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追憶の断章(その二)
――聖霜暦七百五十三年 白木蓮の月(三月) 十二日 (『黒の災禍』の約二年前)
モラヴィア大陸を南北に分かつ赤竜砂漠の南部には、独立都市が点在するシュベレク回廊が広がっている。
その回廊の東側を縦断する霊峰ルヴァーナと、霊峰を東に抱くように聳え建つ聖堂都市(ジグラット)。二つを合わせて聖天教会の聖地、レウム・ア・ルヴァーナと呼ばれている
聖堂都市は中心部に行くほど高度が高くなる、なだらかなピラミッド型に設計されており、最頂部に巨大な大聖堂(カテドラル)があった。
六つの美しい尖塔と華美なステンドグラス、繊細な造りの彫像と装飾で飾られた絢爛たる屋根と外壁。建築されてから百年以上経っているが、隅々まで手入れが行き届いているらしく、まるで古さを感じさせない。
まさに人工美の粋を集めた産物だ。
そしてレウム・ア・ルヴァーナを守る聖地防衛隊の拠点は、大聖堂の地下にあった。
そこは上階とはうってかわって、飾り気の無いシンプルな造りとなっていた。
明かりは、天井から等間隔に吊るされた小さなランプだけのため薄暗い。
最奥部にある執務室のデスクには、赤ら顔で酒焼けした肌の五十歳くらいの男がいた。
頭髪も瞳も黒。きれいに整えた口髭や顎髭とは対照的に頭髪はかなり寂しく、頭頂部は完全に禿げあがっている。おまけにでっぷりと太っただらしない体型だ。
この一見冴えない風采の男こそが、聖堂騎士団の現総長にして、聖地防衛隊の司令官でもあるワレンツ・ルッターダントであった。
ワレンツは顎髭を捻りながら、デスクの上に置かれた一通の書状を、しかつめらしい顔をして睨み付けていた。
そこに書類の束を抱えた副長のオッソリオ・ベルチが入ってきた。
こちらは四十台前半。砂色の髪の目立たない男だが、顔立ちは整っていてハンサムな部類に入るだろう。
ワレンツは鎧を脱いだ寛いだ服装だが、オッソリオはプレートメイル(金属製の全身鎧)の上に、聖地防衛隊の制服である聖印の刺繍が施された白いサーコート(軍用外套)を羽織っていた。
「気難しい顔をしてどうされたんですか、閣下?」
オッソリオは、書類をデスクの上に置きながら尋ねる。
するとワレンツは、何も言わずに睨み付けていた書状を差し出した。
「クレメンダール教皇からの召喚状ですね」
書状を一瞥したオッソリオは呟く。
「うむ。何でも儂に、聖堂騎士団の収益金を着服した疑いが掛かっているらしい。だから教皇庁の宗教裁判所で行われる弾劾裁判に、被告人として出廷しろとさ」
「そんな無茶苦茶な! クレメンダール側に何か証拠はあるんですか?」
ワレンツは、今度はデスクの引き出しから分厚い帳簿を取り出した。
それをオッソリオの方に向けると、ぺらぺらと捲り出した。
「こいつは、その召喚状と一緒に送りつけられた、昨年度の収支会計記録だ。赤線の引かれている数字が、不正な改竄が見られた箇所らしい」
「成程……。だとすると部下の誰かが不正を働いて、閣下に罪を擦り付けようとしているとしか……」
しかし深刻そうな顔をしているオッソリオとは対照的に、ワレンツは冷めた顔をしていた。
「いや、そうではない。はっきり言ってしまえば、こいつは偽物なのだ」
「偽物? なぜ分かるのです?」
するとワレンツは引き出しから、もう一つ分厚い帳簿を取り出して、デスクの上にドンと置いた。
青い革の背表紙も、中の紙質も先程の物とよく似ている。
「この大聖堂には、貴重な古い書物が数多く保管されている。だが、ここは名無き氏族(ネームレス)との戦いの激戦区だ。戦いのさなかに、書物が散逸する可能性もゼロではない。だから貴重な書物は写本を作っておいて、一般の書庫には、そちらの方を置いておるのだ」
「では原本はどこに?」
「聖堂騎士団の総長である儂と、大聖堂を統括する聖天教会のザムレ大司教しか存在を知らない、秘密の地下金庫に厳重に保管されておる。そして金庫を開けるには二つの鍵が必要なのだ」
ワレンツは胸元から鎖に繋がれた銀の鍵を取り出した。
「もう一つはザムレ大司教が持っておる。二つの鍵を、同時に横に回して開ける仕掛けになっているから、金庫は誰かが単独で簡単に開けられるようなものではない。ここまではいいな?」
「はい」
「そして実は、収支会計記録も写本を作っておったのだ。今回のように、何者かによって改竄されてしまう危険性を考慮してな。一般書庫にはそちらを保管していたわけだ。第三者であるザムレ大司教にも確認して貰ったが、この原本と写本を見比べてみれば違いは一目瞭然だろう」
ワレンツは二つの帳簿を捲り、同じページを見せた。
確かに写本では赤線を引かれた数字は、原本のものとは大きく異なっている。
「原本の存在を知っている儂が、写本だけ改竄するはずがない。つまり、こいつは誰かが写本をすり替えて仕組んだ罠というわけだ」
「それならザムレ大司教に、証人として一筆したためて貰ってから、弾劾裁判にこれを持っていけば閣下の無実は証明されますね。いや、それどころか、偽の証拠に踊らされたクレメンダールを逆に弾劾する事も可能になります!」
オッソリオの顔は、珍しく興奮で赤く上気していた。しかしワレンツは、まあまあと抑える。
「確かにお前さんの言う通りだが、どうにも気にならんか?」
「何がですか?」
「バーティスだよ。ヴィクター・クレメンダールの背後には、常に奴がいる事を忘れてはならんぞ」
――聖天教会 枢機卿団総帥 バーティス・ブラックタワー。
聖天教会の最大派閥にして、腐敗の象徴とも言える『世俗派』のリーダーであり、また幾多の政敵を葬り去ってきた恐るべき陰謀の首魁である。
「ヴィクターに謀略の才は無い。だとすると、こいつを作ったのはバーティスという事になる。だがあのような狡猾な男が、こんな見え見えな偽の証拠をでっち上げるもんかねえ」
そう言うとワレンツは、またも顎髭を捻りながら召喚状を睨み付けた。
するとオッソリオが遠慮がちに口を開く。
「バーティスとクレメンダールは、一枚岩というわけではありません。教会を牛耳っているバーティスが、少数派閥『断罪派』のリーダーである、クレメンダールをあえて教皇に推したのは、腐敗した教会を改革しているように外部に見せ掛けるためだけのはずです。しかし今のクレメンダールは、制御の効かない暴走状態にあるように見えます。ですからバーティスは、閣下を利用して、クレメンダールの力を削ごうとしているのかも知れません」
「うむ。お前さんの言う事にも一理ある。だがお前さんは、大事な登場人物を一人忘れておるぞ」
一瞬考え込んだオッソリオは、こう答える。
「マデリーン・グリッソム」
その名前を聞いたワレンツは、重々しく頷いた。
「そうだ。ヴィクターの懐刀である、あの女の存在は、バーティスからすれば大きな誤算だったはずだ。理想主義者のヴィクターだけなら、バーティスの力で容易く制御出来たはずだからな。しかし現実主義者のマデリーンがいれば話は別だ。審問騎士団設立にしても、バーティスからすれば本意では無かっただろう。教皇直属の軍事機関など、奴にとっても危険極まりない代物だからな。そういう女だから、お前が言うようなバーティスの策略など、そのままではすぐに見抜いてしまうだろう。だからそうならないよう、バーティスは、この罠にさらに大きな一手を付け加えるはずだ」
「大きな一手? それは一体?」
するとワレンツは顎髭を掻き毟り、苦悩に満ちた顔をする。
そしてしばらく躊躇った後、意を決してこう言った。
「弾劾裁判などはただの口実で、実際は教皇庁までの道中で、この儂を殺すための罠。そう言う形にして、ヴィクターを説得して召喚状を書かせる。少なくとも、儂が奴ならそうする。それならマデリーンも、納得せざるを得ないだろうしな」
絶句するオッソリオ。
一方、ワレンツは一息つくと説明を続ける。
「バーティスが真に狡猾な点は、暗殺が成功しようが、失敗しようが、どちらでもいいという事だ。成功すれば、政敵の儂を排除出来る一方で、失敗しても、ヴィクターの発言力を弱体化させられるのだからな。いかにも、あの男らしい小憎らしい策略だ」
「そうなるとマデリーンはどう動くでしょう?」
オッソリオは、やっとの思いでそう尋ねる。
「マデリーンからすれば、暗殺が絶対に成功してもらわにゃ困るだろうな。だから、自ら暗殺部隊の指揮を執るだろう。あの女は相当な切れ者だ。単に儂を殺すだけではなく、うまく事故に見せかけようとするはずだ」
「では、この召喚には応じないのが一番という事になりますね」
しかしワレンツは、その言葉に目を細める。
「…………いや。それでも儂は、あえてこの罠に食いついてやるつもりだ」
「閣下!?」
反論しようとするオッソリオを、ワレンツは手で制した。
「何も言わんでも、お前さんが言いたい事は良く分かる。だがこいつは、儂にとってあまりにも魅力的過ぎる罠なのだ。あのヴィクターに、面と向かって一矢報いる事の出来る、最大のチャンスなのだからな。それに弾劾裁判に欠席すれば、あいつは儂を破門するだろう。そうなってしまっては、死に体になったも同然だ」
重苦しい沈黙が執務室を支配する。
天井から吊るされたランプの明かりで、仄かに照らされたワレンツの顔には、深い翳りがあった。
様々な思惑と、策謀が渦巻く状況の中で、正解の選択肢を選ぶのは、彼のような老獪な人間にとっても、至難とも言える技なのだ。
しかもワレンツは、あえて茨の道を歩もうとしていた。
死中に活を見出すかのように――。
「とは言っても、なかなかに危険な賭けだ。だから教皇庁に辿り着けなかった時の事も考えておきたい」
ワレンツは静かな口調でそう言うと、急に声を潜めた。
「……まずお前には、儂よりも先にここを発って貰う。そしてオシモドゥス王国に駐留している、聖堂騎士団北部方面軍を率いるギャレッド・ノルンに会って欲しいのだ」
「目的は?」
「もし儂が暗殺に倒れる事があったら、部隊を率いて教皇庁を占拠する事。そして枢機卿全員を投獄し、ヴィクターに退位を迫るようにと伝えて欲しい」
その瞬間、オッソリオの背筋にぞくぞくと冷たいものが走る。
軍事的手段による教会転覆。
それはあまりにも背徳的で、危険な賭けである。
だがそれが酔狂ではなく、本気の考えである事は、ワレンツの目を見れば明らかであった。
「奴との関係は、決して良好とは言えんが、ヴィクターを危険視している点に関しては儂と同じだ。もちろん普段なら、さすがにこんな無茶な頼みは絶対に受け入れんだろう。だが儂が暗殺されたとなれば話は別だ。儂の突然の死=暗殺だと先に伝えておけば、たとえ事故に見せかけられていても、そんな事は関係ない。それは聖天教会から聖堂騎士団への、事実上の宣戦布告なのだ。ならば反撃するのは当然の権利ではないか」
ワレンツの口調は、いつになく熱を帯びている。
名無き氏族(ネームレス)との戦闘の時と同じか、あるいはそれ以上に――。
「では閣下は、自らの死までも利用して、クレメンダール達を打倒する気なのですね」
オッソリオの眼は潤み、唇は震えている。完全に心を打たれたような顔だ。
するとワレンツは、急に照れたような顔をして、口元に笑みを浮かべた。
「いやいや。儂は別に死ぬつもりなどないぞ。もっともっと長く生きて、うまいものをたらふく食って、ベッドの上で大往生したいからな。だが万が一という事もある。儂だけがくたばって、ヴィクターとバーティスが高笑いするような未来だけは、絶対に避けたいのだ」
「かしこまりました。閣下のためにも、一命を尽くし任務に当たります」
踵をそろえ敬礼するオッソリオ。
ワレンツも直ちに敬礼を返す。
部下と上司という関係を越えた、幾多の死闘をくぐり抜けてきた仲間としての思い。
ワレンツには、それがひしひしと感じられた。
「……ところで先程の計画には、詰めておかなければならない箇所が、幾つかある様に思えるのですが」
敬礼を終えたオッソリオは、話を続ける。
「うむ。言ってみるがいい」
「まず第一に、教皇庁はレオルム山脈の中腹にあって、曲がりくねった細い山道を登らねば辿り着けません。軍勢を送り込むには不向きな場所ですし、教皇庁からは麓から来る兵士が丸見えですから、行軍途中で山道を封鎖されてしまう可能性が高いと思われます。そうなると教皇庁までたどり着くのは困難となるでしょう」
「ああ、その事か。それに関しては別に問題は無い」
ワレンツは拍子抜けとばかりに、あっさりと答えた。
「実はレオルム山脈の麓には、教皇庁の大聖堂に通じる秘密のトンネルが掘られていてな。大司教共はそれを使って、馬車で悠々と教皇庁との間を行き来しているのだ。だから儂らも、そいつを利用させて貰う。トンネルは山道より遥かに道幅が広いから、軍勢を送り込むには絶好の場所だ。何ヶ所かに検問はあるが、兵の数は少ないから、さして問題は無い。教皇庁に配備されている聖堂騎士は、ヴィクター達を守ろうとするだろうが、事情を説明すれば、きっと戦わずに通してくれるだろう。それ以上の詳しい計画については、お前さんが出発する時までに、暗号で書いた手紙にしたためておくから、それをギャレッドに渡せばいい」
そして一呼吸おいて、こう付け加える。
「……それと、流血の惨事は出来るだけ避けて貰いたいが、バーティスだけは見つけ次第、その場で殺すようにとギャレッドに伝えておいてくれ。あの男は、聖天教会のみならず、我らが祖国イスラファーンをも食い荒らす害獣だ。絶対に生かしておいてはならん。分かったな?」
ワレンツの目は充血し、表情には激しい憎悪の色があった。いつも飄々としている彼には珍しい事だ。
オッソリオも、引き込まれるように深く頷いた。
「かしこまりました。必ずそう伝え
ます。では、その件はそれで解決済みとして、もうひとつ気になる事があります。クレメンダールを退位させ、枢機卿達を投獄する事が出来たとしても、教会は大混乱に陥るでしょう。その時に、一体誰を新たな教会の指導者に迎え入れるおつもりなのですか?」
ワレンツは、一瞬考え込むような顔をする。
そして、やや躊躇うように口を開いた。
「その点に関しては、セオドラ殿をおいて他にはおるまい。何と言っても聖女様なのだからな」
驚いたオッソリオは、思わず机の上の書類を手で払ってしまう。
吹雪のように舞い散る紙の中で、苦渋の表情を浮かべるワレンツと目が合った。
深い苦悩を湛えた黒い瞳と――。
「ではシスター・セオドラも、閣下の計画に加わっているのですか?」
「いや、そうではない。セオドラ殿はあくまでも話し合いで、ヴィクターに魔女狩りを止めさせようとしておる。しかし、もし教会の運営に重大な障害が発生した場合、しばらく教皇代理を務めてくれるよう、儂は説得に説得を重ねてようやく了承して貰ったのだ」
「そうだったのですか……。確かにシスター・セオドラが、しばらく教会の指導者の役割を果たしてくれるなら、我々としても大変心強いですね。評判を聞く限り、公正で良識のある人物のようですから。ですが彼女が、本当に聖女であるか疑う者も数多くいます。ペテン師ではなく、本物の聖女であると証明されなければ、教皇の代わりに据えるのは難しいと思います。今のままでは、何の要職にも就いていない、一介のシスターに過ぎませんから。それとも何か、彼女が教会の指導者になれる、根拠のような物があるのでしょうか?」
すると、またしてもワレンツは考え込むような顔をする。
大事な事を言うべきか、言わざるべきか迷っているような顔だ。
そしてさんざん迷った後、ようやく口を開いた。
「セオドラ殿は、聖天教会の創設者である、サー・オーギュント・ペイモーンの姪だ。それが十分に根拠と成り得るだろう」
衝撃の余り、オッソリオは陸に上がった魚のように、ぱくぱくと口を動かしていた。
だが、いくら口を動かしても言葉が出てこない。
そこでワレンツは、さらに言葉を続ける。
「聖天教会の創設は、今から百五十二年前。つまりセオドラ殿は、その時代の人間という事になる。だが聞いた話では、外見はずっと十七のままだという。ただの人間ならば絶対に有り得ぬことだ。これで彼女が、教会の指導者に相応しい事がよく分かったはずだ」
「し、しかし私は教会の史録で、シスター・セオドラの名を目にした事など一度もありません。おそらく他の者も同じでしょう。それで本当にサー・ペイモーンの姪であると証明出来るのですか……?」
オッソリオは、やっとの思いで喉から言葉を絞り出した。
ワレンツはニヤリと笑い、またもデスクから一冊の厚い書物を取り出した。
今度のものはかなり古く、革の背表紙は大分色褪せ、無数のひびが入っている。
「さっきも話したが、この大聖堂の地下金庫には、古い書物の原本が多数眠っている。これはその一冊、聖天教会設立元年の聖職者名簿の原本だ」
ワレンツは最初のページを示して見せた。そこには二つのサインが書かれていた。
一つ目は、力強く大胆な筆跡。
そして二つ目は、繊細な筆跡で――。
――聖天教会 設立者 オーギュント・ペイモーン
――聖天教会 共同設立者 セオドラ・エルロンデ
「セオドラ殿と儂が、手紙をやり取りしていたのは知ってるだろうが、その手紙のサインと、そこのサインは完全に一致した。間違いなく同一人物のものだ」
「では聖天教会は、サー・ペイモーン一人の手で生み出されたものではなかったのですね!」
オッソリオは、いつもの冷静さを完全に失っていた。
思いがけない真実を知った驚きと、恐怖で顔が青ざめている。
「いや、セオドラ殿の話によると、実際は名義貸しのようなものらしい。教会設立当時は、まだ子供だったからな。だから聖天教会を創ったのは、実質的にサー・ペイモーンで間違いない。しかし設立初期の頃は、幼いながらも、色々と仕事を手伝っていたそうだ」
「それ程の貢献をしたのなら、なぜ彼女の名前は、教会の史録に全く載ってないのでしょう?」
「載ってないのではない。消されたのだ。後にセオドラ殿は、サー・ペイモーンと仲違いして教会を離れた。その時に、彼女に関する記録は全て抹消された。こいつを除いてはな」
そう言って、ワレンツは聖職者名簿をポンと叩いた。
「仲違いですか……。一体、二人の間に何があったのでしょう? もし差し支えなければお教え願いたいのですが」
オッソリオの目が、好奇心で子供のようにきらきらと輝いているのを見て、ワレンツは思わず苦笑する。
座っていた椅子に深々と座り直すと、重みでギシッと大きく鳴る。
そしてワレンツは、ゆっくりと口を開いた。
「二人の仲違いの理由は、実はこのレウム・ア・ルヴァーナにあるのだ」
「この聖地が理由……?」
「サー・ペイモーンが聖天教会を設立した当初、信者の数は伸び悩んでおった。女神ミュレイアを信奉する他の教団が腐敗に塗れていたため、それを批判する意味もあって設立したのだが、現実はそう甘くは無かったわけだ。セオドラ殿は、それでもいいと言っていたようだが、サー・ペイモーンは納得しなかった。そこでアシュタラ大公国と手を結んで、名無き氏族(ネームレス)の手から聖地ルヴァーナ山を奪取し、それを利用して信者を増やそうとしたのだ。そしてアシュタラ大公国側も、本当は聖地が欲しかったわけではなく、聖地周辺の空白地帯(現在のシュベレク回廊)を、丸ごと自国領に組み込むのが真の目的だったのだ。それが分かっていたから、他の国は、どこもアシュタラ大公国と組もうとはせんかったわけだ」
「聖地奪取という崇高な目的の裏側では、どちらも貪欲に利益を求めていたわけですね。歴史の真実というものは、得てしてそういうものなのかも知れませんが」
オッソリオは、深いため息と共に呟いた。
ワレンツも、神妙な顔つきで頷いてみせる。
「うむ、そうだな。そしてそういう事情があったために、セオドラ殿は聖地奪取計画に猛反対した。己の利益のために、名無き氏族(ネームレス)を住処から追い出すなど、女神の意志に反する鬼畜の所業だとな。しかしサー・ペイモーンだけでなく、他の教会幹部も、逆に彼女を責めた。綺麗事だけでは、信者獲得などとても叶わぬとな。それで耐え切れなくなった彼女は、ついに教会を出て行ってしまったのだ。その後、彼女は女神ミュレイアの啓示を受けて聖女となり、善なる者を導くために世界各地を放浪するようになったそうだ。それから長い時を経て、再び教会に戻って来た時には、サー・ペイモーンも他の教会幹部もすでに亡くなっていた。だから今まで、誰も彼女の正体を知らなかったのだ。……だが因果とは不思議なものだとは思わんか? セオドラ殿が忌み嫌った、このレウム・ア・ルヴァーナに、あの方に関する唯一の記録が現存していたのだからな」
「そうですね。これが運命の悪戯というものなのでしょうか……」
話が終わると、執務室に静寂が訪れる。
二人の心には、それぞれ去来するものがあった。
グラスの底に溜まる澱のように、心に纏わりつく何かが。
だが、それが何なのかまでは、互いに知る由はなかった。
**********
ワレンツから指令を受けたオッソリオは、直ちに出発の準備に取り掛かった。
モラヴィア大陸北東部にあるオシモドゥス王国までは、赤竜砂漠を越える長旅となるため、水と食料、さらにはラクダを調達するのも忘れない。
そして抱えていた仕事を部下に預け、二日で全ての準備を完了させた。
出発の前夜、急にワレンツの執務室に呼び出されたオッソリオは、部屋の惨状を見て目を丸くする。
書類棚やデスクにあった様々な書類が、床に乱雑に置かれ、足の踏み場もない状態であった。
しかも普段は、ほとんど使われていない暖炉に火がつけられ、いつになく蒸し暑い。
「これは一体どういう状況ですか?」
すると床に積み上げられた書類の山の間から、ワレンツの禿げ散らかした頭がひょっこりと現れる。
額にはびっしょりと汗をかいていて、目の下には濃い隈が出来ていた。
「万一、儂の身に何かあった時のために、ここを発つ前に機密書類を全て破棄しておこうと思ってな。お前にも手伝って貰おうと思って、ここに呼んだのだ」
くたびれたようなワレンツの声。
それを聞いたオッソリオの胸に、ずっしりと重い感覚がのしかかる。
(では閣下は、本気で死を覚悟してらっしゃるのだな……)
「儂が処分する書類を選んで渡すから、お前さんはそれを火にくべてくれ」
「はっ」
それから二人は無言で作業に当たった。
オッソリオは手渡された紙束を暖炉の炎に投げ込み、焼け残りが無いように、火かき棒でまんべんなく灰をかき混ぜる。
それを延々と繰り返すうちに、いつしか全身は汗でぐっしょりと濡れていた。
流れるように作業が進む中、ワレンツは紐で巻かれた手紙の束を手渡した。
だが、それを火にくべようとしたオッソリオは、差出人の名を見て一瞬硬直する。
――セオドラ・エルロンデより。
横目でちらっとワレンツを見ると、ちょうど背を向けて、書類の束と格闘しているところであった。
オッソリオは意を決し、手紙の束を腰のベルトに、ぐいと強引に挟み込んだ。
熱さのために外していた上着のボタンを嵌めて、ベルトが隠れるようにする。
そして代わりに、近くの書類を火に投げ込んで、火かき棒で暖炉の中を掻きまわす――幸いにして、ワレンツが気付く事はなかった。
作業が終わるころには、すでに夜は明けかけていた。
廊下を歩くオッソリオは、何度も腫れぼったい目を瞬かせる。
自室に戻ってくると、扉に鍵を掛け、ベルトに挟んだ手紙の束を取り出した。
そのうちのいくつかに目を通した彼は、意外そうな顔をする。
そこには近況報告のような、他愛のない内容が綴られているだけであった。
しかしよく見ると、文法や語句の組み合わせに、いくつも不自然な点があった。
筆まめなセオドラらしからぬミスだ。
(……これは近況報告に見せかけた、暗号文なのかもしれないな。だが、そうだとしても、私が知らない種類のものだ。たぶん二人の間でだけ、通じるものなんだろう)
しばらく自力で解読を試みたものの、結局分からず、オッソリオは手紙をテーブルに投げ出した。
(もういい。後はあの方に任せよう。あの方のところには、暗号解読の専門家がいるはずだからな)
そう結論付けると、オッソリオは手紙の束を紐で纏め、自分の荷物が入った旅行鞄の二重底の裏側に隠した。
そしてベッドに寝転んで、出発までしばし仮眠を取ろうとする。
だが目が冴えてしまって、なかなか眠る事が出来ない――。
実のところ、オッソリオはバーティスのスパイであった。
それもワレンツと共に、イスラファーン王国の近衛騎士を務めていた頃からだ。
その頃からずっと、何も知らない彼を裏切り続けてきたのだ。
そしてバーティスを通じて、聖地の地下構造などの重要機密は、審問騎士団の団長であるマデリーンにも流されていた。
勿論、二年前に発覚した、北エリア部隊長ヌティエ・ストレイキンの悍ましい犯罪行為も、オッソリオは以前から、ずっと把握していた。
だがワレンツには、あえて必要な情報を渡さず、握り潰していたのだ。
そうやって彼は、用心深いワレンツに気付かれぬように、巧みに聖地防衛隊を内部から腐らせ、弱体化させてきたのである。
しかし今回の仕事は、今までとは比較にならないくらい、オッソリオにとって厳しい試練であった。
なぜなら暗殺が成功しても、失敗しても、ワレンツの破滅は避けられないからだ。
「閣下、どうかお許しを……」
ベッドの中で、オッソリオはぽつりと呟く。
彼のワレンツへの忠誠心は、決して演技などではなく、まごうことなき真実のものであった。
もしワレンツより先に、バーティスと出会ってさえいなければ、彼は何の支障もなく、ワレンツの方に忠義を尽くした事であろう。
しかし今は、バーティスへの忠義の方が、ワレンツへのそれよりも大きかった。
だから彼は、ギャレッドのいるオシモドゥス王国に向かうつもりなど全くなかった。
真っ直ぐに教皇庁へと――バーティスに全てを報告するつもりであった。
しかも彼の上着の裏地には、ギャレッドに決起を促す手紙が縫い込まれている。
それを見せれば、ワレンツの叛意は明らかであり、どう転んでも助かる道など無いのだ。
そしてセオドラの手紙。
解読された内容によっては、彼女も破滅するかも知れない。
あの手紙を見つけてさえいなければ、とオッソリオは今更ながらに悔いていた。
だが見つけてしまった以上、報告せざるを得ない。
バーティスの慧眼を前にして、何かを隠すなど、とうてい不可能なのだから。
仰向けに寝そべるオッソリオは、どんよりと濁った瞳を閉ざし、祈る様な仕草でこう呟いた。
――聖天の女神よ、どうかお許しを……。
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