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5
雲一つない澄み渡った青空。
陽光に照らされたエメラルドグリーンの大海原が、宝石のようにキラキラと輝く。
その宝石をカットする鑿(のみ)のように、穏やかな波間を進み行く巨大な船体
風を孕んだメインマストの大きな帆布には、フィン=ダリア家の黒い三日月の紋章。
ムーンシェイド号を入手したボイドは、それを気に入って塗り替えずに残していたのだ。
コルロヴァを発って三日が過ぎていた。
このまま順調に進めば、あと数刻のうちにもベイル海峡に辿り着くだろう。
「ねえ、それアタシにもやらせてよ!」
アルーサは、船首で舵を操る操舵手に何度もしつこく頼み込んでいた。
しかし操舵手は首を縦に振ろうとはしない。
この少女に舵を持たせるのは危険だと、直感的に察していたからである。
「こう見えても舵には自信があるんだからね。風に乗ってスイスイって、軽やかに船を操って見せるんだから。だから早く貸しなさいってば!」
そう言うとアルーサは舵を強引に奪い取った。
「面舵(おもかじ)いっぱーーい!」
大声でそう叫ぶと、アルーサは舵をくるくると素早く左に回転させた。
驚いた操舵手は、慌てて舵を奪い返して元のポジションに戻した。
「な、何してんですか!! そんな出鱈目な操縦じゃあ、船が横転しちまいまさあ!!」
「えー、大げさね。アタシの船はそんじょそこらの泥船なんかとはわけが違うのよ。そんな簡単に横転なんかしないわ」
「いやいや、確かにこいつは立派な船ですけど、沈む時は普通に沈みますからね。……それから一つ言っときますが、左に舵を切るのは面舵(おもかじ)じゃなくて、取舵(とりかじ)ですから。今度から間違えねえでくだせえよ」
「どっちでもいいじゃん、そんなの」
「よくねえですよ!!」
ちょうどそこにボイドが通りかかる。
これ幸いとばかりに操舵手はボイドに泣きついた。
「団長~! こいつを何とかしてくだせえよ! さっきからあっしの邪魔ばっかしやがるんでさあ」
ボイドは深いため息をつくと、アルーサの首根っこを掴んだ。
「おめえ、いい加減にしな。俺の船で悪さするようなら、今ここで降りて貰うからな」
ボイドは人食い鮫の目のような黒々とした瞳でアルーサを睨み付ける。
しかし普通の人間なら恐怖で竦み上がるような眼差しも、恐れ知らずのアルーサにはまるで通用しない。
「は? これはアタシの船よ。どうせ目的地に着くまで暇なんだから、それまで船の仕事を覚えようとしたって別にいいでしょ」
「そうかい。そんな暇人のためにいい仕事があるぜ」
ボイドは親指で甲板を指し示した。
そこでは若い傭兵達が雑巾でせっせと床板を磨いていた。
アルーサは怒りで顔を真っ赤にする。
「何でこのアタシが雑用なんかしなきゃいけないのよ! アタシはこの船の所有者、つまり船長なんだからね! アンタこそ雑用がお似合いよ!」
大声に驚いた若い傭兵達は、一斉にアルーサの方を見る。
だがそれが火に油を注ぐ結果となった。
「アンタ達もぼさっと突っ立ってないで、さっさと掃除に戻んなさいよ!! 日が暮れるまでに終わらせないと、全員ご飯抜きだからね!!」
若い傭兵達は慌てて掃除に戻る。
それを聞いたボイドは呆れ顔になる。
「飯は船乗りの数少ねえ楽しみだぜ。安易にそいつを奪うのは得策とはいえねえなあ」
「人心を理解するといった高度な技能を、アルーサに要求しても無駄ですよ。彼女が船長になったら、二日と経たずに反乱が起きるでしょうね」
いつの間にか、近くに来ていたウォズマイラが冷たい口調で言った。
「うっさいわね! ちょっとご飯を抜いただけで反乱起こすなんて、気合が足りない証拠だわ。どんな時も船を愛し、船長への尊敬の念を持ってれば、雨水だけでも文句言わないはずよ」
「ではあなたは雨水だけで耐えられるんですか?」
「耐えられるわけないでしょ。アタシは船長なんだから普通に食べるわよ」
「あなたのそういう自分に甘く、他人に厳しいところが嫌いなんですよ、私は。……ところでボイドさん、この船に船酔いの薬はないんですか? 医務室を覗いてみたんですが、置いてなかったんですよ」
「医務室にねえんなら、たぶんこの船のどこにもねえだろうなあ。おめえさん、船に酔ったのかい?」
「いえ。私では無く、ダグボルトさんなんですが……」
「へえ。あんなタフな男にも意外な弱点があるんだな。人は見かけによらねえもんだねえ」
ボイドは意外そうな顔をする。
「はい。それでずっと船室に籠ったっきり、全然姿を見せないんです。ドアをノックしても返事すらない状態で、正直心配なんですよ」
「そんなにひどい状態じゃあ、部屋中ゲロまみれかもね」
他人事のように言うアルーサ。
だがすぐに苦々しい表情になる。
「――って、これアタシの船じゃん! それを汚すなんて信じらんない!!」
「いや、別にそうと決まったわけじゃ……」
「ちょっと行って様子見てくるわ!」
そう言うなり、ウォズマイラが止めるのも聞かず、飛び出していってしまった。
甲板の階段を下りて、狭い通路をずんすんと突き進むアルーサ。
百戦錬磨の船員達も、その気迫に押され思わず脇にどいてしまう。
やがて通路の一番奥の、客人用の個室の前に立ったアルーサは扉を乱暴に叩いた。
「ちょっと! アタシの船で船酔いなんかしてんじゃないわよ! 早くここを開けなさい!」
だが執拗に扉を叩くも、まるで返事は無い。
「……あっそう。じゃあいいわ」
アルーサはため息をつくと、くるりと踵を返す。
しかし次の瞬間、鋭い回し蹴りが扉に叩きつけられる。
その一撃でドアノブが吹き飛び、扉が大きく開いた。
三ギット四方の部屋は、ベッドとサイドテーブル、小さな棚があるだけの簡素な造りであった。
だがこれでも、相部屋になっている船員用の部屋と比べれば、遥かにましな部類なのである。
アルーサの読みは外れ、船室は綺麗なままであった。
部屋の隅に、荷物と鎧が置かれている他には何もない。
ダグボルトは布団にすっぽりと包まっていて、全く姿が見えない状態だ。
不自然な点があるとすれば、ダグボルトが寝ているベッドの布団が、やけに大きく膨らんでいる事であった。アルーサはゆっくりとベッドの方に近づいた。
「ダグ?」
「……俺に何の用だ?」
布団の中から不機嫌そうな声が返って来る。
「アンタが船酔いしてるって聞いたから、船室をゲロで汚してるんじゃないかって見に来たのよ。でも何ともなくて良かったわ。これはアタシの船なんだから、傷ひとつでも付けたら、ぶちのめしてやったところよ」
すると布団の中から、ダグボルトの左腕がぬっと飛び出し、扉の方を指差した。
ドアノブの弾け飛んだ扉は、船が揺れるたびにキイキイと開閉を繰り返している。
「あ、あれはアタシの物をアタシがぶっ壊しただけでしょ! もちろん他の奴が同じ事をしたら、ただじゃ済まさないけどね」
「ずいぶんと理不尽だな」
「ここはアタシの船の中なんだから、みんながアタシのルールに従うのは当然でしょ。ところでアンタ、少し見ないうちに太った?」
アルーサはパンパンに膨れ上がった布団を見て尋ねる。
「……そうか? 狭い船内に閉じ込められたストレスで、少しばかり食べ過ぎたかも知れんな」
「どんだけ食べたら三日でそんな太んのよ! ちょっと身体を見せてみなさいよ!」
アルーサは布団を両手で掴むと、ダグボルトが抵抗するのも構わず強引に剥ぎ取った。
そして次の瞬間、眼前に広がる光景にあっけにとられる。
「え~…………」
思わず脱力した声を上げるアルーサ。
布団の中でダグボルトは膝を抱え、体を小さく丸めていた。
大きな体にロープが幾重にも巻かれている。
さらにロープには、小さな樽が無数に括りつけられていた。
それだけ見ると、とても素面の人間のやる事とは思えない。
「……何それ?」
「見て分からないのか? 水に浮くための装置だ」
ダグボルトは平坦な口調で言った。
顔からは血の気が引いていて、唇まで青紫色に変色している。
まるで墓場から這い出してきた生ける死者のような有様だ。
「まさか泳げないの?」
「悪いか?」
血走った目でアルーサを睨み付ける。
いつものアルーサなら、その姿に笑い転げるところだが、あまりに悲惨な状況だったために笑う事すら忘れていた。
「別に悪くは無いけど……。そんなんでホントに浮くの?」
「ああ、浮くさ。コルロヴァの公衆浴場でちゃんと試したからな」
それを聞いたアルーサは、全裸のダグボルトが樽のついたロープを身体に巻き付け、浴槽の中でアヒルの玩具のようにぷかぷかと浮いている姿を想像してしまう。
「ぷ……ぷぷっ……」
アルーサは急に笑う事を思い出したかのように、身体を小刻みに振るわせた。
「あはははははははははははははははははははは!!」
次の瞬間、床に転がってケタケタと笑い転げる。
ダグボルトはその様子を冷めた目で眺めていた。
「アヒッ! アヒッ! し、死ぬ……誰か……止めて……」
笑い過ぎたアルーサはついには呼吸困難に陥る。
顔がどす黒く染まり、空気を求めてぜいぜいと喘いでいる。
(いっそ、そのまま死ね)
そうは思ったものの、本当にアルーサが死んでしまっては困るため、仕方なくベッドから這い出して背中をさすってやった。ようやく落ち着いたアルーサは、ぐったりと壁にもたれかかる。
「まったく……。面白すぎるわ、アンタって。まさかそんなにユーモアのセンスがあるとは思わなかったわ」
「………………」
むっつりと不機嫌そうに黙り込むダグボルト。
だが皮肉な事にアルーサのおかげで、いつの間にか水に対する恐怖を忘れかけていた。
「他の奴には秘密にしといてくれ。その……俺が泳げない事は……」
「うん、いいよ。だってこんな面白い事、他の奴には教えたくないもんね」
アルーサは再度笑い出しそうになるのをぐっと堪え、部屋を出て行こうとした。
だが壊れた扉の前で急に振り返る。
「あ、そうだ! ひとつ聞いときたい事があったんだ。ボイドとのゲームで、どのグラスに毒が入ってたか、アンタはちゃんと見抜いてたの?」
「ああ。ボイドの早業はなかなかのものだったが、俺の動体視力を持ってすれば、グラスの動きを見極める事なんて造作も無い」
しかしその動体視力は、生まれつきのものだけではなかった。
ダグボルトは審問騎士時代、訓練で団長のマデリーン・グリッソムと幾度か剣を交えていた。
マデリーンは東方諸島のサムライに一年程師事し、超人的なまでの回避能力を身に着けていたため、ついにダグボルトは一度も彼女に一撃を与える事が出来なかった。
それでも彼女の動きに徐々に慣れる事によって、動体視力と反射神経を、以前よりも遥かに向上させていたのだ。
「なーんだ。やっぱそうか。ドキドキして損したわ」
「それでも最後の最後で、毒入りのグラスを見失った時は、少しばかり焦ったがな」
「えっ?」
「だがその後、ボイドは右のグラスには触らなかったから、そこに毒が入っていない事だけは分かってた。だから一杯目は特に問題なかったんだ」
「じゃ、じゃあどうして一杯で止めないで、二杯も飲んだのよ!?」
アルーサの疑問はもっともであった。
ダグボルトは一瞬考えた後、口を開く。
「あの時、ボイドは俺の覚悟と運を試そうとしていた。それなのに毒入りのグラスを目視で見極めてしまうのは、フェアじゃないって思ったんだ」
「フェアも何も、もし毒を飲んでたらどうすんのよ!!」
「その時は潔く死んでたさ。俺が大いなる使命を成し遂げる運命にあるのなら、あんなところで死ぬはずがない。もし毒のグラスを選んでしまったなら、所詮はその程度の人間だったって事だ」
そんな思考は他人には理解不能だろうとダグボルトは思ったが、意外な事にアルーサは目を大きく瞠って見つめていた。
「……アタシとおんなじね。アタシも煉禁術の実験台になって、聖女の遺灰を移植される時、アンタと同じ事を考えてたわ。それまで実験は全て失敗してて、被験者はみんな死んでた。それでもアタシは、実験台を辞めようなんて全く思わなかった。アタシは運命の導きによって劫罰修道会に加わり、聖女に変生する宿命にあるって信じてたから。もしそうでないなら死ぬだろうけど、それはそれで別にいいかなってね」
それからしばらく二人は無言のままであった。
ただ黙って見つめ合うだけ――だが心の中では、通じ合う何かを感じていた。
「つまり俺達は似た者同士ってわけだ」
ダグボルトは、今までよりも親しみのある口調で言った。
「そうかもね」
アルーサも素直に頷いた。
だが同意してしまった事を後悔するかのように、すぐにこう付け加える。
「でもアタシは泳げるけどね」
それだけ言うと、アルーサは照れたように部屋を出て行ってしまった。
「ダグボルトさんの様子はどうでした?」
甲板に戻って来たアルーサに、ウォズマイラが尋ねる。
「思ってたよりは元気だったわ。でも人前に姿を見せられるような状態じゃなかったけどね」
思い出し笑いを必死に堪えるアルーサ。
「そうでしたか。あれについて、ダグボルトさんの意見を聞きたかったんですが」
「あれ?」
ウォズマイラは黙って前方を指差す。
そちらを見たアルーサは目を丸くする。
ムーンシェイド号の千ギット程前方の海上に、巨大な白い綿のようなものが浮いていた。
「何よ、あれ? まさか嵐雲?」
「いや、嵐にしちゃあ天候が穏やか過ぎる。それに海上を動いているようにも見えん。どうも雲っていうより霧の塊のようだが、ここからじゃこれ以上はよく分からんな」
遠眼鏡で海を見ていたボイドが、ウォズマイラの代わりに答える。
「前にこういった現象を見た事はありますか?」
「全くないな。どうも嫌な予感がしやがる」
ボイドは遠眼鏡を下ろすと近くの傭兵を呼んだ。
「今すぐ帆を畳んでここで碇を下ろせ」
「はっ!」
傭兵が立ち去るや否や、アルーサがボイドに食って掛かる。
「ちょっと、どういうつもりよ! まさかこんなとこで船を停める気!?」
「ああ、そうだ。たぶんあの霧の中に、『猛禽の女郎』のねぐらがあるんだろう。小舟を出してやるから、おめえさん達はそいつに乗ってあそこまで行きな」
「はあ!? いくら何でも遠すぎるわよ! まさかアンタ、まさか臆病風に吹かれたんじゃないでしょうね!」
「落ち着いて下さい、アルーサ!」
アルーサの襟首を引っ張って、少し離れた場所まで連れて行った。
「……ボイドさんが用心するのももっともです。あの霧の塊に無理に突っ込んで、この船が沈んでは元も子もありませんからね。あれが危険なものではないと証明されない限りは、これ以上船を進ませてはくれないでしょう」
「じゃあどうすんのよ?」
「誰かがあれを偵察して、安全かどうか確かめてみるというのはどうでしょう?」
「誰かって……まさかアタシじゃないでしょうね?」
「当然あなたですよ。あそこまで一瞬でたどり着ける人間は、あなたしかいないんですから」
アルーサはウォズマイラを激しく睨み付ける。
だが彼女の言葉は正鵠を射ていた。
そして残念な事に、アルーサには他にいいアイデアも浮かばなかった。
「分かったわよ! 行けばいいんでしょ、行けば!」
アルーサの身体が神気の光に包まれ、瞬時にプレートメイルが具象化される。
背中の翼を羽ばたかせて飛び立つアルーサ。
天空を貫く一本の矢のように、千ギットの距離を突き進み、瞬く間に霧の塊のすぐ側まで到達する。
半径一万ギットはあろうかという巨大な球状の霧の塊。
アルーサはその中に入る直前で静止した。
(魔力特有の嫌な感覚が鎧越しに伝わってくる……。やっぱこの向こうに『猛禽の女郎』がいるみたいね。問題はこの霧にどんな仕掛けがあるかって事だけど……)
アルーサの左手に神気のジャベリンが生み出される。
それを海中に放り込むと、一匹の魚を串刺しにした状態で手元に戻ってきた。
アルーサは穂先の魚を霧の中に入れてみる。
しばらくして取り出してみるが、魚には何の変化も無い。
――何か分かりましたか?
不意にアルーサの脳内に、ウォズマイラの声が響き渡る。
それは神気を利用したテレパシーで、二人はこれを使って脳内で会話する事が出来るのだ。
だが突然の事に驚いたアルーサは、ジャベリンを海に落としてしまう。
(急に頭の中に入ってこないでよ! びっくりしたでしょ!)
――それは済みませんでした。先にノックした方が良かったですかね。
(うわ、最悪。アンタのジョークって、ゲロ吐きそうなぐらいつまんないんだけど。それより何の用?)
――……その霧に関して何か分かりましたか?
(魔力で生み出されたものなのは間違いないけど、触れただけでダメージを受けるようなヤバい成分は含まれてないみたいよ。普通の霧と同じように、ただ単に視界を奪うだけのものみたいね)
――そうですか。それを聞いて安心しました。
(……ねえ、ところで何かおかしくない? このテレパシーって有効範囲五十ギットぐらいでしょ。どうしてアンタの声がここまで届くの?)
――それは後ろを向いてみれば分かりますよ。
その言葉に従って振り返ったアルーサは目を丸くする。
千ギット彼方にあったはずのムーンシェイド号が、すぐ側にまで接近しているではないか。
帆は畳まれ、碇もちゃんと下ろされた状態にも関わらずだ。
こうしている合間にも、船はぐんぐんと霧の方に突き進んでいる。
(何してんのよ!? どうして勝手にこっちに来ちゃったの!?)
――別に我々が船を動かしてるわけじゃありませんよ。何らかの力によって、勝手に霧の方に引き寄せられているようです。ボイドさんも色々と手を尽くしているみたいですが、こうなってしまっては……。
ついにムーンシェイド号は、アルーサの横を抜けて霧の中に入って行ってしまった。
慌てたアルーサも後を追って霧の中に飛び込む。
だがすぐに一面真っ白な霧に覆われ、視界が完全に閉ざされてしまう。
(しまった! これじゃ船を見失っちゃう!!)
――落ち着いて下さい。私の声の方に飛べば船に戻れますよ。
脳内に再びウォズマイラの声。今度ばかりは安堵するアルーサ。
すぐにテレパシーの発信源に向かって一直線に飛ぶ。
やがて深い霧の中に大きな船影を見つけ、ほっと胸を撫で下ろす。
甲板に着地したアルーサは、慌ただしく動き回る傭兵達の脇をすり抜け、船首の方に向かう。
そして部下達に指示を飛ばしているボイドにいきなり食って掛かる。
「さっさと止めなさいよ!! アンタの船でしょ!!」
「はああああ!? おめえ、さっきまで自分の船だって言ってただろ!! ぐだぐだ抜かすなら、おめえが何とかしやがれッ!!」
二人はその場でぎゃあぎゃあと醜い言い争いを始める。
周りにいた傭兵達はぽかんとした顔をして、そのやり取りを見守っている。
やむなくウォズマイラが二人を止めに入る。
「こんな時に喧嘩は止めてください! こういった予想していない状況に遭遇した場合、冷静に状況を判断して、的確な対応を……」
「そんなのんきに対応を考えてる場合じゃないでしょ!! とにかく今すぐ船を止めないと、たぶんすっごく大変な事になるわよ!!」
「そ、それは分かってますけど、具体的にどう動いたらいいのやら……。ああ……私が本物の聖女だったなら、きっとこんな時、聖天の女神が啓示を授けて下さったでしょうに……」
天を仰いで嘆くウォズマイラ。
それを見て、イライラとした顔で舌打ちするアルーサ。
「だからメソメソしてる場合じゃ――」
いきなりムーンシェイド号全体に激しい衝撃が伝わってきた。
甲板にいた者達の多くが転倒する。
皆、船から落ちないように、慌てて近くにある物に掴まって難を逃れようとした。
ガリガリという嫌な音が船底の方から聞こえてくる。
どうやら何かに乗り上げてしまったらしい。
しばらくすると振動が収まり、辺りを静寂が支配する。
それと同時に徐々に霧が晴れていく。
無事を確認して立ち上がったアルーサ達の目に飛び込んできたのは、膨大な数の帆船の残骸が組み合わさって出来た巨大な浮島であった。
浜辺には船板を組み合わせた大きな看板が立っている。
黒く塗られた看板には、白文字で大きくこう書かれている。
――海上カジノ『ハルピュイエ・ネスト』はこの先七百七十七ギット!
幸運な人間は誰でも大歓迎! 運を味方につけて好きな望みを叶えよう!
営業時刻――前天九の刻(午前九時)から後天十一の刻(午後十一時)
定休日――年中無休
「『猛禽の女郎』め……。完全に人を舐めた奴ですね」
甲板からその光景を見たウォズマイラは忌々しげに呟く。
だがそれとは対照的に、ボイドは安堵の表情を浮かべていた。
「それでも海の藻屑にされなかっただけマシだぜ。俺達は上陸の準備をしとくから、おめえさん達はダグボルトの旦那を呼んできてくれよ」
**********
「固い地面がこんなに有り難いものだなんて思わなかったな」
船からの縄梯子を下りて、大地を踏みしめたダグボルトは噛み締めるように言った。
続いて下りてきたウォズマイラが気遣うような表情を受かベる一方で、その脇を冷めた表情のアルーサが通り過ぎる。
「あっそ。よかったわね。で、これからどうする?」
「まず周辺を探索して『ハルピュイエ・ネスト』の入り口を見つけよう。『猛禽の女郎』の手下が島を守ってるだろうから慎重にな」
船を降りて溺れる心配が無くなったため、ダグボルトは愛用のプレートメイルを着用していた。
その上に枯葉色のマントを羽織り、ヒーターシールドとスレッジハンマーを装備している。
ウォズマイラは長身の身体に、白のプレートメイルとハーフヘルム(顔が露出している兜)を身に着け、ペガサスが描かれたカイトシールド(逆三角形の中型盾)とバスタードソード(片手でも両手でも扱える長剣)を背負っている。
プレートメイルの上にはくすんだ茜色のフード付のマントを羽織っていた。
アルーサだけは、いつも通り鎧も武器も一切身につけず、チュニック(短衣)と動きやすいズボン、鹿皮のブーツだけの姿だ。
彼らに続いて、ボイドが部下の傭兵達を引き連れてやって来た。
「おめえさん達が探索してる間に、俺達は船を浅瀬から押し出しとくぜ」
「まさかアタシらを置いて逃げたりしないでしょうね」
するとボイドは、アルーサをぎろりと睨み付ける。
「俺はそこまで卑劣な人間じゃねえ。おめえさん達が戻って来るまで、ちゃんと待っててやるよ。まあ、どのみち島の周りの霧が晴れない限りはどこにも行けねえがな」
ダグボルトは二人を連れて、島の奥へと足を踏み入れる。
浮島を構成する赤い船板は色あせてピンク色になっている。
おそらくガンダーロ大公が率いていた『赤鮫艦隊』のものだろう。
表面には大量の鳥の羽が落ちている上に、さらに乾燥した鳥の糞がこびり付いていた。
その上を歩くたびに粉末となった糞が舞い上がり、三人は何度も咳き込む。
「コホ、コホッ! どうでもいいけどきったない場所ねえ。ここに棲んでる連中には衛生概念ってもんがないの? 変な病気に感染しそうで怖いわ」
「確かにな。だが仮に感染しても、ウォズの癒しの秘跡があるから――」
不意に上空から、バサバサという羽ばたきの音が聞こえてきて、ダグボルトはそこで口をつぐむ。
頭上を見上げた三人の目に映るのは、不気味にどす黒く染まった空であった。
すぐに三人はそれが鳥の群れだと気付く。
カモメやアホウドリのような渡り鳥の他にも、ワシやタカ、フクロウやカラスなど様々な種類の鳥が混じっている。一斉に放たれる不快な鳴き声には、明確な敵意が籠っていた。
「襲ってくるぞ! 気をつけろ!」
ダグボルトが警告を飛ばすと同時に、鳥達が一斉に三人に群がった。
辺りに羽根を撒き散らしながら、鋭い爪や嘴でダグボルト達の皮膚を引き裂かんとする。
「こいつら、うっとおしいわね」
不愉快そうに呟いたアルーサの身体から、神気の光が放たれる。
それは瞬時に頑強なプレートメイルに姿を変える。
だがアルーサが攻勢に移るまでもなく、光に驚いた鳥達は、来た時と同じように瞬く間に飛び去って行ってしまった。
「ホーホホホゥ! これはお見事、お見事」
今度は上空から耳障りな男のしゃがれ声。
鳥達の代わりにそこにいるのは、上半身裸の人間の身体に、灰色の羽根に覆われた鳥の下半身、梟の顔の奇怪な怪物であった。
両腕の代わりに生えている大きな翼を羽ばたかせて滞空している。
――すなわち『猛禽の女郎』の尖兵、『梟の異端』。
「さっきのはアンタの仕業? だったらこっちも容赦しないわよ」
光のジャベリンを構えるアルーサを見て、『梟の異端』はニヤリと笑うかのように嘴の端を歪める。
「ホホッ、私は何もしてませんよ。ここに棲む鳥達は縄張り意識が強くて、余所者を歓迎しないようなんです。ですが我がマスター、『猛禽の女郎』様は余所者でも何でも大歓迎! もちろん命を狙う悪漢では無く、純粋にゲームを楽しみに来た客人に限りますがね。ところで念のために聞いておきますが、あなた方は招待状はお持ちですか?」
その問いに、無言で首を横に振るダグボルト。
「まあ、そうでしょう。我々もあなた方に送った覚えはありませんからね。魔女殺しの騎士、ダグボルト・ストーンハート殿」
「俺を知ってるのか?」
「ええ、もちろんです。あなたは我々の間ではかなりの有名人ですからね。ついでに言っておくなら、我々はアシュタラ大公国のあらゆる港湾都市にスパイを送っているので、あなた方がここに来ることも事前に知ってたんですよ。実はね」
そう言って『梟の異端』は、また嘴の端を歪める。
「そちらにいらっしゃるのは『偽りの聖女』ウォズマイラ・メイレイン殿でしょう? それからそちらは……」
だがアルーサを見た『梟の異端』は一瞬悩む。
「……ウォズマイラ殿の付き人?」
「誰が付き人よ!」
「ホホッ、済みません。冗談ですよ、冗談。そのように神気を武具に変える力を持つ人間が、ただの付き人なわけありませんよね。ですが本当に、あなたが何者なのか知らないんですよ。我々の得た情報には、あなたに関するものは含まれていなかったのでね」
「だったら覚えてきなさい! アタシはアルーサ。そこのウォズマイラを遥かに越える力を持つ聖女よ!」
胸をドンと叩いて名乗りを上げるアルーサ。
しかし『梟の異端』は眉間に皺を寄せる。
「ホゥ? しかしどれだけ力を持っていても、結局はウォズマイラ殿と同じ『偽りの聖女』なんでしょう?」
「そ、それは別にいいでしょ! それでもアタシは『真なる聖女』に限りなく近い存在なの! テストで言ったら百点中、九十九点レベルのね!」
「まあ、自分で言うだけなら自由ですよね。ではあなた方の到着をマスターにご報告しなければなりませんので、私はこれで失礼しますよ」
「あ! 逃がさないわよ、魔女の下僕ッ!!」
アルーサはジャベリンを逆手に持つと、後ろを向こうとした『梟の異端』目がけ投げつけた。
だが『梟の異端』はその動きに瞬時に反応する。
ジャベリンをかわしつつ、鉤爪のついた脚で柄の部分を掴み、流れるような動作でアルーサへと投げ返す。
逆に反応が遅れたアルーサの胸に、ジャベリンの穂先が深々と突き刺さる。
しかしそれはすぐに光の粒子に変わり、姿を消した。
「ホホゥ。その武器はあなた自身には効かないんですね。しかし無抵抗な相手に攻撃するなんて、いささか無粋ではありませんかねえ?」
「うっさい! だったらどこに行けば『猛禽の女郎』に会えるか、早く教えなさいよ!」
「ああ、そういう事ですか。それなら矢印の方向に進めば、すぐにカジノに着きますよ。それでは今度こそ失礼します」
「こら! 待ちなさいってば!」
去って行った『梟の異端』を追おうと、アルーサは四枚の翼を羽ばたかせて上空に舞い上がった。
だがダグボルトが大声でそれを制止する。
「待て、アルーサ! 一人で勝手に動かないで、ちゃんと俺達と一緒に行動しろ!」
「ちぇっ、仕方ないわねえ」
アルーサは舌打ちすると、渋々『異端』を追うのを諦める。
「だけどアイツが言ってた矢印なんてどこにも……」
そこで下を見たアルーサはようやく気付く。
地面に落ちている船の残骸は、一見無秩序に散らばっているように見えて、実はきちんと矢印の形に組まれていた。だがその矢印が大きすぎる為、下にいる時には全く気付かなかったのだ。
「あっちよ。矢印はあっちを指してるわ」
アルーサが指差す方向に向けて、ダグボルト達は進み始める。
やがて三人の前に巨大な影が現れる。
初めは鯨の死骸のようにも映る。
だがよく見るとそれは、外壁に蔦がびっしりと絡み付いた巨大客船であった。
外観を見るに、五百名は収容出来そうな大きさだ。
これが『ハルピュイエ・ネスト』に違いない。
船には甲板に昇るために長い鉄の梯子が掛けられていて、その横の船板には上向きの矢印が描かれている。
ダグボルトとウォズマイラが、慎重に錆の浮いた梯子を昇っていくと、甲板では空から先に辿り着いたアルーサが待っていた。神気を温存するために、『神鳴槍の戦具』は解除している。
「次はあそこに入んなきゃいけないみたいよ」
アルーサが親指で指し示す先には、船室へと下りる階段がある。
その横に、またも矢印が描かれていた。
「罠の可能性もある。ここからは俺が先頭で行く」
ダグボルトは腰のスレッジハンマーに手を掛けて、ゆっくりと階段を下りていった。
アルーサとウォズマイラも周囲にに警戒しつつ後に続く。
だが階段を下り切った瞬間、いきなりダグボルトの右足が床板を踏み抜いた。
際どい所で階段の手すりを掴んで落下を免れる。
「落とし穴!?」
アルーサとウォズマイラはきょろきょろと周囲を窺う。
だがダグボルトは首を横に振った。
「いや、違う。どうも床板が腐ってたらしい。お前達も気を付けたほうがいい」
「なーんだ。脅かさないでよ」
呆れるアルーサ。
ウォズマイラも苦笑いを浮かべている。
ダグボルトは肩をすくめると、気を取り直して先へと進んでいく。
廊下は静寂に包まれていて、ダグボルト達がギシギシと床板を鳴らす音を除けば、完全に無音であった。
壁にはヒカリゴケを混ぜた塗料で矢印が描かれていて、薄ぼんやりとした明かりで先へ進むルートを示している。
しばらく進むうちに、三人はこの船の廊下や船室が、本来の構造とは明らかに異なっていると気付く。
ぐねぐねとねじまがった廊下、さらに無数の階段で上下階への移動を何度も強いられ、段々と方向感覚を失っていく。
船内は『猛禽の女郎』の手によって改造され、複雑な迷宮と化していた。
道標となる矢印が無ければ、とっくに道に迷っていただろう。
まるで同じところをぐるぐると歩き回るような感覚。
気付けばすでに半刻以上歩き回っていた。
疲労と焦燥感で、いつの間にか三人とも無言になっている。
「見て! あの扉、今までのとはちょっと違うわよ」
唐突にアルーサが口を開いた。
その言葉通り、廊下の最奥部にある扉は赤く塗られていて、ドアプレートには『遊戯室』と刻まれている。
「この向こうに『猛禽の女郎』が……」
ダグボルトは緊迫した面持ちで扉を押した。
鍵はかかっておらず、音も無くすっと開く。
だが期待は裏切られた。
扉の向こうは縦四十ギット、横六ギット程の長方形の部屋になっていた。
天井までの高さはおよそ三ギット、天井にはヒカリゴケが貼り詰められていて、淡い輝きで部屋の中を照らし出している。
ダグボルト達が入って来た扉の反対側に、出口と思われる青い扉がある。
出入り口の扉の下にある床は、二ギット四方の小さな正方形の足場になっていた。
それ以外の部分は床が少し低くなっていて、そこは灰色の濁った水の溜まったプールのようになっていた。
「何よ、これ。『猛禽の女郎』なんかいないじゃん」
ぶうぶうと文句を言い始めるアルーサ。
すると突然、部屋の中に先程の『梟の異端』の耳障りな声が笑い声が響き渡る。
「ホホホホホゥ! 世の中、それ程甘くはありませんよ」
よく見ると、部屋の天井の中心部から細い金属管が飛び出していた。
『異端』の声はそこから聞こえてくるようだ。
「俺達を欺いたのか?」
冷たい怒りの声と共に腰のレッジハンマーに手を掛けるダグボルト。
しかし『梟の異端』はチッチッと舌を鳴らす。
「ホホッ、そうではありませんよ。招待状をお持ちでない方々を、簡単に我がマスターの元にお通しするわけには参りません。あなた方がマスターとのゲームに挑戦する資格があるかどうか、私が見定めさせていただきます」
「……つまりまずはお前とのゲームに勝てという事か」
「ご理解が早くて助かりますよ。まあゲームといっても実に単純なものです。そこから出口、つまり青い扉まで来ていただければいいだけです。ただし床に落ちている羽根に出来るだけ触れないようにね」
「羽根?」
ダグボルトは灰色に染まった床をもう一度見る。
溜まっている水のように見えたものは、実際は大量に敷き詰められた灰色の羽根であった。
「これに触れるとどうなるんだ?」
すると『梟の異端』は金属管越しに含み笑いを浮かべる。
「ホホッ、それは触れてからのお楽しみという事にしておきましょう。まあ少々触れたところで実害はないのでご安心ください」
だが床の羽根はぎっしりと敷き詰められていて、足の踏み場など全く無い状態であった。
爪先立ちで進んでも、まったく触れずに進むのは不可能に近いだろう。
「この羽根は、島に散らばってたやつとは違って魔力を帯びてるわ。たぶんあの『異端』のものね」
床を一瞥したアルーサが言った。
「あー、それから先に言っておきますが、入って来た扉から部屋の外に出たら、失格とさせていただきますよ。外から足場になる物を持ってきたりしたら、誰でも簡単にクリア出来てしまいますからね。あくまでも、今手元にある物を利用して、出口まで辿り着いていただきたいのです」
金属管の向こうから『異端』の警告が飛んだ。
赤い扉を開けて外に出て行こうとしたウォズマイラは思わず舌打ちする。
「さて、どうするかな……」
ダグボルトは顎に手を当てて考え込む。
だがそんな彼を無視して、アルーサが頭上に向けて声を掛けた。
「ねえ、『異端』! このゲームは全員がクリアしなきゃだめなの?」
「いえいえ。誰か一人でもクリアすれば、他の方々もここを通して差し上げますよ」
その言葉を聞いたアルーサは満足げな笑みを浮かべる。
「それなら簡単だわ。こんなくだらないゲーム、アタシがさっさと終わらせてやるわよ」
アルーサの身体が神気の光で包まれた。
プレートメイルの背中の四枚の翼を羽ばたかせて足場を飛び立つ。
「空を飛んできゃ、こんなの楽勝でしょ」
フルフェイスヘルムの中でアルーサはにやりと笑う。
ばさばさと二回程羽ばたいただけで十ギット地点まで辿り着いていた。
だが足場の上にいるダグボルト達の顔色が変わる。
アルーサの羽ばたきによって、大量の羽根があたかも吹雪のように空中に舞い上がっていた。
天井まで三ギット程しかない為、彼女が飛んでいる場所は床に近過ぎたのだ。
「戻れ、アルーサ!!」
ダグボルトは必死に叫ぶ。
ようやくアルーサも異常に気付くが時すでに遅し。
舞い上がった羽根は、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、次々とアルーサのプレートメイルや四枚の翼に付着していく。すると身体の動きがいきなり鈍くなり、ついには翼が全く動かせなくなってしまった。
「お、重いッ!?」
身動きのとれなくなったアルーサは、なすすべなくそのまま墜落する。
激突の衝撃で腐っていた床板が砕けた。
ぽっかりと空いた床の穴に消えていくアルーサ。
やがて穴の奥の暗闇で大きな水音がした。
「ホゥホゥホゥ! その羽根は、この部屋の外からやって来た生物や物体に触れると、ぴったりと付着して重量を増加させる能力を持っているのです。しかも一度触れてしまうと、ゲームが終わるまで剥がれる事はありません。……しかし床板をブチ抜くほど重くなった人を見たのは初めてですよ。いやあ、凄いですねえ」
『梟の異端』は嘲笑うような口調で口調で言った。
「ついでに言わせていただきますと、この部屋の下は船倉になってましてね。そこには大量の海水が溜まってますから、身動きの取れない彼女は溺死確定なんですよ。大変お気の毒な話ですがね」
「糞ッ!!」
ダグボルトは赤い扉のドアノブに手を掛けた。
「どこへ行くんですか、ダグボルトさん!?」
驚いたウォズマイラは、ダグボルトの左腕を掴んで強引に引き留める。
「この船の甲板にロープか何かあるはずだ。それを使ってアルーサを助け出す!!」
「部屋を出たらゲーム失格になりますよ! それでもいいんですか!?」
「知った事か!! このままアルーサを見殺しには出来ん!!」
緋色の血走った瞳がウォズマイラを見た。
そこに映るのは胸が張り裂けんばかり絶望と悲嘆。
あまりにも多くの親しい者を失ってきた人間の、深い苦悩が現れていた。
だがウォズマイラは自らの心を押さえつけ、静かに首を横に振った。
「……駄目です。とにかくまずは落ち着いて下さい」
ダグボルトは、ウォズマイラを激しく睨み付ける。
だが一瞬ためらった後、ドアノブから手を離した。
「アルーサがああなったのは、軽はずみな行動をとったせいです。自業自得と言う他ありません。それに彼女が溺死する前に甲板まで戻って、またここに引き返してくる時間なんてありません。残念ですが、今となってはアルーサを助けるのは不可能です。ここは気持ちを切り替えて、私達だけでもこのゲームを突破しましょう」
「お前、よくもそんな事を……」
冷淡な口調のウォズマイラに、思わず掴みかかりそうになるダグボルト。
だが感情を押し殺すような彼女の表情に気付いて、ゆっくりとその手を下ろした。
たとえ相性が悪かったとしても、劫罰修道会の同志として共に戦ってきた仲なのだ。
悲しくないはずなどない。
ただそれを表に出さないようにしているだけなのだ。
「見てください。アルーサの犠牲は無駄じゃありませんでしたよ」
ウォズマイラが指差す方向を見て、ダグボルトは目を瞠る。
敷き詰められていた羽根が舞い散ったおかげで、床の所々が剥き出しになっている。
全てはアルーサの翼の羽ばたきのおかげだ。
「あの道こそ、最期にアルーサが創ってくれたものです。うまくあそこを通れば、羽根を踏まずに出口まで行けます。さあ、先に進みましょう」
だがウォズマイラが床に足を踏み出そうとした瞬間、ダグボルトに肩を掴まれ、強引に引き戻された。
「今度は俺の番だ。お前はここで待ってろ」
それだけ言うと、ダグボルトはプレートメイルを脱ぎ始めた。
そして身軽な姿になると、スレッジハンマーとヒーターシールドだけを帯びて、爪先立ちで床に足を踏み入れた。
床に視線を這わせて羽根の落ちていない場所を探し、慎重に一歩、また一歩と歩みを進める。
七ギット地点――ここまではほとんど羽根を踏むことなく辿り着く。
目の前の床板には、ぽっかりと大きな穴が開いている。
先程、アルーサが墜落した場所だ。
穴に耳を澄ませても水音ひとつ聞こえない。
アルーサが落ちてからすでに半刻は過ぎている。
暗い水の中で冷たくなっているアルーサの姿が脳裏に浮かび、ダグボルトは慌てて首を振った。
今は余計な事を考えている場合では無い。
だがダグボルトの心には僅かな乱れがあった。
次の一歩を踏みしめた瞬間、いきなり足元が滑り、床に大きく身体を打ちつけてしまう。
「しまった!」
すぐに立ち上がるが、床に接触した胸板や膝や太ももなどに大量の羽根が貼り付いている。
同時に全身にずっしりとした重みが伝わる。
まるで巨大な丸太を背負わされたかのようだ。
「ホホホホホッ! そうそう。その床は湿った鳥の糞やら苔やらで、大変滑りやすくなってますから、転ばないようにお気を付け下さい。とは言っても、もう手遅れのようですけどねえ」
嘲るような『梟の異端』の忠告が部屋の中に響き渡る。
ダグボルトは羽根のついた衣服を脱いで身軽になろうとした。
だが羽根の軸部分が、衣服の下の肉体に食い込んでいるようで、脱ぐ事が出来ない。
たとえ衣服を強引に引き裂いたとしても、羽根の貼り付いた部分だけは剥がれずにそのままだろう。
やむなく服を脱ぐのを諦めたダグボルトは、再び歩みを進める。
しかしアルーサが飛んでいた場所から離れるにつれ、段々と足の踏み場が無くなっていく。
誤って羽根を踏みつけてしまう度に、全身に伝わる重みが強くなっていく。
それでもダグボルトは、どうにか十五ギット地点までたどり着いていた。
「あと二十五ギット……。重量の増加ペースがこのままなら絶対にいけるはずだ」
成功を確信したダグボルトは思わず呟く。
「ホゥホゥ。筋力には相当に自信がおありのようですねえ。しかしあなたの身体は重さに耐えられても、床の方はどうですかねえ?」
「何!?」
『梟の異端』の言葉に誘発されたかのように、ダグボルトの足元の床板がミシミシと音を立てる。
よく見ると床板には無数の亀裂が入っていた。
「ホゥホゥホゥ。ようやく気付いたようですね。それ以上進むと、さっきの娘の二の舞になりますよ」
身動きの取れなくなったダグボルトはその場に立ち止まる。
これ以上、羽根を付着させてしまえば、アルーサと同じように床板を踏み抜いて船倉まで落下してしまうだろう。だが羽根を踏まずに残りの道のりを進むのは、もはや不可能に近かった。
敗北の屈辱と悔しさで、口の中に苦い味が広がり、額からはだらだらと汗が滴り落ちる。
(ちいッ! 先に進む力は十分残ってるんだぞ! そうだ。まだ行けるとも。一か八か、床を踏み抜かないようにゆっくり歩けば……)
「それ以上はいけません!」
ダグボルトが足を踏み出そうとした瞬間、背後のウォズマイラが声を掛けてきた。
ゆっくりと振り返ったダグボルトは、無理に笑顔を作ってみせる。
「アルーサは俺達に道を切り拓くために命を落とした。今度は俺がお前に道を切り拓いてやる。この命に代えてもな。だから――」
「いえ、そんなのは間違ってます!!」
ウォズマイラはきっぱりと言い切った。
「自己犠牲によって未来を切り拓くなんて、そんなのはただの欺瞞です。私はそんな風に創られた未来を望んではいません。私が聖女としての生き方に迷っていた時、ダグボルトさんは『無理をせずに誰かを頼れ』と言いましたね。でもそれはダグボルトさん自身にも当てはまりませんか? 亡きウォーデンがあなたに言った言葉を思い出してみて下さい」
「!」
その瞬間、ダグボルトの脳裏にウォーデンの教えが蘇る。
――分からぬ事があれば、分かる人間に教えを乞い、困った事があれば、信頼できる人間に相談するといい。そうやって支え合ってこそ、人は生きていけるのだからな。
「ミルダさんのように強大な力を持つ魔女ならともかく、私達はただの人間です。一人の人間が出来る事など限られています。だから一人で全て解決しようとしないで、みんなで力を合わせましょう。そうすれば誰かを犠牲にしなくても、きっと道を切り拓けるはずです」
「…………そうだな。確かにお前の言うとおりだ」
素直に自分の非を認めて俯くダグボルト。
ウォズマイラに教える側の人間だったはずが、いつの間にか教えられる側になっていた事が、嬉しくもあり、また寂しくもあった。
「あなたの失敗は決して無駄ではありません。おかげで攻略の糸口が掴めました。あとは私に任せてください」
ウォズマイラはプレートメイルを脱いで身軽な姿になると、ブーツに隠してあった短刀でマントを細かく切り裂き始めた。
そしてバスタードソードを鞘の途中まで抜いて、鞘と刀身の隙間に切り裂いた布を詰め込み、さらに腰紐でグルグル巻きにして二ギット近い長さの槍のような形で固定する。
残ったマントの断片は上着のポケットに詰め込んだ。
「ホゥホゥ、あなたが最後の挑戦者になりますよ。もう失敗は許されません。それでもやる気ですか?」
天井から『梟の異端』がさも心配するかのように声を掛ける。
するとウォズマイラは槍状のバスタードソードを、天井に向けて大きく掲げた。
ヒカリゴケの淡い光で、磨き上げられた刀身がきらりと輝く。
「もちろんですとも。平和な世界を取り戻すためにも、私達はこんなところで立ち止まっているわけにはいきませんからね!」
決意を告げたウォズマイラは、カイトシールドをダグボルトの方に向けて投げつけた。
それはちょうど五ギット地点の床に落ちる。
続けざまにウォズマイラは、槍状のバスタードソードの鞘の先を、床の羽根が落ちていない部分に突き立て、棒高跳びのように体重を乗せて刀身をしならせ、大きく跳躍した。
しなやかな体躯が、つむじ風のように冷たい空気を切り裂いて、完璧な動作でカイトシールドの上に着地する。
「これで五ギットのショートカット」
ウォズマイラは『梟の異端』に向けてきっぱりと告げる。
金属管の向こうからギリギリという歯軋り。
いや、嘴軋りの音が聞こえてくる。
「ダグボルトさん、済みませんがあなたの盾を貸して貰えますか?」
それだけで意図を瞬時に理解したダグボルトは、ヒーターシールドを十ギットの地点に投げつけた。
バスタードソードを床に突き立て再度の跳躍――今度はヒーターシールドの上に着地するウォズマイラ。
そして三度目の跳躍――弧を描いて宙を舞ったウォズマイラの身体は、ダグボルトの巨体にがっしりと受け止められる。
ダグボルトは受け止める瞬間に膝をつき、二人分の重みが床板に加える衝撃をうまく分散していた。
床板はギシギシと激しい音を立てるが、何とか持ちこたえた。
「これで十五ギットのショートカット。まだ羽根には一枚も触れていませんよ」
ダグボルトに抱きかかえられたウォズマイラが告げた。
「お見事と言う他、ありませんね」
『梟の異端』は渋々といった様子で賞賛の言葉を口にする。
「しかしここからが本番ですよ。ここから先、同じ手は使えません。どうなさるおつもりですか?」
三度目の跳躍の際、鞘の先が床板の隙間に深々と食い込んでしまったため、ウォズマイラのバスタードソードはその場に残されていた。
そのため、今までと同じように跳躍して進む手段は失われていたのだ。
だがウォズマイラの表情には余裕があった。
「ご心配なさらずとも、最初からここから先は、別の方法を使うつもりだったんですよ。もし剣が手元にあったとしても、着地する際に足場となる盾がもう無いですからね」
「……本当に大丈夫か、ウォズ?」
思わず小声で尋ねるダグボルト。
「ええ。問題ありません。これを見て下さい」
ウォズマイラは、ダグボルトの身体に貼り付いている羽根に指で触れる。
それはウォズマイラの指には付かずに、そのまま残っている。
「この通り、一度何かに付着した羽根は、別の物にはくっ付かないようです。これなら私の次の作戦も問題なく使えます」
ウォズマイラはそう言って微笑みを返すと、上着のポケットからマントの切れ端を一枚落とす。
すぐに切れ端に床の羽根が付着し、重みでその場に固定される。
ウォズマイラは、その上に爪先立ちで右足を乗せると、次の切れ端を少し先に落として、今度は左足を乗せる。
それを次々と繰り返す事によって、直接羽根を踏むことなく前に進んでいく。
一見簡単なように見えるが、小さな足場から足を踏み外さないように歩くには、かなりバランス感覚が無ければ難しい。
それでもウォズマイラは、危なげない動作でそれをこなしている。
恵まれた身体能力と日々の鍛錬の賜物だ。
二十五ギット地点――そこでついにマントの切れ端が尽きる。
するとウォズマイラは、背後のダグボルトに向けて、少し恥ずかしげにこう言った。
「……済みませんが、少しの間、目を閉じてて貰えませんか?」
「ん? ああ、分かった」
ダグボルトが右目を閉じたのを確認すると、ウォズマイラはゆっくりと上着を脱いだ。
小ぶりだが形の整った胸が露わになる。
ブーツの中から短刀を取り出し、上着を細かく切り裂くと、ウォズマイラはそれを足場にして再度前進する。上着の切れ端が尽きると、今度はズボンを脱いで再度切り裂く。
そうしてウォズマイラは少しずつ、だが着実に前進していった。
三十ギット地点を越え、三十五ギット地点へ。
ブーツ、靴下、ハンカチ、使える物は全て足場に代えていき、残されたパンツまでも躊躇う事無く脱ぐと、全裸になったウォズマイラは最後の足場に足を下ろした。
ヒカリゴケの明かりで白く美しい裸体が眩しく輝く。
三十七ギット地点――ついに青の扉まであと三ギットの所までやって来た。
クリアを目前にして、緊張と興奮でウォズマイラの胸が大きく高鳴る。
(長かったけど、ついに終わりが見えた。だけどまだ最後の一歩が残されてる。ここでのミスは絶対に許されない。ここをどう飛ぶか慎重に考えないと……)
青の扉の前にある、二ギット四方の正方形の足場への距離を慎重に測るウォズマイラ。
助走さえつけれられれば、一気に跳躍して扉の前までたどり着けるだろう。
だが今の狭い足場からの跳躍では、三ギットの距離はやや重い――。
(……やっぱり青の扉の前まで一気に飛ぶのはリスクが大き過ぎる。もし扉まで届かずに着地に失敗して転倒でもしたら、全てが水の泡になってしまう。ここは半分の距離だけ飛んで床に着地し、そこからの跳躍で青の扉まで行こう。あの羽根を一歩分踏むだけなら、跳躍に影響する程の重量の増加はないだろうし)
ついに心を決めたウォズマイラは、息を止めて力を溜める。
「いけええええええッ!!」
腹の底からの叫びと共に跳躍。
宙を舞ったウォズマイラは、中間地点にぴたりと着地する。
完璧な着地だ。
衝撃で僅かに舞い上がる羽根。
それが身体に貼り付くよりも早く、最後の跳躍を行う――はずだった。
――ズン。
急に両肩を上から強く押し付けられるような感覚。
全身にのしかかる想像以上の重さ。
膝を伸ばすが足が床から離れない。
(そんな馬鹿なッ!? 足の裏にほんの少し羽根がくっ付いただけなのに、この重さは一体!?)
バランスを崩したウォズマイラの身体が床にばったりと倒れ伏す。
白い裸体に羽根がべったりと貼り付き、完全に動きを封じられる。
重みで床板が大きく軋みを上げた。
「ホーホホホホホホホホゥ!!」
勝ち誇ったような笑い声が部屋中に響き渡る。
青い扉前の天井に隠されていた扉が開き、『梟の異端』が優雅な仕草で正方形の足場に降り立った。
ウォズマイラが、あと一歩のところで辿り着けなかった足場に――。
「ウォズ!!」
『梟の異端』の笑い声で目を開いたダグボルトは、青い扉のすぐ側に倒れている裸のウォズマイラを見て叫んだ。
悔し涙で濡れるウォズマイラのぼやけた視界に、勝ち誇る『梟の異端』の姿が映し出される。
「一体なぜです!? ほんの僅かの羽根で、あれ程の重量が加算されるなんておかしいですよ!!」
すると『梟の異端』は嘲るように嘴を歪め、ウォズマイラの問いにこう答える。
「ホゥホゥホゥ。そういえば大事な事を言い忘れてましたよ。その羽根は、青い扉に近づけば近づく程、加算される重さがどんどん増していくって事をね」
「貴様ああッ!! そんな重要なルールを後出しするなんてフェアじゃないぞ!! それならもう一度ゲームをやり直させろッ!!」
遠くにいるダグボルトが、激しい怒りで顔を真っ赤にして叫んだ。
だが『梟の異端』は涼しい顔をしている。
「それは出来ませんねえ。そもそもフェアかどうかなんて、私にはどうでもいい事なんですよ。要は勝てばいいんですよ、勝てば」
「それが『猛禽の女郎』のやり方なのか? それでよくゲームの達人などと言えたもんだな!!」
ダグボルトは吐き捨てるように言った。
それを聞いた『梟の異端』は僅かに目を細める。
「我がマスターには、マスターなりのお考えがお有りです。ですから、これはあくまでも私個人の考えですよ。あなた方はマスターに危害を加えかねない存在ですから、どんな手を使ってでも葬り去ってしまった方がいいと私は考えたのです」
「くッ……」
悔しげに唇を噛むダグボルトを見て、『梟の異端』はさらにこう続ける。
「……しかしあの『碧糸の織り手』と『紫炎の鍛え手』が、二人掛かりでも始末できなかったあなた方を、ただの『異端』に過ぎない私が倒してしまうのですから凄いと思いませんか? 要はここなんですよ、ここ」
そう言って『梟の異端』は、自分のこめかみを羽先でこつこつと叩いて見せる。
「己の力を過信した魔女達は、力に溺れて真っ向勝負であなた方を倒そうとした。ですがそれが、そもそもの間違いなんですよ。敵を破るに知恵を用いるは上策、力を用いるは下策。つまり――」
「お話の最中に済みませんが、ルールをひとつ確認してもいいですか?」
今まで沈黙していたウォズマイラが話に割り込んできた。
上機嫌で滔々と語っていた『梟の異端』は、話を遮られて不快な顔をする。
「今更ですか? まあ、いいでしょう。何です?」
「私達が動けなくなるまで隠れていたという事は、あなたを殺せばこの羽根の能力は失われると思うんですがどうです?」
『梟の異端』は一瞬、ギクリと身を震わせる。
そして先程まで悔し涙で充血していたウォズマイラの目が、今は激しい敵意に燃えているのに気付く。
『梟の異端』は慌てて警戒するように、きょろきょろと周囲を見渡した。
だがウォズマイラは、床に倒れたまま完全に身動きが取れない状態だし、ダグボルトがスレッジハンマーを投げつけてきたとしても簡単に投げ返せるだろう。恐れる必要など何もないのだ。
緊張を解いた『梟の異端』は再び嘴の端を歪めて、嘲笑うような表情になる。
「……確かにその通りです。ですが今のあなた方にそれが出来るのですか? 私を殺せる者など、もはやどこにも――」
不意に一筋の光が床板を貫いた。
『梟の異端』の身体がビクッと大きく痙攣する。
「なあああッ!?」
激しい痛みに驚いた顔をする『梟の異端』。
自らの身体を見ると、光のジャベリンが胸を貫通している。
高い身体能力を持ってはいても、さすがに床下からの予期せぬ一撃をかわす事は出来なかった。
「ま、まさかあの娘、生きていたのですか……? 船倉に落ちて一刻以上過ぎているのに……」
さらに三本のジャベリンが床板を突き破って『梟の異端』の身体を貫く。
その衝撃で吹き飛ばされた身体が天井に釘付けにされる。
ジャベリンを引き抜こうと、必死にもがく『異端』。
だが段々とその動きが鈍くなっていき、ついにはぴくりとも動かなくなった。
やがて羽根に覆われていた身体は、裸の人間の男の姿へと変わっていく。
『異端』は魔力によって怪物の姿に変生させられた人間であり、死によってのみ元の姿に戻るのだ。
ダグボルトとウォズマイラの身体に貼り付いていた羽根が剥がれ、二人は自由の身となった。
光のジャベリンが消滅し、男の死体がドサリと床に落ちる。
そして部屋の中央近くに空いた穴から、四枚の翼で羽ばたくアルーサが現れる。
白く輝くプレートメイルには海藻がべったりと貼り付き、海水がぽたぽたと滴り落ちている。
「あー、辛かったー」
アルーサはぶつぶつとぼやきながら二人の前に着地した。
フルフェイスヘルムが消え失せ、赤く上気した顔が現れる。
「お前……よく溺れなかったな……」
ダグボルトはやっとの思いでそれだけの言葉を絞り出す。
今もまだアルーサが生きているのが信じられない思いだった。
「ん? ああ、このプレートメイル一式って完全密封されてるから、中の空気が尽きない限りは大丈夫よ。でも真っ暗な水の中で動けないのって、すっごいストレス溜まったわ。翼の部分だけは一時的に装備を解除して、羽根が剥がれてから元に戻したんだけどさあ。プレートメイルにくっ付いた羽根はどうにもならなかったから、結局重くて飛べなかったのよね」
そう言うとアルーサは、濡れたプレートメイルを解除して普段の姿に戻る。
「……どうでもいいけど何でアンタ裸なの? そういう趣味なの?」
ウォズマイラを見て怪訝な顔をするアルーサ。
「そ、そんなわけないでしょう! ゲームに勝つために仕方なく脱いだんですよ!」
裸体を腕で隠したウォズマイラは顔を真っ赤にして反論する。
慌ててダグボルトが、自分の上着を彼女の裸体に被せた。
「ふーん。でもまあアンタ達も頑張ったみたいだけど、アイツに勝てたのってアタシのおかげよね。二人共、アタシに感謝しなさいよ」
「フン。水の中で動けなくて泣きべそかいてたくせに、よくぬけぬけとそんな事が言えますね。大体、床下にいたあなたのジャベリンが命中したのは、私がテレパシーであの『異端』の位置を教えたからじゃないですか。自分の力だけで勝ったみたいに言わないで下さいよ」
ウォズマイラは冷ややかな口調で言った。
だがそれを聞いてダグボルトは目を丸くする。
「テレパシー? じゃあお前、アルーサが生きてるって初めから知ってたのか?」
「えっ!? そ、それは……。アルーサが『敵を欺くにはまず味方から』なんて言ったものですから、仕方なく……」
そう言うとウォズマイラは気まずそうに俯いてしまう。
「はあ!? まさかアタシ一人を悪人にする気!? この腹黒女ッ!!」
「わ、私は腹黒なんかじゃありません!! あなたこそ私に罪を擦り付けないで下さい!!」
「うっさい!! アンタも同罪よ!!」
とうとう二人は言い争いを始めた。
するといきなりダグボルトが両腕で、二人を力強く抱きしめた。
そして左手でウォズマイラ、右手でアルーサの頭を優しく撫でる。
ダグボルトの右目が涙で潤んでいるのを見て二人は驚く。
「もういい。もういいんだ……。お前達二人がこうして生きているだけで、俺は十分だ」
「ダグボルトさん……」
ダグボルトは左手でごしごしと涙を拭う。
そして二人を離すと立ち上がった。
「済まん。年をとると涙腺が緩くなってな。だがもう大丈夫だ。さあ、先に進もう」
ダグボルトとウォズマイラは、脱ぎ捨てたプレートメイルを再度身に着けた。
アルーサが青い扉を開くと、通路の暗闇から微かに人の賑わう声が聞こえてきた。
どうやらこの旅の終わりは近いようだ。
三人は顔を見合わせて頷くと、通路の奥深く、『猛禽の女郎』の領域へと一斉に踏み込んでいった。
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