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 風に乗って漂う塩辛い潮の匂いが、故郷である港街アンフレーベンの記憶を運んできた。  ダグボルトは目を閉じて、しばし懐かしい思い出に浸る。  アクスビーク・ブリッジを何とか乗り越えた二人は、幸いそれ以上敵に遭遇する事も無く、コルロヴァの街に辿り着いた。レウム・ア・ルヴァーナを発って、すでに二週間が過ぎていた。  ここに来るまでは、『碧糸の織り手』軍の手によって街が灰燼と化しているのではないかと、ダグボルトは内心危ぶんでいたのだが、そんな心配は無用であった。  昼時もあってか、通りは活気で賑わっている。  商店街の目抜き通りを埋める人ごみを、ダグボルトは窮屈そうにすり抜ける。 「見たところ略奪の形跡もないし、よくこの街は無事だったもんだ」 「この辺りには血の気が多い人間が一杯いるから、傭兵なんか追い出しちゃったのよ、きっと」 「さすがは海賊の国だな」  その一言を聞いたアルーサは、急に不機嫌な顔になる。 「海賊じゃないわ。私掠船団よ。ちゃんと大公から許可を貰った上で、私掠行為を行ってたんだから」 「それでも他の国からしたら、海賊と同じだろ」  アシュタラ大公国は、かつてはサトウキビの一大産地として知られていたが、焼畑農法で強引な収穫を行った結果、土地は荒廃し収穫量は激減していた。  そこで大公は農業に代わる資金獲得の手段として、帆船を所持する船長に私掠免状を発行し、私掠行為を推奨していた。  自らの力を使わずに他国の国力を削げる上に、略奪品の一部を税として徴収する事が出来たからである。  しかも功績次第では貴族に取り立てられる事もあるため、船長達は皆競い合って私掠行為に励んだ。  しかし他国――特に領地の近いフェルムス=トレンティア連合王国からすればいい迷惑であり、二国が軍事衝突を重ねる要因ともなっていたのである。 「……でもここの人々は、敬虔な聖天教会の信者でもあるわ。聖地レウム・ア・ルヴァーナを造ったのもこの国なんだし、そのくらいの悪事は帳消しにして余りあるわよ」  アルーサは拗ねたような口調で反論する。 「むしろ悪事を繰り返してきたからこそ、神の許しを得るために信者になる必要があったんだろ。教会が発行していた『免罪符』(今までの人生で犯してきた罪を全て許すという許可証)だって、元々はここの連中のために作ったようなもんだしな」  アルーサが黙り込んでしまったのを見て、ダグボルトは言い過ぎてしまった事に気付く。 「まあ、こんな話をお前にしても仕方ないか。それでお前の知り合いとはどこで会える?」 「あっちよ」  ふてくされたようにアルーサは言った。  彼女が指差す先にはレンガ造りの大きな建物があった。  入口の横にあるプレートには『市庁舎』と刻まれている。  二人は中庭にいた馬丁に馬を預け、建物の中に入った。 「本日どういったご用件でございましょうか?」  入口にいた初老の受付係が二人を見て尋ねる。 「市長のトニアに会いたいのですけど」  アルーサは、いつもとはまるで異なる上品な口調で言った。  彼女の堂々とした姿を見て、受付係は面会許可があるかどうか尋ねなかった。 「トニアなら二年前に亡くなりました。今は副市長だったジーセイが新たに市長を務めておりますが」 「では彼でも構いません。フィン=ダリア家のアルーサが会いに来たとお伝え下さい」  フィン=ダリアという言葉を聞いて、受付係の表情が変わる。 「……かしこまりました。しばしお待ちを」  奥に姿を消した受付係はすぐに戻って来た。 「今すぐにジーセイ市長が会われるとの事です。こちらへどうぞ」  市庁舎の二階にある市長室は、こじんまりとしていたが綺麗に片付いていて、部屋の主の几帳面な性格を物語っている。窓は開いていて、部屋の中まで潮の香りが漂っている。  奥の机にいた市長のジーセイは、四十台半ばくらいの実直そうな男であった。  アルーサの顔を見ると、すぐに椅子から立ち上がった。 「アルーサお嬢様、お久しぶりです。あなたを最後に見たのは六、七年も前になりましょうか。『碧糸の織り手』軍の襲撃から生き延びられておられたとは驚きです。さあ、お二人共、どうぞお掛けください」  ジーセイに促され、二人は机の前に並べられた椅子に腰を下ろした。  座るや否やアルーサが口を開く。 「あなたも元気そうで何よりです、ジーセイ。私は『碧糸の織り手』に故郷を追われてから、ずっと劫罰修道会のお世話になっていました。こうして故郷に戻って来れたのは、聖天の女神の思し召しでしょう。ところでトニアが亡くなったと聞きましたが」 「はい。元々高齢だったせいもありますが、『碧糸の織り手』が送って来た傭兵共の横暴に心労が絶えなかったようです。それである日突然、勤務中に意識を失い、そのまま息を引き取られたのです。苦しむ事なく逝けたのが、せめてもの救いでありましょうか」 「そうでしたか。トニアは父の名代として、長年この街を立派に切り盛りしていましたし、私にも優しくしてくれました。後で彼の墓所に花を供えに参りましょう」 「ええ。そうしていただけるとトニアも喜ぶはずです」  二人のやり取りを黙って聞いていたダグボルトは、礼儀正しいアルーサを見て苦笑する。 「ところであなたに一つ尋ねたい事があります」 「はい。何でございましょう?」 「父が所有していたムーンシェイド号は今どこにあります? 確か最後に見た時には、ここの港に停泊していたはずですが」  それを聞いたジーセイは一瞬言葉に詰まる。 「あの船は……実は今、我々の手を離れているのです」 「誰かに奪われたのですか? それなら相手を教えていただければ、すぐにでも取り返しに行きます」 「いえ、そうではなくて……実はある人物にあげてしまったのです」 「は!? あげたァ!?」  ポカンとするアルーサ。  だが次の瞬間、いきなり立ち上がると机越しにジーセイの襟首を締め上げ始めた。 「あげたってどういう事よ!! あれはアタシの家の所有物なのよ!! アンタにはあれをどうこうする権限なんて無いでしょ!!」  先程までの礼儀正しさはどこへやら。  結局、いつものアルーサに戻っていた。  仕方なくダグボルトが仲裁に入る。 「落ち着け、アルーサ。とにかくジーセイの話を最後まで聞こう。話はそれからだ」  アルーサは渋々手を離し、どすんと勢いよく椅子に腰を下ろした。  まだ怒りが収まらないのか、眉間の辺りがピクピクと痙攣している。 「も、申し訳ありません、アルーサお嬢様。我々としても、あの船を勝手に誰かに譲渡してしまうのは心痛の極みでしたが、止むに止まれぬ事情があったのです」 「言い訳はいいから、誰に渡したのか早く言いなさいよ」 「は、はい! 皇鯨傭兵団の団長ボイド・ボロッゴです。『碧糸の織り手』がまだ存命していた時、この街には皇鯨傭兵団と牙猿傭兵団という、二つの傭兵団が駐留していました。度々問題を起こす牙猿傭兵団とは違い、皇鯨傭兵団の傭兵達はこの国の出身者が多いため、決して乱暴な振る舞いなどはいたしませんでした。そして『碧糸の織り手』が死んだ直後、ボイドが私達の所にやって来て、牙猿傭兵団の団長からこの街の略奪話を持ちかけられた、と教えてくれたのです。しかしボイドは、そのような行為を好ましく思ってはおらず、逆に私達に取引を持ちかけてきました。十分な金銭的報酬とムーンシェイド号を貰えるなら、牙猿傭兵団をここから追い出してくれると。我々としても願ったり叶ったりでしたので、すぐにその提案を飲んだのです」 「いいわ。それならすぐにでもそいつの所に行って、力ずくでも取り返してきてやるわ」 「お、お待ちください! 彼の傭兵団とは今も契約を結んでいて、この街を守って貰っているんです。そのような乱暴な真似はお止め下さい!」 「うっさい、莫迦ッ!! たとえどんな理由があろうとも、絶対にあれだけは誰にも渡さないわ!! フィン=ダリア一族が公位を得たのは、私掠船の船長だった父と、あの船のおかげなんだから!!」 「もういい、アルーサ。そういう諍いはあとでやってくれ。俺としては『猛禽の女郎』の所に行けさえすれば、船の所有権なんかどうだっていいんだからな」  うんざり顔のダグボルトが言った。  だがその言葉を聞いたジーセイは、驚いて椅子から飛び上がった。 「あなた、今何とおっしゃいました!? 『猛禽の女郎』の所に行く、とか言いませんでしたか!?」 「ああ、確かにそう言った。俺達の目的は『猛禽の女郎』に会う事なんだ。そのためには金を惜しまないし、手段も問わない」 「そういえばあなたの名前をまだ聞いていませんでしたね」 「ダグボルト・ストーンハート」 「ダグボルト? はて、どこかで聞いた気が……?」  考え込むジーセイを見て、アルーサがこう説明する。 「ここを支配してた『碧糸の織り手』をぶち殺した張本人らしいわよ。アタシは色々と事情があって、その辺はよく知らないけどね」  それを聞いてジーセイは目を丸くする。 「そうだ!! サー・ダグボルト・ストーンハート!! まさかあなたが、かの有名な魔女殺しの騎士でしたとは!!」  ジーセイは感激した様子でダグボルトに握手を求める。 「では次の獲物は『猛禽の女郎』というわけですね。あの魔女がベイル海峡に陣取ってからというもの、北部への最短ルートはずっと閉ざされ不便を強いられてきました。我々も出来る事なら何でもいたします、ぜひともあの魔女を討ち取って下さい」 「ありがとう、協力に感謝する」  厳密に言えば『猛禽の女郎』を倒しに行くのではないが、こちらの事情をジーセイに細かく説明するつもりは無かった。  『黒獅子姫』を元に戻せれば、彼女は『猛禽の女郎』の魔力を回収するだろうし、そうなれば結局は同じ事だからだ。 「それでさっきの話だが、『猛禽の女郎』の所に行けそうな船は他にないのか?」 「漁師の釣り船なら幾つかありますが、ベイル海峡まで行ける船となると、やはりムーンシェイド号しかないでしょう」 「そうか……」  だが考え込むダグボルトを見て、ジーセイは続けてこう言った。。 「それなら私からボイドに事情を説明して、あなた方が船に乗せて貰えるよう説得してみます。ですからしばらくお時間を頂けますでしょうか? あなた方のために宿を用意しておきますので、その間は休んでいてください。ボイドを説得出来たら、こちらからから連絡いたします」 「乗せて貰うもなにも、あれはボイドの船じゃ無い――むぐッ!」  文句を言いかけたアルーサの口が大きな手で塞がれる。 「何から何まで済まないな。悪いがよろしく頼む」  必死に抵抗するアルーサの代わりにダグボルトが答えた。  ジーセイが用意した宿『紅珊瑚亭』は、見晴らしのいい海岸側の崖の上に建っていた。  二人に与えられた部屋は二階にあり、窓からは一面の大海原が一望できる。  今は風も穏やかで、岩場に押し寄せる波も控えめであった。  アルーサは無言のまま、窓の外の景色を眺めていた。  ダグボルトは彼女の荷物を床に置くと、何も言わずに隣にある自分の部屋に戻ろうとした。 「何でアイツの提案を飲んだの?」  窓の方を向いたままアルーサが尋ねてきた。 「あの時も言ったが、俺としては『猛禽の女郎』の所に行けさえすれば、手段なんかどうでもいいからだ。お前の気持ちはよく分かるが、ここは堪えて――」 「嘘よ!! アタシの気持ちなんか、全然理解しようともしない癖に、よくもぬけぬけとそんな事言えたわね!!」  振り返ったアルーサが叫んだ。  充血した瞳は激しい怒りで煌々と燃えている。 「確かにお前の言う通り、本当はこれっぽっちも理解してないが……」 「そこは否定しなさいよ!」 「……とにかく、今の俺達にとって何よりも優先しなきゃならんのは、『偽りの魔女』を全て倒す事だ。他の事は、それが終わってから考えればいい。それこそ船の所有権でも何でもな」 「もういいわ。分かったからさっさと出てって」  アルーサはそれだけ言うと、ぷいっと顔を背けてしまう。  ダグボルトの言葉が正しい事は理解しているのだろうが、どうしても感情的に認められないようだ。 「分かってくれたんならそれでいい。それから一人で勝手に宿の外に出るなよ。危ないからな」  それを聞いたアルーサは、ダグボルトをまじまじと見つめる。  何を言ってるのか分からないといった様子で。 「は? この街のどこに危険があるっていうのよ。皇鯨傭兵団とかいう糞ッたれ共が守ってくれてるんでしょ」  するとダグボルトは声を潜めてこう言った。 「……実は今までお前には黙ってたんだが、アクスビーク・ブリッジを抜けてから、ずっと誰かにつけられてる気配を感じてたんだ」 「つけられてる? 誰によ?」 「さあな。そこまでは俺にも分からん。だが思い当たる節がないわけじゃない」  ダグボルトは懐から宝玉を取り出した。  その中で眠りにつく『黒獅子姫』の身体は魔力の光で淡く輝いている。 「『白銀皇女』の所にしばらく滞在してた時、強大な力を持つ者がミルダを狙ってると聞いた。どうもそいつは『偽りの魔女』とは別の存在らしい」 「魔女とは別?」 「そいつが何者なのかは、まだ手掛かりが少なすぎて俺にも分からない。だが追跡者がそいつの手下なら、捕まえてみれば何か分かるかも知れん。それでお前にも協力して欲しいんだが……」 「いいわよ。それならさっさと片付けましょう」  アルーサは即答した。  どうやらムーンシェイド号の事は吹っ切れたらしい。  ダグボルトはほっと胸を撫で下ろす。  色々と問題が多い娘だが、今は彼女の力が必要だったのだ。  ダグボルトは一人、買い物を装って夕暮れ時の商業区をぶらぶらとうろついた。  用心していると追跡者に気取られないように、プレートメイルを脱いで動きやすい私服姿になっている。腰のベルトから吊るしたスレッジハンマーを除けば、ほぼ無防備な状態だ。  その五ギット後ろをアルーサがついていく。  目立たないようにフード付マントを羽織り、フードを目深に被っている。 ――怪しい奴を探す時は、相手の目の動きに注意しろ。無関心を装っていても、俺が動いたら目線がすぐに反応するはずだ。それと瞬きにも注目しておけ。緊張状態にある人間は、瞬きの回数が普段よりも多くなるからな。  与えられた指示を元に、アルーサは顔を動かさず、目だけを動かして慎重に追跡者を探す。  ダグボルトは審問騎士時代、尾行などの特殊訓練を受けていたため、こうした知識は豊富にあった。  賑わう大通りには、夕食の材料の買い出しに来た主婦や、夜前なのにすでに酔っぱらって千鳥足の漁師など様々な人々がいる。  ダグボルトは人の波をかき分けながら、通りをふらふらと歩き回り、屋台をつぶさに見て回っている。 (うーん……。こう人が多くちゃ、一人一人の目の動きなんか全然分かんないわよ)  アルーサは小柄なせいもあって人の波に飲まれ、ダグボルトからはぐれないようにするのがやっとであった。  それを察したのか、ダグボルトは人気の無い細い裏通りへと入っていった。  アルーサは近くにあるアクセサリーの屋台を眺めつつ、ダグボルトに続いて裏通りに入る人間がいないか観察する。だが待てど暮らせど、誰も入っていく様子は無い。 (誰にも後なんかつけられてないじゃん。まさかただの自意識過剰ってオチじゃないでしょうね)  痺れを切らしたアルーサは裏通りに入った。  日が暮れかけているためか薄暗く何とも不気味だ。  しかしアルーサは全く臆することなくどんどんと奥に進む。  やがて前方にダグボルトの大きな背中が見えた。 「ねえ! 追跡者なんかいな――」  突然、背後から何者かに腕を捻られ、アルーサは地面に押し倒された。  うつぶせの状態のまま膝を背中に押し当てられ、完全に身動きがとれない。  物音に気付いたダグボルトが振り返る。  そして眼前の光景に目を丸くする。 「ダグボルトさん、あなたをつけていた怪しい人を捕まえました!」  アルーサの背中に乗っている者が誇らしげに言った。 「は?」  アルーサも一瞬ポカンとする。  その声は聞き覚えのあるものだった。 「お前がどうしてここに?」  その問いに、アルーサを拘束する人物――ウォズマイラは気まずそうな顔をする。 「済みません。どうしてもあなたの事が心配になって、ついて来てしまいました。それとアルーサが、あなたにご迷惑をお掛けしているんじゃないかと、心配で心配で――」 「大きなお世話よ!」  拘束されたままのアルーサが、イライラとした声で言った。  今度はウォズマイラが驚く番であった。 「アルーサ!? どうしてあなたがそこに?」 「それはアイツの後をつける奴をつけようとして……。あー、もう、ややこしい! とにかくさっさとそこをどいて! アンタ、重過ぎなのよ!」  その言葉に納得のいかない顔をしながらも、ウォズマイラは渋々身体を離した。 「……私が重いのは鎧を着ているからです。決して私自身が重いからではありません」  その言葉通り、ウォズマイラは白いプレートメイルを着用している。  その上にフード付マントを羽織り、フードを目深に被っていたため、ダグボルトは今まで彼女の正体に気付かなかったのだ。 「あっそ。どうでもいいわよ、そんな事。だけど結局、追跡者はアンタだったわけね。こんな事までして時間の無駄だったわ。お腹空いたし、アタシはもう宿に帰るからね」  アルーサは服についた埃を払うと、さっさと裏通りを出て行ってしまった。  取り残された二人は顔を見合わせる。  そしてウォズマイラよりも先に、ダグボルトが口を開いた。 「ちょうど夕食の時間だ。詳しい事情は後で聞くから、お前も一緒に来い」  『紅珊瑚亭』に戻ると、すでに一階の酒場は酔客で埋まっていた。  そこで給仕に、ダグボルトの部屋まで食事を運んで貰い、三人で食事を取る事になった。  白パンや海老のスープ、大きな白身魚の塩焼きや大皿に載せられた茹でたての蟹が、テーブルの上で湯気を立てている。  アルーサは蟹の脚を千切り、フォークで身をすくって食べ始めた。  ダグボルトも白身魚を素手で掴んで、豪快にむしゃぶりつく。 「お前も食べていいんだぞ」  食事に手を付けないでいるウォズマイラに、ダグボルトが声を掛ける。 「でも……」  ダグボルトに叱責されるのではないかと怯えているようであった。  そこで彼女が安心するように軽く微笑んで見せた。 「別に俺は怒ってないから心配しなくていい。それより、なぜこっそり俺達の後をついて来たんだ?」 「実はダグボルトさん達が旅立った後、私もすぐに別の馬に旅の荷物を載せて後を追ったんです。そしてアクスビーク・ブリッジの辺りでお二人に追いついきました。でもそこで姿を見せたら、追い返されるんじゃないかって思ったんです。それでここに来るまで見つからないようにしたんです」 「まあ確かに、ここまでついて来られたんじゃ、さすがに引き返せとは言えないな。だがもう二度とこんな勝手な行動をするなよ。トラブルメーカーは二人もいらないからな」 「それってどういう意味よ!」  二人の話に急にアルーサが割り込んできた。 「トラブルメーカーは俺一人で十分だ、って意味だ」 「何だ、そういう事ね」  アルーサは納得したのか食事に戻る。 (段々、こいつの扱い方が分かってきたな。それがいい事なのかどうかは分からんが……)  ウォズマイラもようやく安心したのか食事に手を付けた。  市長のジーセイが見つけてくれた宿だけあって、料理の味は最高だった。  旅の間はずっと味気ない保存食しか食べられなかったせいもあってか、三人共いつになく食が進んだ。気が付くとテーブルの上の皿は全て空になっていた。  腹を膨らませて充足感に浸る三人の耳に、一階から酔客達の楽しげな声が聞こえてくる。  魔女との戦いなど、まるで遠い過去の出来事のようだ。  たとえこれが、つかの間の平和に過ぎないとしても、命を懸けて『碧糸の織り手』を倒した甲斐があったな――ダグボルトは今までの苦労が報われた気がして、一人満足げな笑みを浮かべていた。  翌日の正午過ぎ、三人は船旅のための物資の調達に街へと繰り出した。  特に海に投げ出された時の事も想定して、ダグボルトとウォズマイラは金属製のプレートメイルを脱いで、水に浮くレザーメイル(革鎧)に着替えておく必要があった。  武具屋でレザーメイルを入手した後、今度は大きめの雑貨屋へと向かう。  ウォズマイラとアルーサに買い物を任せ、ダグボルトは一人店の奥に向かう。  そして品出しをしている店主を見つけると、小声で話し掛けた。 「……済まないが、ここに浮き輪みたいなものは置いてないか?」 「浮き輪? お子さんが使われるんですかい?」 「いや、俺だ」  ダグボルトはバツの悪そうな顔で答える。 「うーん。あんたは結構重そうだから、普通の浮き輪じゃ水には浮かねえでしょうなあ。二、三日くらい時間を下されば、あんた専用の浮き輪を作成しますが、それでどうです?」 「よろしく頼む。俺はしばらく『紅珊瑚亭』に泊まってるから、完成したら使者を寄越してくれ。それとくれぐれも、俺以外の人間にこの事は話さないでくれ」  特にアルーサにはな――ダグボルトは心の中でそう付け加える。  自分の問題を片付けたダグボルトが戻ると、何故かそこに二人の姿は無い。  慌てて近くにいた店員に、二人がどこに行ったか尋ねる。  すると店員は、雑貨店の向かいにある装身具店を指差した。 「勝手にどこかに行くな。心配しただろうが」  店頭に並べられたアクセサリーを見ていた二人に、苛立った声を掛けるダグボルト。  驚いたウォズマイラは、手に取って眺めていたネックレスを床に落としてしまう。 「す、済みません! アルーサに無理やり連れてこられて……」 「何よ。アタシが悪いって言いたいわけ? その割にはアンタだって、色々楽しそうに見てたじゃない」 「そ、それは……」  気まずい顔をするウォズマイラを見て、急にダグボルトは罪悪感に駆られる。  劫罰修道会の副指揮官という責任ある立場とはいえ、まだ十七歳の少女なのだ。  少しぐらいの息抜きに目くじらをたてる必要は無いだろう。 「そうだったのか。それならせっかくだから何か買ってやるか。お前には何度も世話になってるからな。そのささやかなお礼ってやつだ」 「本当ですか!? でも劫罰修道会にとって大事なこの時期に、貴重なお金を使わせてしまうわけには……」 「さすがにテュルパンから受け取った軍資金を使うわけにはいかないが、俺のポケットマネーなら問題ないだろう。余計な心配はしなくていい」 「分かりました。それじゃあ遠慮なく選ばせていただきます」  ウォズマイラの屈託のない笑顔を見て見て、ダグボルトも心が洗われる気がした。  すると横にいたアルーサが、二人の邪魔をするように袖を引っ張った。 「ねえねえ、アタシには?」 「お前には何も世話になってないぞ」  冷たく突っぱねるダグボルト。 「あー。成程、そういう事かー。ついに魔女の飼い犬としての本性を現したわね」 「何?」 「アイツだけえこ贔屓して、アタシら二人の仲を裂こうってんでしょ。そんな真似しても、アタシには全部お見通しなのよ。こんな安っぽい策略に乗っちゃ駄目だからね、ウォズ」 「いや、仲を裂くも何も、初めから私達はお互い死ぬ程嫌い合ってるじゃないですか。今更何を言ってるんですか、あなたは」 「………………」  極めて的確な指摘を受けて、アルーサは黙り込んでしまう。  ダグボルトは笑いを堪えながら、不機嫌な顔をしている彼女に声を掛ける。 「さっきのは冗談だ。お前も欲しいのがあったら選んでいいぞ。ただしあくまで常識の範囲内でな」 「フン。初めっからそう言えばいいのよ」  だがアルーサが店員を呼んで、奥の金庫から古王金貨百枚分はあろうかというエメラルドの指輪を持ってこさせたのを見て、ダグボルトの顔色が変わる。 「そんな高いのが買えるか! さっき常識の範囲内で考えろって言っただろうが!」 「えー。このぐらい、アタシの中では常識の範囲内なんだけど」 「貴族の常識じゃなく、庶民の常識で考えろ!」  装身具店で買い物を終えた後も、商店街の屋台を見て回る二人。  しばらくはダグボルトも真面目に二人の相手をしていたが、三刻程過ぎた頃にはぐったりとして、後をついていくのがやっとの有様だった。 (まさか魔女や異端と戦うより、女の買い物に付き合わされる方が疲れるとはな……)  だが楽しそうに屋台の品々を眺める二人の姿をぼんやりと見ているうちに、ダグボルトの脳裏にレウム・ア・ルヴァーナで過ごした僅かな時間が蘇る。 『ねえ、ダグ。これ、私に似合うと思う?』  銀髪のシスターが、べっこうの髪飾りを手にして彼に笑い掛けてくる。  褐色の肌はきめ細やかで、心地よい香りがぷんと漂う。 (リンジー……。いつかお前を、魔女の呪縛から解放出来る日が、やって来るんだろうか?) ――さん? (たとえお前が正気を失っていても、今度こそ二人で一緒に……) ――ダグボルトさん?  そこでダグボルトははっと我に帰る。  気が付くと目の前に、心配げな表情を浮かべているウォズマイラがいた。 「どうなされたんですか、ダグボルトさん? さっきからずっとぼうっとされてましたが、もしかして気分が優れないのですか?」 「いや、そうじゃない。ちょっと考え事をしていただけだ」  するとアルーサが何かを察したような顔をする。 「ははあ。さては昔付き合ってた女と、デートしてた時の事でも思い出したわね」  図星を突かれたダグボルトは、それを誤魔化すためにいきなり声を荒げる。 「ば、莫迦な事言うな! それよりそろそろ夕食の時間だぞ。買い物はさっさと切り上げて帰るぞ」  ダグボルトが宿に向けてスタスタと歩き出すのを見て、ウォズマイラはアルーサの脇腹を肘で突いた。 「あなたが変な事言うから、ダグボルトさんが怒っちゃったじゃないですか!」 「あんなのただのジョークじゃん。あれぐらいで怒るなんて、図体がデカい割に器がちっちゃ過ぎじゃない?」  背後の二人のやり取りを聞いて、ダグボルトは深いため息をついた。 (器が小さいも何も、別に怒っちゃいないんだがな。それにしてもアルーサの奴め。結構勘が鋭いな。まったく油断も隙も無い……)  三人が『紅珊瑚亭』に戻ると、受付にジーセイの姿があった。 「サー・ダグボルト、あなたに大事なお話があって参りました」 「ボイドの説得に成功したのか?」 「それが……」  ジーセイの顔が曇るのを見て、ダグボルトは眉根に皺を寄せる。 「駄目だったのか?」 「いえ、そういうわけでは無いのですが……」  少し躊躇った後、ジーセイは言葉を続ける。 「ボイドは直接あなたに会って考えたいと言っています。それで大変申し訳ないのですが、勝手に面会の予約を取り付けておきました。よろしいでしょうか?」 「分かった。後の事は俺が何とかしよう。それで場所と日時は?」 「日時は明日の後天八の刻(午後八時)、場所はこの街の港湾地区にある酒場『黒南風亭』になります。街を守って貰ってて何ですが、ボイドは非常に計算高い男です。くれぐれもご用心を」    **********  頬を伝い落ちる一筋の涙のように、流星がさっと夜空を走る。  暗闇に包まれたコルロヴァの街並みを、月明かりがそっと照らし出す。  だが密やかで静謐な天空とは対照的に、地上ではまだ昼間からの賑わいが続いていた。  街中の酒場は飲んだくれ達に占拠され、さらには路上まで酔客が溢れ出ている。  港湾区画にやって来たダグボルト達は、ジーセイから受け取った地図を元に『黒南風亭』までやって来た。  店からは、外からでもはっきりと分かるほど、大勢の男達の声が漏れ聞こえてくる。  ジーセイの話では、ここは皇鯨傭兵団の団員の溜まり場らしい。 「ここからは俺一人で行く。お前達はここに残れ」  ダグボルトはきっぱりと言った。  本当はウォズマイラとアルーサは『紅珊瑚亭』に置いて行きたかったのだが、強引にここまでついて来てしまったのだ。  しかしアルーサは首を横に振る。 「そんなの認めるわけないでしょ。ムーンシェイド号を取り戻すためにも、絶対についてくからね」 「だから船の所有権の話は――」 「私もボイドさんの説得に同席させて下さい。きっとあなたのお役に立ってみせます!」 「ウォズ、お前もか……」  熱意に満ちた二人の目を見て、ダグボルトは説得を諦めた。  仕方なく三人でぞろぞろと店に入る。  店内は水煙草の煙がもうもうと立ち込めており、アルーサとウォズマイラは煙たげに何度も咳払いする。  カウンター席もテーブル席も、厳つい顔をした傭兵達で埋まっていた。  全員の視線が三人に集まる。  ざっと見る限り、四、五十人はいるようだ。  殺気走った目つきを見る限り、歓迎されている雰囲気は無い。  一人の傭兵が、無言で店の奥を指差した。  ダグボルトは軽く頷くと、二人を連れて店の奥に向かう。  一番奥のテーブル席には、大柄な黒人が一人で座っていた。  年は四十前後くらい、強面だが高い知性を感じさせる引き締まった顔立ち。  鯨油でべっとりと濡れたドレッドヘアには、貝殻の飾りが幾つも縫い込まれている。  まるで黒豹のように、滑らかで均整のとれた筋肉質の身体に、使い込まれたレザーメイルを身に着け、腰のベルトにはカトラス(船乗り用の曲刀)を佩いている。  エールをちびちび飲んでいた黒人の男は、テーブルの上に投げかけられた影を見て顔を上げる。 「よく来たな。おめえさんも一杯やるか?」 「いや、いらない。俺は禁酒の誓いを立てている身だ。あんたがボイド・ボロッゴだな」  ボイドはこくりと頷くと、ダグボルトの後ろにいる二人に視線を走らせる。 「そいつらは?」  すぐにウォズマイラが一歩前に進み出た。 「私は劫罰修道会の副指揮官、ウォズマイラ・メイレインです。そして私の隣にいるのは同じ劫罰修道会の――」 「アルーサよ。ムーンシェイド号の正当な所有者のね」  その言葉を聞いてダグボルトはやれやれという顔をする。 「ボイド、こいつの言う事は気にしないでくれ」  だがボイドは、彼女の言葉に強い関心を持ったようであった。 「成程。そいつがジーセイの言ってたフィン=ダリア家の一人娘か。確かあの船はおめえさんの家の所有物だったらしいな、『黒の災禍』までは」 「今だってそうよ!!」  口泡を飛ばして主張するアルーサ。  テーブルに両手をついて、ボイドを激しく睨み付ける。  だがボイドは淡々とエールを飲み続けている。 「おめえさんはまだ気付いてないのかも知れねえが、『黒の災禍』の前と後じゃ、この世界を取り巻くルールが大きく変わったんだよ。……例えばこの俺だ」  ボイドはエールの入ったマグをテーブルにドンと置くと話を続ける。 「俺は物心ついた頃から、ずっとガレー船の漕ぎ手だった。もしそのまま何も起きなければ、酒の味も女の味も知らないまま、短い生涯を終えてただろうぜ」 「ガレー船の漕ぎ手って事は、あんたは奴隷だったのか?」  ダグボルトが尋ねると、隣にいたアルーサが驚いた顔をする。 「そんなはずないわ! 世界中のほとんどの国で、奴隷制度や人身売買は禁止されてたはずよ。もちろんアシュタラ大公国だって例外じゃないわ」 「確かに表向きはそうだろうな。だがルールの抜け穴なんていくらでもあるんだぜ。例えば罪人に賦役を課すって形なら、奴隷のように強制労働させる事だって出来るのさ」 「そんなの自業自得じゃない。さすがに罪人の面倒まで見切れないわよ」  だが複雑な表情をしているボイドを見たダグボルトはさらに尋ねる。 「一応聞いておくが、あんたが犯した罪っていうのは何なんだ?」 「俺の罪か……。そいつはこの世に生まれてきたって事さ」 「えっ!?」  再び驚くアルーサ。 「俺はここの西にある髑髏島の出身だ。そこでは俺のように肌の色の黒い者は、『悪魔の子供』って呼ばれてるんだ。前世で悪魔と取引した報いを受けて、こんな肌になったってな。そして生まれた瞬間に、島の統治官から五十年の懲役を科され、貴族の家に送り込まれるんだよ。そこで懲役を終えるまで馬車馬のように死ぬ気で働けば、罪が洗い清められ自由の身になれるって言われてな。まあ、ガキの頃はそんな与太話も真面目に信じてたさ。だが過酷な労働に耐えて、五十年も生きるのは不可能だって気付いて、ようやくあの話が嘘だって分かったんだよ」 「でもうちにはアンタみたいな罪を着せられた奴隷はいなかったわ!」 「確かにおめえさんの親父さんは、元は私掠船の船長だったとは思えないくらい、まっとうな商売をしてたらしいな。亡くなった今でも領民にも慕われてるみたいだしな。だがそんなのは少数派だ。いくら綺麗な衣装で着飾ってても、その中に薄汚い本性を隠し持ってるような連中がほとんどなんだよ。貴族や王族ってやつはな」  ボイドは話を締めくくると、また黙々とエールを飲み始めた。  辛い過去を、酒の味で拭い去ろうとしているかのように。  ダグボルトは、かつて聖地レウム・ア・ルヴァーナが、人身売買組織の拠点として利用されていた事を思い出す。  その組織のボス、ヌティエ・ストレイキンはよりにもよって、聖地防衛隊の北エリア部隊の隊長であり、そしてグレイラント公国のラドウィン公王の従弟だったのだ。  表面上は綺麗に取り繕われていても、この世界における権力の腐敗は、ピークに達していた事をダグボルトもよく知っていた。  そのために、彼自身も大きな犠牲を払う事になったのだから――。 「……けど、その俺が今じゃ傭兵団の団長様だ。そう言う意味では『黒の災禍』に感謝してるんだぜ。他の奴はどうだか知らんがな」  しばらくしてぼそりとボイドは呟いた。  だがその言葉にダグボルトは眉を顰める。 「つまりあんたは魔女の味方って事か?」 「そこまでは言ってねえさ。おめえさんが、いけ好かねえ『碧糸の織り手』を殺ってくれた事に関しては素直に感謝してるんだぜ。だが何も全部の魔女を殺す必要はないんじゃねえか? ここで戦いを終わりにしてもいいんじゃねえかなあ?」 「つまり世界をこのまま壊れたままにしておけと?」 「まあな。例えばおめえさんが全部の魔女を殺ったとしよう。それでどうなる? たぶん貴族や王族の生き残りが、隠れていた巣穴からのこのこ這い出してくるだろう。そこの小娘みてえな奴がな」  指差されたアルーサは険しい顔になる。 「そいつらが再び支配者の座に返り咲こうとするのを、俺達に指をくわえて眺めてろって言うのか。いいや。そんなのは絶対に認められねえな。今、この瞬間、この世界を支配しているのは俺達だ。過去の支配権を盾に、俺達が手に入れた物を奪おうっていう連中は、一人残らず叩き潰してやるからな! 絶対にだ!」  ボイドの目に、憎しみの強い光が宿る。  為政者に虐げられてきた者達の痛み、絶望、苦悩を薪として燃え盛る炎のように――。  沈黙――。  あのアルーサですら、ボイドの激しい憎悪を見て、何も言えなくなってしまう。  ダグボルトも、次にどうすべきか考えを巡らせていた。 (まさか、魔女を倒さなくてもいい、なんて考えてる奴がいたとはな。しかもよりにもよって、そいつの船が今はどうしても必要なんだから、何とも皮肉な話だ。だがそうなると、もう力ずくで船を奪い取るしか――) 「あなたは本当にそれでいんですか?」  ダグボルトの思考を遮るように、今まで黙って皆の話を聞いていたウォズマイラが急に口を開いた。 「確かにあなたが憎んでいたような、腐敗した権力者達は『黒の災禍』で一掃されました。でも今は、あなた方が憎悪の対象になっている事に、気付いてらっしゃらないんですか?」 「俺達が憎悪の対象だと!?」  ボイドは思わず気色ばむ。  周りで話を聞いていた団員達も一斉にどよめく。 「あなた方は傭兵にしては、比較的まっとうな商売をしているようですね。ですがそんなのは少数派です。金のためなら、どんな薄汚い仕事もするような連中がほとんどなんですよ、傭兵という人達はね。私が暮らしていた村も、『紫炎の鍛え手』に雇われた傭兵団の襲撃を受けて、家族を含めほとんどの住人が殺されました。だから私は、あなたが王侯貴族を憎むのと同じくらい、全ての傭兵を憎んでるんですよ」  先程のアルーサへの言葉の意趣返しだとボイドは気付く。  ウォズマイラの瞳に宿る憎悪の光は、先ほどボイドの瞳に現れたものと同じであった。 「そいつは気の毒な話だな。だがお前の村を潰したのは俺じゃねえし、全ての傭兵を憎むのはちょいとばかり筋違いじゃねえか?」 「それはあなただって同じでしょう? 自分を奴隷にした貴族を憎むのは当然ですが、アルーサや他の貴族を憎むのも筋違いじゃないですか?」 「くっ!」  痛い所を突かれ、ボイドは言葉に詰まる。  畳み掛けるようにウォズマイラは続ける。 「腐敗した王や貴族がいる一方で、領民を守るために自ら兵を率いて戦い、命を落とした者達だって大勢います。しかしあなた方は人々を守るために戦いましたか?」 「ああ、戦ったとも! この街を牙猿傭兵団の略奪から守ったし、今だって外敵から守ってやってるんだぞ!」  血走った目で睨み付けるボイド。  だがウォズマイラは冷ややかな目で見つめ返す。 「それは主君だった『碧糸の織り手』が死んで、自らの保身を考える必要があったからでしょう? 自分達の利益のためだけに戦っている者達を、人々が支配者だと認めると本気で考えてるんですか?」 「じゃあどうしろってんだ? おとなしく王侯貴族共に支配権を返せって言うのか!」 「いいえ、違います。あなたが言う通り、『黒の災禍』の前と後では、この世界を取り巻くルールが大きく変わりました。人々は王侯貴族のいない生活に慣れ、もはや彼らの存在など必要ない事に気付いてしまいました。ですから人々を導く指導者も、今までとは違う形であるべきだと思います」 「違う形?」 「ここからは私個人の考えですが、人々を導く存在は、人々の中から現れ、人々に選ばれ、人々に認められた者であるべきだと思います。そして人種、性別問わず、全ての人々にあらゆる権利が等しく与えられるような世界を築き上げられれば、素晴らしいとは思いませんか? しかしそうした世界の実現には、未だに人々を力によって支配しようとする、魔女の存在が大きな障害となります。だからその魔女を打倒するために、私は劫罰修道会の一員として今まで戦ってきたんです」  ウォズマイラは胸を張って高らかに宣言した。  ボイドは黙り込む――そして次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。 「アハハハハハハハハハハハハハハハ!! まさか社会改革のために戦ってる奴がいるなんて、とんだお笑い種だぜ!」  周りにいた傭兵達もボイドに釣られて笑い出す。  訳が分からず困惑するウォズマイラ。  しばらくしてようやく笑いが収まったボイドが口を開いた。 「ヒッ、ヒッ……、バッカじゃねえの……?。この世界を支配しているのは、今も昔も変わりなく、力なんだぜ。劫罰修道会が魔女を全滅させたところで、社会の変革なんて絶対にありえねえ。力を取り戻した王侯貴族の軍勢に潰されてお終いさ。結局は、古い支配者共が力を取り戻すための踏み台なんだよ、おめえさん達はさあ。アハハハハハハハハハハハ!!」  ボイドは再び笑い出した。  周りの傭兵達の爆笑が合わさり、やがては酒場を震わす程になる。  ウォズマイラは屈辱の余り、顔を真っ赤にして俯いてしまった。  だが次の瞬間、ダグボルトの拳が凄まじい勢いでテーブルに叩きつけられた。  その衝撃でテーブルは真っ二つに割れ、載っていたマグや酒瓶が床に落ちて粉々に砕け散る。  瞬時に全員の笑いが収まった。 「何がおかしい?」  静かだが冷たい怒りを孕んだ口調。  ボイドは口をぱくぱくと動かすが、言葉が出てこない。 「確かにウォズマイラの言っている事は、甘っちょろい理想論に過ぎない。魔女が全員死んだところで、おそらく世界は何も変わらないだろう。だが今まで魔女を相手に、命を懸けて戦ってきた人間の理想を、あざ笑う資格がお前にあるのか?」  その問いに、ボイドを含め傭兵達は誰も答えようとはしなかった。  いや、ダグボルトの凄みに押され、出来なかったと言うべきか。 「俺は一年くらい前に、魔女を殺す力を手に入れるために、この右腕を犠牲にした。そしてその瞬間から、俺と魔女との長い戦いが始まった」  ダグボルトは右腕の長手袋を外した。  燭台の炎で照らし出された鋼の義手が、鈍色の輝きを放つ。 「……だが、その前までの俺はまったくの腑抜けだった。『黒の災禍』を生き延びた俺は、日銭を稼ぐために野良の『異端』や夜盗を刈る毎日を過ごしていた。この世界がどうなろうが、その当時の俺にはどうだって良かった。残された人生を面白おかしく暮らせれば、それでいいって思ってたんだ。ちょうど今のお前達と同じだ。だがそうやって俺が自分の事だけ考えて生きている間も、そこにいるウォズマイラやアルーサは自分達なりの理想を抱いて、決死の覚悟で魔女の軍勢に戦いを挑んでたんだ。俺やお前の娘ぐらいの年頃の女がだぞ」  ダグボルトの口から溢れ出す言葉のひとつひとつに、激しい熱気が籠っていた。  ボイドは完全に黙り込んで、その話に耳を傾けていた。  周りの傭兵達も大人しく聞き入っている。 「こいつらみたいな若者の未来のために戦わなければいけないのは、本来は大人である俺達じゃないのか? それなのにその役目を放棄して、ここで享楽的な生活をしているお前が、信念を持って戦っているウォズマイラを笑いものにするのか? それで恥ずかしくないのか? 少なくとも俺は恥ずかしい。何より自分を恥じる。一年前まで、何もせずにのうのうと生きてきた自分自身をな」  ダグボルトの言葉には、苦い自嘲的な響きがあった。 「だから俺は、今まで怠けていた分を取り戻すために戦う。古い世界の因縁を拭い去り、こいつらに魔女のいない世界を残してやるためにな。魔女を全て滅ぼした後、そこからどういう世界を創るかなんて、それはこいつらみたいな若い世代の連中が考える事だ。正直言えば、ウォズマイラの言うような理想の社会を創り上げるなんて、ほとんど不可能だとさえ思う。だが俺は、そこまでの道を切り拓いてやりさえすれば、それでいいと思ってる。ボイド、お前も俺と同じ一人の大人として、若いこいつらのために道を切り拓く手助けをしてくれないか? 俺達と共に戦ってくれとまでは言わない。ただ船を出してくれさえすればいいんだ。頼む、この通りだ!」  ダグボルトは深々と頭を下げた。  今まで無表情のまま話を聞いていた、ボイドの口元に笑みが浮かぶ。  だが今度の笑いは嘲笑ではなく、相手への賞賛故のものであった。 「フフッ。まったくおめえさんは大した奴だよ。魔女を殺す才能だけじゃなく、弁舌にも長けてるようだな。酸いも甘いも噛み分けた百戦錬磨の俺様が不覚にもグッときたぜ。……だが口先では何とでも言える。おめえさんに本当に道を切り拓く覚悟があるっていうんなら、今ここでそれを見せて貰おうじゃねえか!」  そして近くの傭兵に向けてこう叫んだ。 「おい! 代わりのテーブルを持ってこい! それと同じ形のグラスを三つ。それからブドウ酒……いや、水を持ってこい」  周りの傭兵達はてきぱきと壊れたテーブルを片付け、代わりに新たなテーブルを置いた。  その上にワイングラスを三つと、水の入った瓶を載せる。  ボイドは三つのグラスに、それぞれ同じくらいの量の水を注いだ。  そして懐から無色透明の液体を取り出し、中身を中央のグラスに二、三滴垂らす。 「こいつはドクニンジンの絞り汁だ。この量でも、飲んだ奴は一分と経たずにあの世行きさ」  ボイドの説明を聞いてダグボルト達の顔が強張る。 「ここからが俺の腕の見せ所だ。まあ、よく見てな」  ボイドは両手でグラスを一つずつ手に取り、目にもとまらぬ速さで入れ替え始めた。  だがそれだけの速さにも関わらず、中の水はほとんど揺れていない。  そして三つのグラスを十分にシャッフルすると、ダグボルトに向けてこう言い放った。 「さあ、ひとつ選んで飲んでみな、魔女殺しの騎士さんよ。もしおめえさんが生き延びたなら、素直に負けを認めて船を出してやろうじゃねえか」  しかしダグボルトはグラスには手を付けず、代わりにこう尋ねる。 「……一つ聞きたい。このゲームにどんな意味があるんだ?」 「さっきも言ったが、まずおめえさんの覚悟がどれぐらいのものなのかを知りたい。本当に命を懸けてまで、そいつらのために道を切り拓く気概ってのがあるのかをな。そしてもう一つ。おめえさんはあの『猛禽の女郎』に勝負を挑むつもりみてえじゃねえか。だがあいつに戦いを挑んだガンダーロと『赤鮫艦隊』が、どんな末路を辿ったか知ってるだろ。俺だって命は惜しい。船を出すだけっていっても、巻き添えを喰らう可能性はゼロじゃねえ。だからおめえさんが、『猛禽の女郎』のゲームに勝てるだけの強運の持ち主かどうか、ちゃんと確かめておきたい。あいつに勝てるってんなら、俺相手のゲームなんか楽勝だろ? だったらそいつを証明して貰おうじゃねえか」  そう言うと、三つのグラスをダグボルトの前に押し出した。  グラスの水がゆらゆらと揺れる。  その中の一つは、速やかなる死を与える末期の水なのだ。 「あー、そうだ。噂によると、後ろの二人のどっちかは癒しの秘跡の使い手らしいな。万一、おめえさんが毒を飲んじまった場合、あっさり治癒されちまっちゃあフェアとは言えん。だからおかしな動きを見せたら容赦なく殺らせて貰うぜ」  ボイドが手で合図すると、アルーサとウォズマイラの背後にクロスボウを構えた傭兵達が立った。 「冗談でしょ!? アンタ、莫迦じゃないの!? こんなふざけたゲーム、誰も受けないわよ!!」 「そうですよ! こんな事は正気の沙汰じゃありません!!」  アルーサとウォズマイラは口々に不満を喚きたてる。  しかしボイドの目を見れば、これが冗談などでは無い事は一目瞭然であった。  ついにダグボルトは決意を固めた。最後に確認するようにこう尋ねる。 「本当に俺が生き残ったら船を出してくれるんだな?」 「ああ、もちろんだとも。俺は約束はちゃんとまも――」  ボイドが言い終えるより早く、ダグボルトは一番右のグラスを手に取って、中身を喉の奥に流し込んだ。  そして口を開いて、きちんと飲み干した事を証明すると、空のグラスを逆さにしてテーブルの上にドンと勢いよく置いた 「飲んだぞ。これで満足したか?」  一瞬、ポカンとするボイド。 「あ、ああ……。おめえさんの勝ちだぜ」  周囲の傭兵達の間からドッと歓声が上がった。  皆が口々に、ダグボルトの向う見ずな勇気を讃える。  外面は凶暴な者達ばかりだが、見た目程の悪人ではないらしい。  アルーサとウォズマイラもほっとした顔になる。  しかしなぜか、ゲームに勝ったダグボルトだけが不機嫌な顔をしていた。 「……いや、駄目だ。こんなんじゃ俺自身が納得出来ない。俺の覚悟はこんなもんじゃない」  そしていきなり中央のグラスを掴むと中身を一気に飲み干した。 「これでいい。これで俺の覚悟は完全に証明された」  ダグボルトはニヤリと不敵に微笑んだ。  緋色の瞳がギラギラとした輝きに満たされている。  今度はその場にいた全員が凍りつく。  無理も無い。  それはもはや勇気を越えた、ただの蛮行、ただの狂気であった。 「こいつ、頭がイカれてやがるぜ……」  ボイドはやっとの思いでそう呟く。 「……けど、このくらいイカれた奴じゃなきゃ、魔女には勝てねえんだろうな」
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