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 劫罰修道会の義勇兵達が戦闘訓練に利用している、円形の修練場に四人はやって来た。  宮殿一階の中央ホールを改装した場所で、直径二十ギット程の広さがある。  他の部屋と同様、赤銅と青銅を組み合わせた金属の壁で覆われた飾り気の無い場所だ。  夕食の時間という事もあってか人気は無い。  アルーサとダグボルトは、修練場の中央にある五ギット四方の決闘場に立つ。  この場所はダグボルトに、グリフォンズロックの闘技場(コロッセオ)で戦った日々を思い出させる。 「ルールは簡単。どちらかが降伏するまで戦う。ただそれだけだ」  フルフェイスヘルムを被ったダグボルトはくぐもった声で言った。  プレートメイルを身に着けた、手加減抜きの完全な戦闘態勢だ。  しかしそれとは対照的に、アルーサは何も武具を身に着けていない。  先程と同じ私服姿のままだ。ダグボルトは眉をひそめる。 「お前はそれでいいのか?」 「勿論よ。アンタと違ってアタシにはこれがあるから」  アルーサの全身から光が放たれる。  神々しい神気の輝きが――。  すると急にウォズマイラが決闘場に昇って来た。 「待ってください。あなただけ神気を使うのはずるいですよ。公正を期すためにも、ダグボルトさんにも同じ条件で戦わせて下さい」 「ん? まあ別にいいわよ」  アルーサはあっさりと認める。  ウォズマイラは女神ミュレイアに祈りを捧げつつ、ダグボルトのプレートメイルに触れた。  身体が穏やかな神気の光に包まれると、戦闘を前にして高ぶっていた心が静まっていくのを感じた。 「いろいろ世話を掛けて済まないな」 「いえ、今の私に出来る事なんて、これくらいしかありませんから。あなたに女神のご加護があらん事を」  ウォズマイラは、ヒーターシールドとスレッジハンマーにも同じように神気を付与した。  それが終わると決闘場から降りて、テュルパンと一緒に戦いを見守る側に回った。  アルーサの身体が激しい神気の奔流に包まれる。  まるで『黒獅子姫』が黒蟻の群れに包まれる時のように。  光が収まると、そこには青白く輝くプレートメイルを身に着けたアルーサの姿があった。  鋭角的な形のフルフェイスヘルムで、頭を完全に防護されている。 「見なさい。これが『神鳴槍(しんめいそう)の戦具』よ」  アルーサは誇らしげに言った。  左手には洗練されたデザインのほっそりとしたジャベリン(投擲用の短槍)を持ち、右腕にはペガサスが描かれたターゲットシールド(丸型の中型盾)が装着されている。  全て、神気を具象化させて生み出したものだ。  ダグボルトは、『石動の皇』が纏っていた『石動(いするぎ)の闘器』を思い出した。  後で『黒獅子姫』から受けた説明によると、『石動の闘器』を纏った者が身体の動きを止めた時に発動する『絶対防御』は、魔力を帯びた攻撃すら全く通さない、完全無敵の状態を作り出すらしい。  きっとアルーサの神気の鎧も、同じように何らかの能力を秘めているに違いない。 「では、始め!」  緊張した面持ちのテュルパンが宣告する。  するといきなりアルーサはジャベリンを逆手に持ち、ダグボルトの顔面目がけ投げつける。  反射的な動作でダグボルトはヒーターシールドを掲げ、それを防ぐ。  だが想像以上の衝撃に思わず歯を食いしばる。  ジャベリンはシールドを半分貫いて、目の前で止まっていた。 (たった一撃でこれか。ウォズマイラに神気を付与されていなかったら、盾が粉々に砕かれてたな)  ヘルムの中で顔を強張らせるダグボルト。  一瞬の硬直を逃さず、アルーサは一気にダグボルトの懐に飛び込んできた。  ダグボルトは上半身を捻って、シールドを持った手を背後に回し、刺さったジャベリンを奪われるのを防ぐ。同時に突進してくるアルーサに向けて、スレッジハンマーを横殴りに振りぬく。  しかし手ごたえは無い。  眼前からアルーサの姿が消えていた。 「平面的な戦いしか出来ない、化石オヤジはさっさと引退したら?」  頭上からからかうよう声。  見上げるとダグボルトの両肩に手を乗せ、倒立したアルーサの姿。  しなやかな体躯がふわりと傾いた瞬間、ダグボルトの顔面を鈍い痛みが襲う。 「ぐぶッ!!」  ヘルムの中から呻き声を漏らすダグボルト。  神気で守られているとはいえ、膝蹴りの衝撃までは防げない。  溢れ出す鼻血が口の中に入り、鉄臭い味が舌の上に広がる。  だがダグボルトも、アルーサの着地のタイミングに合わせ、スレッジハンマーを振り下ろしていた。  アルーサは咄嗟に体を丸め、横に転がって重い一撃を回避する。 「へえ、見た目通りなかなか打たれ強いわね。やっぱそれ、返して貰わなきゃ駄目か」  ヒーターシールドに刺さっていたジャベリンが、眩い光の粒子に変わり、アルーサの左手へと戻る。  そして再び元のジャベリンに変換された。 「じゃあアタシもちょっとだけ本気出しちゃおっかな」  アルーサが祈りの言葉を唱えると、プレートメイルの背部に、薄い金属のような被膜を張り合わせた四枚の光り輝く翼が現れる。  跳躍と同時に翼を羽ばたかせ、瞬時にダグボルトとの距離を詰める。  その速さにかろうじて反応したダグボルトは、ヒータシールドを掲げて鋭い一撃を受け流す。  しかし狙いを反らされたジャベリンの穂先を地面に突き立て、それを基軸としてくるりと回転するアルーサ。  しなやかな足が鞭のようにしなり、ダグボルトの背中を痛撃する。  衝撃で大柄な身体が前方にぐらついた。 「くッ!!」  だが今度は、呻き声を上げたのはアルーサの方であった。  ダグボルトはバランスを崩しつつも、背後に蹴りを放っていたのだ。  かろうじてターゲットシールドで受けたものの、その衝撃でアルーサの身体は三ギット程吹き飛ばされ、危うく決闘場から落ちそうになっていた。  アルーサはすぐに体勢を立て直し、再度攻勢に移る。  迎え撃つダグボルトも一歩も譲らない。  二人の武具のぶつかり合う生々しい音と、ヘルムから洩れる荒い息遣いが修練場を満たす。  剥き出しの金属で覆われた息苦しい空間で、一進一退の攻防が続く。  すでに戦闘開始から半刻が過ぎようとしていた。  一見すると、激しく攻撃を仕掛けるアルーサの方が優勢のようであった。  戦いを見守るテュルパンとウォズマイラは、ダグボルトが押される場面で、何度もひやりとさせられていた。  だが当事者の二人にとってはそうでは無かった。  特にアルーサは、決定打を与えられない展開に段々と苛立ちを覚えていた。 (……こいつ、口だけの男じゃないわね。蹴りだけなら何発も当ててるけど、ジャベリンでの攻撃だけは全て盾で受け止められてる。こっちの手数の多さを考えて、全ての攻撃を防御するのは不可能だと判断して、あえて致命的な攻撃だけに的を絞って盾を使ってるんだわ)  一方で、ダグボルトは防戦一方ながらも、この状況を打開する流れにもっていこうと思考を巡らせていた。 (こいつの体術を駆使した立体的な戦い方は、前に戦った『影の手(シャドウハンド)』のものに似てるな。だが東方諸島のニンジャである『影の手』には、それだけではない、どこか得体のしれない部分があった。こいつにはそれが無い。ただ動きが速いだけだ。それにせっかくの飛行能力も、屋内での戦いではその真価を発揮できない。ならば俺にも十分に付け入る隙があるはずだ)  ついに業を煮やしたアルーサは、天井すれすれまで舞い上がるとジャベリンを構え、竜巻にも似た高速のきりもみ急降下でダグボルトに突進した。  勝負を決定付けるため、あえての大技――。 (フフッ、さっきまでのアンタの行動を考えれば、この一撃を盾で防いでからカウンターを狙うはず。でもそれでアンタはお終いよ!)  ダグボルトのヒーターシールドは、アルーサの攻撃を受け過ぎたせいで、付与された神気が失われつつあった。  全力での一撃ならば、シールドを破壊して決定打を浴びせられる――それこそがアルーサの狙いなのだ。  だがダグボルトが次にとった行動は、彼女の予想を大きく裏切った。  シールドを投げ捨てると、スレッジハンマーを両手で構え、堂々とアルーサを待ち受ける。 (こいつ、相討ちを狙う気ーーッ!?)  動揺したアルーサの動きに大きな乱れが生まれる。  ダグボルトがハンマーを振り抜いた瞬間、きりもみ回転の軌道が大きく逸れ、アルーサは上空を通過して少し離れた場所に着地した。 「どうした、アルーサ? なぜ今の勝負を逃げたんだ?」  ダグボルトは静かに尋ねる。  追い詰められている側のはずだが、落ち着いた声であった。 「うるさいッ!! アンタと心中なんてまっぴらゴメンだからよ!!」  怒りを露わにしてアルーサは叫ぶ。  ヘルムのせいで外から顔は見えないが、額は冷や汗でびっしょりと濡れていた。 (アイツのハンマーの振り抜きの方が、アタシの突進よりも速かった……。あのままいってたら、間違いなく深手を負っていたのはアタシの方だったわ。アイツが今まで防戦一方だったのは、アタシの動きに目を慣らす為だったのね)  しかもアルーサは肩で息をしている状態であった。  激しい動きを続けたせいで関節が痛み、筋肉が悲鳴を上げている。 (糞ッ! ずっと眠ってたせいで、筋力がかなり衰えてるわ。アイツに動きを見切られてる上に、この状態で戦闘を続けても勝ち目は薄いかも……) 「その様子だと体力の限界みたいだな。目覚めたばかりのお前に戦いを挑むのは、正直フェアじゃなかったな。何だったら今日の戦いはここまでにして、後日仕切り直しって形でもいいぞ」  アルーサの気持ちを見透かしたかのように、ダグボルトが言った。  だがその言葉は彼女の闘争本能に火を点けた。 「冗談じゃないわよッ!! 何でこのアタシが、アンタなんかに気を使われなきゃいけないわけ!? もう頭にきたわ!! ただの人間相手に本気を出すなんて、大人げないって思ってたけど、アンタだけは全力でブッ潰すッ!!」  その言葉と共に、アルーサのプレートメイルから四枚の翼が切り離され、ぐにゃりと形を変える――光り輝く四本のジャベリンに。  地面に降り立ったアルーサが軽く手を振ると、四本のジャベリンは複雑な軌道を描き、四方向からダグボルトを狙う。  床に落ちたシールドを拾い上げたダグボルトは、一本目の攻撃をかろうじて受け流す。  だが次々と襲いくるジャベリンに翻弄され、プレートメイルには無数の傷が生み出されていく。  中の身体も衝撃に耐えきれず、痣や打撲が増えていった。  四本のジャベリンには、アルーサの指示した対象に、自働で攻撃を仕掛ける設定が組み込まれていた。  本来ならアルーサ自身も攻撃に加わるところだが、今は体力の回復を図るため、その場に片膝をついて休息している。  その姿を視界に捉えたダグボルトは、隙をついて走りだす――アルーサに向けて一直線に。  直ちに四つの鋭い閃光が背中を狙う。  アルーサも、その動きに気付いて距離を取ろうとした。  だが突如として膝に鈍い痛み。  アルーサはバランスを崩し、危うく転倒しそうになる。  下を見るとヒーターシールドが落ちていた。  彼女の動きを止めるために、ダグボルトが投げつけたものだ。  そしてその一瞬が二人の命運を分けた。  猛牛の突進にも似た、凄まじい勢いのタックルが、アルーサの両足に食い込む。  転倒した小さな身体に、大柄な身体がのしかかる。  アルーサはヘルムの中から、呆然とした表情でダグボルトを見上げていた。  だが不意にその光景が揺らぎ、今度はアルーサがダグボルトを見下ろす形となっていた。 体勢を入れ替えられたアルーサは怪訝な顔をする。  しかしそれも、背後から風を切る四つの音が聞こえてくるまでの事であった。 「まさかアタシを盾に――」  アルーサの身体が大きくのけぞった。  四本のジャベリンが彼女の背中に突き刺さっている。  あまりに無残な光景に、テュルパンとウォズマイラも思わず目を逸らす。 「勝負あったな。ウォズ、早くこいつに手当てを……」  そこまで言ったところで、アルーサの身体が小刻みに震えているのに気付く。  初めは痛みに耐えているのかと思ったが違った。  アルーサは笑いを堪えていたのだ。 「プフフッ……。いくら何でも、アタシが自分の攻撃を喰らうような間抜けだなんて思ってないわよねえ。そこいらの素人と一緒にしないでよ、オッサン。この槍はアタシ自身にはダメージを与えられないようになってんの。そのぐらいの設定は事前にやっとくっつーの」  四本のジャベリンは光の粒子に変わり、アルーサの身体をすり抜けた。  目を丸くするダグボルト。  だが再びジャベリンが実体化した瞬間、自らの絶望的な状況を悟った。  もはや逃げ場はない。 「ぐはああッ!!」  ダグボルトのヘルムから苦痛の呻きが漏れる。  四本のジャベリンが、四肢に突き立てられていた。  四肢を貫通した穂先によって、そのまま床に磔にされた形となり、身体の自由を完全に奪われていた。 「まるで虫の標本ね」  必死にもがくダグボルトを見て、アルーサはそう評した。  そして『神鳴槍の戦具』のヘルム部分だけを解除して、顔を出すと、ほっと一息つく。  このプレートメイル一式は防御力こそ高いものの、完全密閉されているため非常に窮屈で息苦しいのだ。  アルーサは、ダグボルトの側からスレッジハンマーを拾い上げた。  そしてずっしりとした重さに驚く。 「もう止めてください!! 勝負はすでについたでしょう!!」  アルーサが両手でスレッジハンマーを振り上げたのを見て、ウォズマイラが叫んだ。 「いいえ。まだついてないわ」  アルーサはきっぱりと言い返す。 「まだこいつは降伏の言葉を口にしてないもん。それを聞くまでは攻撃を続けさせて貰うわよ」  するとダグボルトのヘルムから微かに言葉が漏れてきた。 「こ…………する…………」 「はああああ? 全ッ然聞こえないんだけど。もっと大声で言いなさいよ」  アルーサは小莫迦にするように言った。  だがヘルムからはやはり微かな声が響くばかりだ 「ったく……。別に致命傷ってわけでもないのに、死にそうな声で情けないわねえ。負けを認めるなら、はっきり言いなさいよ、はっきりィ!」  しかし何度声を発しても消え入りそうなほど小さく、何を言っているかはっきりと聞き取れない。  仕方なくアルーサは、ダグボルトのヘルムに耳を近づけた。 「ここまでしてやるんだから早く言いなさいよ、降伏するって!」 「降伏する…………と言うとでも思ったか?」  今度ははっきりと聞き取れた。  同時にダグボルトの右腕から鳴るカチリという音も――。  ジャベリンで串刺しにされた右の義手が、切り離されて地面に落ち、ダグボルトの上腕部は自由に動くようになる。  驚いて身体を離そうとするアルーサ。  だがダグボルトの方が一瞬早く、棍棒のような上腕部の重い一撃が顔面を捉えた。  骨の砕ける鈍い音が響き、顔を押さえたアルーサはその場にぺたんと尻餅をついてしまった。 「おおおおおおおおおおおお!!」  ダグボルトは全身の筋肉に力を籠める。  ヘルムの中で歯をギリギリと鳴らし、血管の浮き出た顔は真っ赤になる。  すると串刺しにされた左腕が少しずつ動き、やがて床に刺さっていた穂先が抜けた。  その手で右足、左足に刺さったジャベリンも一気に引き抜く。  激しい痛みと出血に耐え、ダグボルトは立ち上がった。  血走った目で床に落ちていたスレッジハンマーを見つけ、拾い上げる。  そしてゆっくりとした動きでアルーサの方に向かった。 「勝負はついたよ、ダグボルト君!! さっきの攻撃で君は勝ったんだよ!!」  突然、テュルパンが決闘場に昇って来た。ウォズマイラもそれに続く。 「何言ってるんだ!! さっきの俺の一撃はアルーサを怯ませるためのものだぞ。勝負を決定付けるようなものじゃなかったはずだ」 「君にとってはそうでも、彼女にはそうじゃ無いんだよ」  顔を押さえて呻いているアルーサに、ウォズマイラが近づく。そして優しく声を掛けた。 「顔を見せてください。私が癒しますから」 「嫌よッ!! こっちは鼻が折れてんのよ!! こんなブザマな顔、アンタなんかに絶対に見せられないわ……」  半べそをかいたアルーサは、顔を隠して必死に抵抗する。  ウォズマイラは、そんな彼女を何とか宥めようとしていた。 「まさか鼻を折られたぐらいで戦意を喪失するとはな……」  ダグボルトは思わず呟く。  アルーサには、戦士としての有り余る資質と共に、年頃の少女らしい脆い部分が同居しているのだと気付く。  精神面に不安定な部分を抱えていたため、ウォーデンによって人格面の調整を受けていたのだろう。  ようやく顔の傷を癒されたアルーサは、ダグボルトを激しく睨み付ける。 「あんな騙し討ち、絶対に認めないわ。アンタを磔にした時点でアタシの勝ちだったんだからね」 「だがあの時点で、『勝負はまだついてない』なんて言ったのはお前じゃないか。しかも勝者気取りでヘルムを脱いだんだから、間抜けもいいところだぞ」  そう言われるとアルーサはぐうの音も出ない。  黙ったまま俯いてしまう。 「それでも俺をあそこまで追い詰めたのはさすがだ。お前ならきっと戦力に……」  急にダグボルトの巨体がふらついた。  四肢に与えられた傷からの出血が限界に達していたようだ。  めまいと吐き気に襲われたダグボルトは、その場に膝をついて息を整える。 「ダグボルトさん! すぐに傷を癒しますから、早く鎧を脱いで――」  だがウォズマイラが駆け寄るよりも早く、ダグボルトはばったりと地面に倒れ伏した。  肩を揺するが返事は無い。  ダグボルトは完全に意識を失っていた。    **********  ダグボルトは、まどろみの中で懐かしい夢を見た。  セオドラと出会い、聖天教会に入信したばかりの十四歳の時の夢を――。  聖天教会の神学校に入学したダグボルトは、しばらく気まずい空気に耐えなければならなかった。  孤児だった彼は、読み書きも満足に出来なかったため、初等部に編入されて七、八歳程の幼い子供達と一緒に授業を受けさせられたのだ。  しかも幼い子供達が楽々こなすような初歩的な勉強すら、ダグボルトには未知の物であった。  それでもダグボルトは屈辱に耐えて勉学に励み、半年後には中等部に編入された。  だがそこからが、さらなる地獄の始まり――鬼教師ウォーデン・オルギネンとの出会いが待っていたのだ。  鞭のしなる音が静かな教室に響く。  続いて乗馬鞭で打たれた机が大きく揺れる 「違う。そこは十二ではなく十八だ。ダグボルトよ、おぬしは何度同じ間違いを繰り返したら学習するのだ?」  ダグボルトの前に立ったウォーデンが威圧的な口調で言った。  顔には深い皺が刻まれ、髪は真っ白だが、司祭服の上でも筋肉の盛り上がりはっきりと分かる。  ウォーデンは決して生徒に体罰を振るう事は無かったが、鞭のしなる音を聞いただけで、ほとんどの者は委縮してしまっていた。  稀にウォーデンの叱責に逆上して襲いかかる生徒もいたが、全て返り討ちにされていた。  元聖堂騎士で、幾多の戦場で武勲を上げてきたウォーデンにとっては、中等部の生徒など容易く捻れる相手でしかなかったのだ。 「………………」  ダグボルトは何も言い返さず、ただ憎しみに満ちた目でウォーデンを睨み付けていた。  十四にして、すでに二ギット近い巨漢で厳つい顔つきだったが、ウォーデンはまるで怯みもしない。 「もし儂を気にくわん奴だと思ってるなら、相手になってやるからいつでもかかってくるがよい。だが、おぬしに向上心というものが少しでもあるなら、悔しさをばねにして成績を伸ばして儂を見返してみろ」  そしてウォーデンは今度は周囲の生徒を見回した。 「お前達もクラスメイトなら、ちょっとはダグボルトの勉強を見てやったらどうだ?」  しかし二十人程の生徒達は全員俯いてしまう。  彼らはウォーデンと同じくらいダグボルトを恐れていた。  聖天教会に入信する前は、窃盗行為を繰り返していた悪党だと知られていたためである。  積極的に話しかけてくる者もおらず、ダグボルトはクラス内で孤立していたのだ。 「よろしい。ではこうしよう。二週間後にダグボルトに文学、数学 歴史学の試験を課す。それで三科目平均で八十点以上取れればよし。だが取れなければ一ヶ月の間、他の者もダグボルトと一緒に放課後の補習を受けて貰うからな」  クラスがざわざわと騒がしくなる。  周囲からの無言のプレッシャーを感じ、ダグボルトは青い顔をする。 (畜生……。こんな惨めな思いはもうたくさんだ……。もしテストで平均点を取れなかったら、教会なんか出て行って元の暮らしに戻ろう……)  追い詰められたダグボルトは、心の中でそう考え始めていた。  ダグボルトは、アンフレーベンの街の貧民街(スラム)にある小さな教会で、老司祭デニンズと『真なる聖女』セオドラ・エルロンデと三人で暮らしていた。  デニンズは、会合などで大広場にあるフラムト聖堂に行っている事が多いため、夕食は大抵セオドラと二人でとっていた。 「ダグ、本を読みながらご飯を食べるのは止めなよ」  セオドラに怒られたダグボルトは、不承不承、読んでいた数学の教科書をテーブルに置いた。  あれから一週間が過ぎていたが、とても平均八十点取れるような状態では無く、正直焦りを感じていたのだ。 「最近やけに勉強熱心みたいだけどどうしたの? 好きな娘にいいとこ見せたいとか?」  からかうようにセオドラが尋ねる。  だがダグボルトはむっつりと不機嫌な顔で首を振る。  その様子を不審に感じたセオドラに再度尋ねられ、やむなくダグボルトはウォーデンとのやり取りを説明した。  するとセオドラは血相を変えて、いきなり椅子から立ち上がった。 「そういう事ならもっと早く言ってくれれば良かったのに。私がウォーデンに話をつけてくるよ」 「おい! ちょっと待てって!」  だがダグボルトの静止も聞かず、セオドラは外に飛び出して行ってしまった。 「何で君はダグにあんなひどい真似をするの?」 「はて? 一体、何のことですかな?」  ウォーデンは神学校の職員室に一人残って、小テスト用の試験用紙を作成しているところだった。  すでに日は落ちて、建物の中は真っ暗なため、ウォーデンは手元にランプを置いて作業をしていた。  そこに突然、セオドラが乗り込んで来たのだ。 「ダグにあんな難しい試験をやらせるなんてどういうつもりなの?」 「ああ、その事ですか。それが何か問題で?」 「大問題だよ!! ダグは神学校に入学してまだ一年も経ってないんだよ!! それなのに君の出した条件はあまりに厳し過ぎるよ!!」 「入学して日が浅かろうが何であろうと、儂の授業を受けるからにはそれ相応の努力をして貰わねば困るのです。授業についていけない者は置いていけばいい、そう考える教師もおりますが、儂はそうではありません。どんな出来の悪い生徒でも、最低限の学力ぐらいは身に着けて欲しいのです」 「君の志は立派だけど、それでダグが挫折したら意味ないってば! ダグには、昔みたいな生活に戻って欲しくないの」  するとウォーデンは急に目を細め、冷たい声でこう言った。 「そもそもダグボルトは本当に改心したのですかな?」 「なっ!?」 「窃盗行為を繰り返してきたダグボルトが、監獄入りになっていないのは、聖職者の不逮捕特権があるからです。それを知っていたから、あいつは聖天教会に入信したのでは? そしてほとぼりが冷めたら、また元の稼業に戻るつもりではないのですか?」 「……君はダグをそんな目で見てたの?」  セオドラの顔は激しい怒りで赤黒く染まっていた。  しかしウォーデンにはまるで動じる風は無い。 「儂からすれば、むしろダグボルトが改心したと、そんなにはっきり断定出来る方がおかしいと思うのですがな。それ程の根拠があるのですかな?」 「それはダグの目を見れば分かるよ!! あの曇りの無い純粋な瞳を見ればね!!」  セオドラは思わず叫んでいた。  そして二人が出会ったあの日の事を思い出す。  教会に盗みに入り、セオドラと出会ったダグボルトが最期に見せた涙。  希望を与えられた喜びに輝く、緋色の瞳を――。  しかしウォーデンは冷徹な口調でこう続ける。 「生憎と儂は凡人なので、聖女殿のように目を見ただけで、その人間を理解する事など出来んのですよ。それに口先だけでは何とでも言えますからな。だから儂は、その人を理解するには言葉ではなく、振る舞いを見るのが一番だと考えておるのです」 「振る舞い……」 「あいつと同じような孤児の境遇にあっても、犯罪に手を染めず、まっとうな道を進んでいる者だって大勢おるのです。たとえ本当に改心していたとしても、今まで犯してきた罪はたやすく許されるようなものではない。だからこそ儂は、あいつには人一倍厳しく接しているのです。もしあいつに前非を悔いて、人生をやり直す気概が本当にあるのなら、きっとこの試練を乗り越えるでしょう。だがもしそうでないなら、所詮あいつはその程度の男だという事です」 「……成程ね。決して悪意があって、ダグに厳しくしてたんじゃないって事はよく分かったよ」  セオドラは落ち着いた声で言った。だがすぐにまた声を荒げる。 「でも君が、ダグの改心を疑った事だけは絶対に許せないよ!! もしダグが平均で八十点以上取ったら、その時は自分が間違ってたってはっきり認めて貰うよ。そしてダグにちゃんと謝罪して!!」  真摯に訴えかけるセオドラ見て、ウォーデンはゆっくりと頷いた。 「いいでしょう、約束しますとも」 「――そういうわけだから、絶対に八十点以上取って、ウォーデンをぎゃふんって言わせてやろうね」 「いや、どういうわけだよ。っていうか俺とウォーデンの問題に、勝手に口を挟むなよ……」  ダグボルトは自室で勉強中だったが、戻って来たセオドラに事情を聞かされて、呆れたように呟いた。 「もしかして迷惑だった?」 「ああ、大迷惑だよ」  ダグボルトはきっぱりと言い切る。  だがすぐに小声でこう付け加えた。 「……でもありがとうな」  それを聞いてセオドラはにっこりと微笑んだ。 「うん! 分からないところがあったら私も教えるから、一緒に頑張ろうね」 「ああ」  ダグボルトは再び勉強に戻った。  隣に立つセオドラを忘れ、意識を数学の練習問題に集中する。  書物机の上には、メモの書き込まれた教科書やノートが乱雑に広げられていた。  手もちぶさなセオドラは、それを綺麗に並べ始めた。 (手伝いたくてしょうがないんだろうけど、正直邪魔だな……。まあでも、せっかくだから色々質問しておくか)  仕方なくダグボルトは問題の一つを指差して尋ねる。 「ここ、解き方が分かんないんだけど」 「どれどれ……」  しかし問題を見せられたセオドラは、眉根に皺を寄せて考え始めた。 「えーと、えーと……。これは……まずここを掛けてから……」 「いや、違うだろ。そこはまず括弧の中の数字を足すんだよ」 「ふんふん」 「で、最後にそれを掛けてからこの数字で割る……って何で俺が教える側に回ってんだよ!」  するとセオドラは気まずそうに頭を掻いた。 「あはは……。実は私、数学は苦手なんだよねえ……」  気まずい沈黙――。  目線を逸らしたセオドラは、机の上に歴史の教科書があるのに気付く。 「あ! 私、歴史は得意だよ! これなら教えてあげられるよ」 「歴史は俺も得意だから別にいい」 「………………」  またも気まずい沈黙――。  セオドラは咳払いを一つして何とか気を取り直す。 「分かった。じゃあ勉強を教える代わりに、夜食を作ってあげるよ。何が食べたい?」 「腹が一杯になると眠くなるからいらない」 「そう……」  セオドラは暗い顔になって、何度も深いため息をついた。  ダグボルトはせっかくの好意を、あまりにも無下に断ってしまった事に気付く。 「……それなら眠気覚ましに、濃い目のお茶を入れてくれるか?」  それを聞いてセオドラの顔がぱっと輝いた。 「了解、任せといて!」  すぐにセオドラは、ダグボルトの部屋を飛び出していった。  そしてとびきり濃くて苦いお茶を持ってきてくれた。  ダグボルトは渋い顔をしてそれを啜りつつ、空が明るくなるまで、がむしゃらに練習問題を解き続けていた。  二週間はあっという間に過ぎ、試験の日がやって来た。  放課後に一人居残り、試験を終えたダグボルトは、職員室で採点中のウォーデンを待つ。  窓から差し込む夕暮れの赤錆色の日差し。  自分の席に腰掛け、落ち着かなげに貧乏ゆすりを繰り返すダグボルト。  二週間の間、死ぬ気で勉強した甲斐あって、大分手ごたえを感じていたが、結果が出るまでは決して安心できない。 「もう結果出た?」  いきなり教室の扉が開いてセオドラが現れる。  ウォーデンだと思っていたダグボルトは席からずり落ちかける。 「な、なんでお前がここにいるんだよ!」 「前にウォーデンから、試験の日が今日だって聞いてたんだ。私も協力したからには、責任を持って結果を見守らないとって思ってね」 「協力ったって、毎日濃いお茶を入れてくれたぐらいだろ」 「それだけじゃないよ。ちゃんと聖天の女神にも毎日欠かさずお祈りしたよ。どうか奇跡が起きますようにって」 「奇跡頼みって時点で駄目だろ……」  教室の扉が開いて今度はウォーデンが入って来た。  二人は緊張で顔を強張らせる。  ウォーデンは何も言わずに、ダグボルトの机に採点された三枚の解答用紙を置いた。  すぐにダグボルトは用紙を手に取って点数を計算する。 「文学七十八点、数学七十点、歴史学八十六点。平均は……」 「七十八点だ」  ウォーデンはきっぱり言った。  それを聞いたダグボルトの顔から血の気が引いていく。  頭を抱えて机に突っ伏したダグボルトに、さすがのセオドラも声を掛ける事が出来なかった。  するとウォーデンが、ダグボルトの肩に優しく手を乗せた。 「顔を上げろ、ダグボルト。正直言うと儂は、今のお前には絶対に平均で八十点以上は取れないような難しい問題を出したのだ。だからお前が、もう少しで八十点取れていた事に驚いているのだ」 「だけど俺の負けには変わりないでしょう? これでクラスのみんなにも迷惑かける事に……」 「ああ、補習のことか。それなら条件次第で取り消そう」  ウォーデンはきっぱりと言った。 「条件?」  ダグボルトはようやく顔を上げる。  ウォーデンは腕に抱えていた冊子の束を机の上に置いた。 「これはおぬしの勉強の遅れを取り戻すために、事前に作っておいた課題だ。今回の試験で苦手な部分が分かったから、その箇所には先程少し説明を付け足しておいた」  ダグボルトが一冊をぺらぺらと捲ってみると、そこには教科書の内容を分かりやすく噛み砕いた解説と練習問題。さらにさっきの試験でミスした部分に、対応した補足が書き込まれている。 「この課題をちゃんと終わらせたら、クラス全員の補習は無しにしよう。実は初めからそのつもりだったのだがな。……ところでおぬしは試験勉強をクラスメイトに手伝って貰ったか?」 「いえ。セオドラには少し手伝って貰いましたけど、他の人の助けは借りてません」 「成程、やはりな。おぬしはまず、人に頭を下げる事を覚えねばならんようだ。教会に入信する前はずっと一人で生きてきたようだが、今は違うのだ。分からぬ事があれば、分かる人間に教えを乞い、困った事があれば、信頼できる人間に相談するといい。そして助けて貰ったら、今度はお前がその人を助けてやれ。そうやって支え合ってこそ、人は生きていけるのだからな」 「支え合って……。分かりました」 「数学ならグーロン、文学ならメイリアやネルが得意だ。その課題を持って色々教えて貰うといい。頭を下げて素直に頼めば、きっと快く教えてくれるだろう」 「はい!」  ダグボルトの素直な返事を聞いて、ウォーデンの厳しい顔が僅かに緩む。  黙って二人のやり取りを見守っていたセオドラが前に進み出た。 「ごめん、ウォーデン。私、君の事を誤解してたみたい。心の底では、本気でダグの事を考えてくれたんだね」  深々と頭を垂れるセオドラを見て、ウォーデンは手を振った。 「いやいや、頭を上げてください、聖女殿。生徒が勉強についていけないのは、教師の怠慢によるもの。儂はただ、己の職務を忠実に果たしただけです」  そしてウォーデンは一冊の冊子を彼女に手渡した。 「これは?」 「ダグボルトからちらっと聞いた話によると、あなたは数学が苦手らしいですな。ですので、それはあなた用に特別に作成しておいた課題です。それを使って、今日からあなたも勉学に励んでください」 「ええええええええ!? だ、だけど私、神学校なんてとっくの昔に卒業してるんだよ!」 「いえ、人生という学校は、生きている限り卒業などありません。日々、研鑽を重ねて己を高める。それが人の有るべき姿なのですぞ」  そう言うとウォーデンは豪快に笑う。  その一方で、セオドラは恨みがましい目でダグボルトを睨んでいた。 「まったく……。君がウォーデンに余計な事を言ったせいで、こんな事に……」 「だったら俺が教えてやろうか?」 「大きなお世話だよ!!」    **********  自室のベッドで目を覚ましたダグボルトは、口元に笑みを浮かべていた。  決して戻らない懐かしい日々。  魔女も異端もいない穏やかな時代。  そして何より、まだあの頃は彼の側にはセオドラがいた――。 「ダグボルトさん?」  不意に声を掛けられ、ダグボルトはギクリとする。  顔を動かすと、隣にウォズマイラが立っていた。  食事の載ったトレイを手にしている。 「済みません。ノックしても返事がなかったので勝手に入らせて貰いました。夕食ここに置いておきますね」  ウォズマイラはサイドテーブルの上にトレイを置いた。 「ありがとう。こっちこそ世話を掛けて済まなかった」  ダグボルトの傷は全て塞がっていた。  ウォズマイラが彼の鎧を脱がせ、傷を癒した上で、テュルパンと共にここまで運んでくれたのだ。 「いえ、アルーサを目覚めさせて、あなたにご迷惑をお掛けしたのは私です。このぐらいでは償いにもなりませんよ。……ところで目覚めた時に楽しそうな顔をしていましたけど、何かいい夢でも見たんですか?」 「ああ、実は……」  ダグボルトは先程見た夢の中の、神学校時代の話を聞かせた。  ダグボルトの過去の話を聞くのは初めてだったため、ウォズマイラは目を輝かせて、じっと聞き入っていた。 「そうだったんですか。昔、そんな事が……。でもセオドラさんって、私が思っていた聖女様のイメージとはずいぶん異なる方だったみたいですね。……あ! べ、別に悪い意味じゃないですからね!」 「気にするな。あいつに会った奴は、大体みんなそう思うからな。あいつは権威主義を嫌ってて、聖天教会の象徴的存在になる事をずっと拒否してたんだ。あえて人々が思うような聖女のように振る舞わず、気さくなシスターを演じてる、って自分で言ってたよ。だが俺個人としては、あれは演技じゃないと思ってる。あいつは聖女になる前から、元々ああいう人間だったんじゃないかな」  そう言ってダグボルトは肩をすくめる。  それを見てウォズマイラはクスクスと笑う。 「フフッ。あなたの話を聞いてると、私も一度セオドラさんにお会いしてみたかったと思います。本物の聖女ではない私が、理想の聖女像を演じるのに悪戦苦闘していたのに、本物の聖女であるセオドラさんが、理想の聖女像を演じる事を、逆に拒否していたなんて本当に驚きです。それとウォーデンが、そんなに怖い人だったとは知りませんでした」  それを聞いてダグボルトは怪訝な顔をする。 「先生は、お前達を厳しく躾けたりはしなかったのか?」 「ええ。私やアルーサにはとっては、優しく穏やかな慈父のような存在でした。……でも今にして思えば、それは良心の呵責からなのかも知れません」 「良心の呵責?」 「はい。煉禁術の実験体となった少女達の命を奪った事を、ウォーデンはずっと悔やんでいました。『紫炎の鍛え手』軍の活動が活発になり、やむなく彼女達の墓がある古い拠点を放棄した後も、毎日の祈りだけは決して欠かさなかったようです。そういった良心の呵責があったからこそ、実験に成功して生き延びた私とアルーサに対して、優しく接していたんだと思います。だけど私達は、みんな自ら志願して実験体になったんです。そんな風に疾しさを感じる必要は無かったと思うんですけどね」  ウォズマイラはどこか哀しげな顔をして言った。  だがダグボルトには、ウォーデンの気持ちが分かる気がした。 「……ウォーデン先生はきっと、若いお前達を魔女との戦いに利用したっていう苦い思いをずっと引きずってたんだろうな。とは言っても、あのアルーサだけは少し厳しく躾けても良かった気がするがな」  それを聞いてウォズマイラは思わず微笑んだ。 「ええ、確かにそうですね。アルーサは『黒の災禍』の前は、とある貴族の令嬢だったと聞いています。たぶんあの性格はその頃の名残なんだと思います。ところでそのアルーサなんですが、あなたとの戦いの後、ずっと部屋に引き籠ってしまって出てこないんです。ですから代わりに、私が同行しようと思うんですが……」 「だがテュルパンはいい顔をしないだろうな」 「ここにはアルーサを置いていく形で、何とか修道長を説得してみます。アルーサも、元は私と同じ聖女候補でしたし、修道長の下で働く事で責任感に目覚めるかも知れませんからね。ですからどうかお願いします」  そう言ってウォズマイラは、上目づかいでダグボルトを見る。  訴えかけるような瞳を見ては断るわけにもいかず、ダグボルトは重々しく頷く。  だが同時に、自分の無力さを歯痒く感じていた。  自分に魔女を倒す力があれば、ウォズマイラやアルーサのような若い世代の人間を、危険な目に会わせずに済むのだから。
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