」
「………………」
「それにあのような純真な娘が、何の理由もなしにスパイをやっているなど考えられない。おそらく何か事情があるんだろう。それが分かれば、あの娘を助けてあげる事だって出来るはずだ」
クレメンダールは思いやりに満ちた温かい口調で言った。
だがそれがマデリーンには気に入らなかった。
執務室を後にしたマデリーンは、きびきびとした動作で廊下を歩きながらも、頭の中ではずっと思考に耽っていた。
(バーティスがシスター・マレンを送り込んできたのは、スパイをさせるためだけではない。おそらく猊下と私の間に亀裂を入れるためでもある。猊下は公私混同されるようなお方ではないが、あのシスターを相当気に入っておられる。いずれ私を疎んじるようにならないとも限らない。その前に始末しておくべきか……)
だがマデリーンはその考えを否定するように目を閉じた。
(……いや、それこそバーティスの思う壺。今はまだ耐える時だ)
マデリーンの瞳が憎悪の炎で赤々と輝いた。
己の敵を全て燃やし尽くさんばかりに、激しく、赫奕と――。
(女の敵は女、というわけか。ガイラートの妻を唆して、姑を殺すように仕向けたのと同じ。それがお前のやり口なのだな、バーティス。だが善は決して敗れはしない。最後に滅び去るのは、私や猊下ではなく貴様の方だぞ)
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