追憶の断章(その三)

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追憶の断章(その三)

――聖霜暦七百五十三年 白木蓮の月(三月) 十七日  全ての準備を整えたワレンツは、護衛として、聖地防衛隊の中でも選りすぐりの百名を引き連れて、払暁のうちに大聖堂を後にした。  オッソリオは二日前にすでに出立し、密かにギャレッドの元に向かっているはずであった。  朝靄に包まれた北門で門兵達に挨拶し、外に出ようとしたところで、ワレンツはいきなり黒髪の男に声を掛けられた。 「ずいぶん早い時間に出掛けるんですね、おやっさん」  男は鍛え上げられた浅黒い身体に、聖地防衛隊の制服を着用していた。  顔立ちは整っているが、口元には冗談めいた笑みを浮かべていて、どこかだらしない印象を与えている。  ワレンツは馬上から男に言葉を返す。 「見送りはいらんと言っておいたはずだぞ、サラード」  サラード・ジェノアは、二年前に名無き氏族(ネームレス)が大規模な侵攻を行ってきた際、聖地を守るのに多大な貢献を果たした五人の英雄の一人であった。  その戦いで南エリアの部隊長であるハイデマンと、彼を救出しようとした副隊長が命を落としたため、現在はサラードが南エリアの部隊長を務めていた。  当時二十七歳の若さであった事を考えると異例の出世ではあるが、年上の隊員からも特に不満の声は上がらなった。  指揮能力の高さと人付き合いの良さで、以前から皆に慕われていたからだ。 「いやいや、見送りじゃありませんよ。教皇庁の近くのオシモドゥス王国じゃ赤ワインが特産品らしいんで、お土産をお願いしたかったんです。あー、それと若くて美しい女性騎士も何人か連れ帰ってくれませんか? ここの部隊は男臭くて華が無いんですよねえ、華が」 「こいつめ!」  ワレンツは非難がましい目を向けたが、すぐに表情を緩めて微笑んだ。  サラードは人の心を掴むのがうまい。  緊張していた場の空気が、一瞬にして和やかなものになった。 「それじゃあ元気で、おやっさん。帰ってくるまでの間、ここの守りは任せといてください」 「ああ、頼む。儂の不在の間、モーンケを支えてやってくれ」  モーンケは西エリアの部隊長で、聖地防衛隊でも古参の隊員であった。  今は副長のオッソリオも不在のため、ワレンツがいない間はモーンケが総長代理を務める事になっていた。 「了解しました。お土産忘れないでくださいよ」  サラードは口元を引き締めると、今度はピシッと直立不動になって敬礼した。  ワレンツが敬礼を返すと、サラードは口笛を吹きながら部署に戻っていった。 (良き部下に囲まれて儂は幸せ者だ。あいつらのためにも、まだまだ死ぬわけにはいかんな)  ワレンツは物思いにふける様に顎髭を弄る。  聖職者は妻帯禁止なため、ワレンツに子供はいなかったが、今は部下の一人一人が自分の息子のようなものであった。だから部下に慕われている事が嬉しかった。  我に返ったワレンツは、周囲の部下達に合図すると、馬の脇腹に軽く蹴りを入れた。  再び集団がゆっくりと動き出す。  そして彼らはレウム・ア・ルヴァーナを離れ、一路北へと向かったのであった。  一行は点在するオアシスを経由しつつ、四日かけて赤竜砂漠を越えた。  その後は街道を進み、ひたすらに北を目指す。  その間、一行は十分に用心を重ねていた。道中では斥候を送って進路の安全を確認してから前進し、旅籠に泊まる時も、毒が盛られていないと分かるまでは、提供された水や食料を決して口にしない。  そうやって慎重に慎重を重ねて、暗殺の危機を乗り越えていったのである。  しかしラトルシア王国西部にある、アドン山脈の険しい山道を進み、ようやく峠にさしかかった時に問題が発生した。  無数の巨大な落石によって、山道が完全に塞がれていたのだ。  道の片側は切り立った高い崖で、もう片側は急な登り斜面。  迂回するのはとても不可能であった。  峠では二十名程の人夫が、落石を崖下に落として山道を通行可能にする作業を行っていた。  しかし岩が大きく、作業は難航しているようであった。  人夫のリーダー格らしき浅黒い肌の中年の男が、聖堂騎士達に気付いて声を掛けてきた。 「ツイてなかったな。見ての通り、ここは通れねえぜ」  男はぶっきら棒にそれだけ言うと作業に戻ろうとする。  先頭にいた聖堂騎士は慌てて男を引き留めた。 「待ってくれ。ここが通れるようになるには、どのくらいかかりそうなんだ?」 「さあな。最低でも一週間。へたすりゃ二週間以上かかるかもな」  驚いた聖堂騎士は困り顔でワレンツの方を見た。  二人の話を聞いていたワレンツは、考え込むような顔をして顎髭を弄っていた。  そして重苦しい空気が流れる中、ゆっくりと口を開く。 「……ひとつ確かなのは、ここでのんびり待っていては裁判の日に間に合わなくなるという事だ。となると今すぐにでもこの山を下りて、多少遠回りでも何とか期日までに教皇庁に辿り着けるルートを探すしかあるまい」  ワレンツの決定に従い、聖堂騎士達は馬首を巡らせて、今来た道を引き返そうとした。  だがその時、作業をしていた人夫の中から、帽子をかぶった赤毛でそばかす顔の少年が進み出てきた。 「それならいい道があるよ」  聖堂騎士達の動きがぴたりと止まった。  ワレンツが視線を送って先を促すと、少年は再び口を開いた。 「山を降りたら、まず麓の森を東に抜けるんだ。半日くらい進むと窪地に出るから、そこを真っ直ぐ北に進む。そっからさらに一日くらいで東西に延びる街道に出るから、西に進めばこの山道の出口辺りに着けるよ」  ワレンツはすぐに、近くの聖堂騎士に地図と木炭を持ってこさせた。そして少年に頼んで、先程教わった道を地図に書き記して貰った。 「ついでに案内も頼めないかな? 礼なら十分にするぞ」  地図を受け取ったワレンツは、少年に金貨の入った袋を見せて提案した。  しかし少年は、困ったような表情でリーダー格の男を見た。  男はすぐに首を横に振る。 「駄目だ、駄目だ! 今はここの復旧が最優先なんだ! 余計な事をしてたら領主に怒られちまうぜ」 「ならばその領主とやらには、儂が後で話をつけておこう。もちろん案内は他の者でも構わんぞ。だから頼む。誰か志願してくれる者はおらんか?」  ワレンツは金貨の入った袋を掲げ、期待を込めた目で周囲を見渡した。  だが人夫達は袋をちらっと見ただけで、すぐに作業に戻ってしまう。  こうなるとさすがにワレンツも諦めかけたが、リーダー格の男が軽いため息と共にこう提案してきた。 「だったら森までの案内をつけてやる。そこから先はあんたらだけで行け」  男としては、それが最大限の譲歩のようであった。  仕方なくワレンツもその提案を受け入れる。  男が声を掛けると、人夫の一人が森までの案内を買って出た。  十代後半くらいの、まだニキビの残る青年であった。  聖堂騎士達は、青年に導かれて山を下り始める。  彼らの姿は、峠からは豆粒のように小さくなり、やがて完全に見えなくなった。    ********** 「うまくいったね」  聖堂騎士達が立ち去ると、赤毛の少年が呟いた。  いや、一見すると少年のようであったが、実は長い髪を帽子に纏めて隠した少女であった。  審問騎士団の団長、マデリーン・グリッソムの副官を務めているカレナである。 「フン、そりゃよかったな」  浅黒い肌の男が不機嫌そうに鼻を鳴らす。  こちらは審問騎士のレンビナス。  他の人夫達もそれぞれ変装した審問騎士であった。  全てはワレンツ一行を罠に嵌めるための策略だったのである。 「けど何でこんなくだらねえ芝居をする必要があったんだ? ここで奴らをブチ殺せば済む話だったろ」  レンビナスは足元の石を蹴りつけて苛立たしげに言った。  八つ当たりを恐れて、他の団員は離れたが、カレナだけはまったく気にしていない様子であった。 「それじゃ意味無いんだってば。事故に見せかけなきゃいけないんだから」 「ああ、そうかよ。けど俺はこういう仕事は大嫌いなんだよ。一滴の血も流れねえような、クソ退屈な仕事がな。こんなのは、ダグにでもやらせりゃいいのによ」 「ダグはあいつらに顔が割れてるから無理だよ。それに団長は、ダグに昔の仲間を始末させるような仕事をやらせたくなかったんじゃないかな」  それを聞いたレンビナスは、呆れたように肩をすくめた。 「そいつは何ともお優しい事で。団長はあいつを、くださいちょいとばかし甘やかし過ぎだと思うがな」  聖堂騎士団から審問騎士団に移籍したダグボルトは、マデリーンに気に入られて重要度の高い任務を与えられるようになっていた。それが古参のレンビナスには面白くなかった。  本来なら自分に与えられていた仕事を、ダグボルトに奪われた気がしたからだ。  レンビナスの胸の中では、暗い憎しみの炎がふつふつと燃え上がっていた。 (あいつめ、いつまでも調子に乗ってられると思ったら大間違いだぞ。いつか必ず目にもの見せてやるからな)    **********  峠を下って麓の森に着くと、青年は雑草が踏みしだかれただけの素朴な細道に一行を案内した。  細道の脇の木には、ナイフのようなもので矢印が刻まれている。 「ここいらの人間は、山道が使えない時にこの道を使ってるんだ。森の中は暗くてちょっと迷うかも知れないけど、木に彫られた矢印を辿っていけば出口に着けるよ」  案内を終えた青年は、ワレンツが礼をしようとするのを断って仲間の元に帰っていった。  すでに日は落ちかけていて、空は薄暗くなってきていた。  もし今から先に進むなら、真っ暗な森の中を夜通し歩く事になるだろう。 「今日は一日中歩き通しでしたし、我々はともかく馬が疲れています。それに夜の森には狼が出るかもしれません。朝になってから動いた方がよいかと思いますが、どうされますか?」  側近の聖堂騎士が尋ねると、ワレンツは顎髭を弄りながら頷いた。 「そうだな。ではここで一晩過ごすとしよう。それと今晩のうちに地図を見直して、他のルートがないか検討してみてくれ。さっきの小僧が教えてくれたルート以外のものをな」  側近は驚いた顔をしてワレンツをまじまじと見つめる。 「では閣下は、あの連中を疑っておいでなのですか?」  するとワレンツは、側近の顔を静かに見返した。  黒い瞳が鋭い輝きを放っている。 「ああ。どうにもあの連中は気に入らん。あいつらは儂が金貨を見せた時、誰一人として心を動かされていなかった。ここに案内してくれた男も含めて、あれだけ人がいたにも関わらず、ただの一人もだぞ。それに本当に領主に急かされているのなら、突貫工事で二、三日のうちに山道を復旧させるはずだ。だがあいつらは、口先ばかりで急いでいるようには見えなかった。もちろんただの考え過ぎかも知れんが、それでも用心するに越した事はないだろう」  ワレンツが説明を終えると、側近は深く感銘を受けた顔をしていた。 「恥ずかしながら、私はそこまで気付きませんでした。確かに閣下のおっしゃる通りです。では今晩のうちに、皆で相談して別ルートを探しておきます」 「うむ、頼んだぞ」  聖堂騎士達は馬を降りてテントを張ると、その場で一夜を過ごした。  翌朝、検討結果の報告を受けたワレンツは顔を曇らせる。  東に向かって港街から船で北上するルート。  アドン山脈を西に大きく迂回するルート。  そのどちらもが、最低でも一週間は余分にかかる計算であった。  ここにきてワレンツは苦渋の選択を迫られた。  裁判に遅れるのを覚悟で、検討したどちらかのルートを選ぶか、  あえてリスクを負って、少年に教えられたルートを行くか。  ワレンツは神経質なまでに顎髭を撫でたり引っ張ったりした後、ようやく決断を下す。 「ここは教えられた通り、森を抜けて北上しよう。待ち伏せされとる危険性はあるが、この際仕方あるまい」  森に敵が潜んでいないか探るため、ただちに先遣隊が編成された。ワレンツは先遣隊の隊長を呼んで、自ら指示を与え始める。 「ここからは常に儂らの本隊に先行し、何かあったら笛で知らせてくれ。森の中では樹上は元より、足元にも気を配れ。落とし穴や虎鋏などは原始的な罠だが、薄暗い場所では非常に効果的だからな。それともし無事に森を抜けられたら、その時は後で好きな酒を皆に奢ってやろう」  その言葉を聞いて、厳しい顔をしていた隊長は口元をほころばせた。  ワレンツも笑顔になって、隊長の肩を励ますように力強く叩いた。 「では頼んだぞ。お前さん達に女神のご加護があらん事を」 「はっ」  先遣隊が発って半刻後、森の奥から鳥の鳴き声に似た笛の音が三度鳴った。  異常無しの合図だ。  ワレンツ率いる本隊も、森の中に足を踏み入れた。  森の中は鬱蒼としていて、木々の枝がまるで蜘蛛の巣のように絡み合い、陽光を覆い隠していた。木々の隙間から差し込む微かな明かりで、人と馬の吐く白い息が照らし出される。  薄暗いためか、本来の気温よりも冷たく感じられ、聖堂騎士達は何度も身震いした。  折れた枝を踏みしだく音が、やけに大きく響く。  少し進んでは先遣隊の合図を待ち、安全が確認されてからまた前進する。  周囲に危険がない事が分かっていても、ワレンツ達には木々の影が、待ち伏せしている兵士のように見えてしまう。  皆、腰に佩いた剣の柄に手を置きながら、周囲に目を配っていた。  足取りは重く、まるで泥濘の中を進んでいるかのような気分であった。  しかし永遠にも思える時間は、唐突に終わりを告げた。  前方の木々の間から光が差し込んでいる。  ついに森を抜けたのだ。  その先には、赤茶けた岩肌が剥き出しになった窪地があった。  窪地を挟むように、東西には二つの山が聳え立っているが、そこまではなだらかな勾配が続いていて見晴らしは良い。  先遣隊と合流したワレンツ一行は、まず遠眼鏡(望遠鏡)で周囲を探ったが、人影は全く見当たらなかった。今現在、この場にいるのは彼らだけのようであった。 「この辺は遮蔽物になりそうなものがないから、さすがに待ち伏せしようとは思わんわな。審問騎士共が襲撃してくるとしたら、絶対にあの森の中だと思ったんだがなあ」  ワレンツは遠眼鏡を下ろすと、顎髭を引っ張りながら隣にいる側近にぼやいた。 「こうなると、あの人夫達についての考察は的外れだったのかも知れん。色々と偉そうに言ってしまったが、結局は儂の考え過ぎだったようだ」  そう言って照れくさそうにぽりぽりと鼻の頭を掻いた。  側近は、気まずそうなワレンツを慰めるように微笑む。 「いえ、警戒なさるのは当然の事です。あいつらは毒蛇のような連中ですから」 「ハハッ。毒蛇とは言い得て妙だな。では警戒を怠らず先に進むとするか。遅れを取り戻すために、今日は夜通し歩き続けて一気に街道まで出てしまおう」  一行は周囲を窺いつつ北へと進み始めた。  街道にたどり着ければ、教皇庁まではもう行く手を阻むような難所はない。  ワレンツは馬を進めながらも、頭の中では裁判に備えて弾劾への反証を組み立て始めていた。  周りにはちらほらと談笑する者まで現れる。  先程までのピリピリした空気が嘘のように、聖堂騎士達はリラックスした気分になっていた。  だが突然、先頭の聖堂騎士が乗っていた馬が、急に体勢を崩して転倒した。  弛緩していた空気が、一瞬にしてぴんと張り詰める。 「狙撃されたか?」  ワレンツが鋭い口調で尋ねる。 「いえ、矢が風を切る音は聞こえませんでした。馬が何かに躓いただけだと思いますが……」  側近はそう答えたものの、すぐに他の者が乗る馬もバタバタと倒れていく。  敵の襲撃ではないようであったが、何か尋常ならざる事態が起こっているのは間違いなかった。  即座にワレンツは大声で指示を出す。 「ここにいてはまずい!! 皆、すぐに森まで引き返せ!!」  しかし馬を反転させる暇もなく、聖堂騎士達は次々と倒れる馬から放り出されていく。  ついにワレンツの乗っていた馬も倒れ、彼は地面に投げ出されてしまった。  地面にうつぶせに倒れこんだワレンツは、上半身を起こし周囲を見渡す。  すると同じように落馬した聖堂騎士達が喉を押さえて苦しんでいた。  空気を求めるように口をぱくぱくと動かし、顔は青紫色に染まっている。  倒れている馬は口から泡を吹いて、ぴくぴくと痙攣していた。 (糞ッ、毒を撒かれたか!)  瞬時に現状を理解したワレンツは、咄嗟に手で口と鼻を覆った。  そして息を止めた状態で、この場を離れようとした。  だが立ち上がろうとしたその時、足が何かに引っかかって動かせないのに気付く。  足元を見ると、馬が転倒した拍子に鐙(あぶみ)が変形していて、足の甲にがっちりと食い込んでいた。  ワレンツは近くに落ちていた石で、鐙を叩いて壊そうとした。  しかし傷がつくだけで全く壊れない。  周りには、彼を助ける余裕のある者は一人もいなかった。 (何という事だ……。ここで……終わるのか……儂……は……)  とうとうワレンツは、耐え切れなくなって息を吸い込んでしまった。  その瞬間、喉に焼けつくような痛みを覚え、まるで白い絵の具をぶちまけられたかのように頭の中が真っ白になった。  そしてワレンツは、ついに動きを止めた。  周りに倒れている聖堂騎士達と共に、彼の身体は段々と冷たくなっていく。  その場から生命の温もりは完全に失われた。  代わりにあるのは、死せる者達の無念と、絶望の残り香のみであった――。    **********  山の頂に近い見晴らしのいい場所から、遠眼鏡でワレンツ達の様子を窺っていたカレナは満足げに顔を上げた。 「みんな動かなくなったよ。あそこは地元の人間は誰も近づかない場所だけど、土地勘のないあいつらはまんまと引っかかったみたいだね」  実はカレナが彼らに教えた窪地は、山肌の噴気孔から噴き出した火山ガスが流れ込む危険な場所であった。  このガスは無味無臭で、目にも見えず、吸い込んだ者をたちどころに死に至らしめるのである。  それゆえ周辺の住民は、『死霊の宿り家』と呼んで恐れていた場所であった。 「これなら手を汚す必要もないし、あくまでも事故として処理出来るんだから、まさに完璧だね」 「何を偉そうに抜かしてやがる。作戦を考えたのは団長だろうが」  レンビナスは、浮かれるカレナに冷や水を浴びせる。 「それよりこんな所で、いつまでもぐずぐずしてていいのか? 近くの村にひとっ走りして、誰かにあいつらの死体を確認させなきゃいけねえんだろ」 「うん、そうだよ。もしかしてあんたが行ってくれるの?」 「ああ。ついでに一杯引っかけてから帰るから、てめえらは先に団長の所に戻ってな」  しかしレンビナスの唇に微かに邪な笑みが浮かんでるのを見て、カレナは眉間に皺を寄せる。 「ちょっと! あんたまさか、馬鹿な事考えてんじゃないでしょうね」  カレナは腰に手を当てて、レンビナスをじろりと睨み付けた。 「うるせえなあ。任務はもう終わったんだから、俺がどこで何をしようが勝手だろうが」 「いいわけないでしょ! あんたが何かやらかしたら、うちの団の責任問題になるんだからね。そしたらあんたも懲罰部隊に逆戻りだよ」  懲罰部隊という言葉を聞いて、レンビナスは顔を強張らせた。  しばらく無言でカレナを睨み返していたが、やがて踵を返して、一人で山道を降りて行ってしまった。  立ち去るレンビナスの背中を、むすっとした顔で見ていたカレナに、近くにいた若い審問騎士が声を掛けてきた。 「レンビナスって前に何かやらかしたのか?」  するとカレナは、よく聞いてくれてくれたとばかりに熱心な口調で語り始めた。 「あいつ、元々は傭兵だったらしけど、内乱を鎮圧する仕事でどっかの国の王様に雇われた時に、調子に乗って仲間と一緒に大暴れしたらしいんだよ。略奪に強姦、おまけにそれこそ街が二、三個地図から消滅するレベルの大量虐殺をね。それで王様の怒りを買って投獄されて、みんなまとめて懲罰部隊に送られちゃったんだ。懲罰部隊の危険な仕事で、仲間はどんどん死んでったらしいけど、たまたま団長と一緒に仕事をする機会があった時に、能力を認められて、あいつだけ審問騎士団に引き抜かれたみたい。でも罪が許されたわけじゃないから、ここを追い出されたら懲罰部隊に逆戻りってわけ。だからあいつは、団長にだけは頭が上がんないんだ」  話を聞き終えた審問騎士は首を傾げる。 「どうして団長はそんな奴を仲間にしたんだ?」 「そんなの私が知りたいよ。私達だけじゃ戦力不足だから、熟練の戦士が欲しかったのかも知れないけど、よりにもよってあんな奴を連れてこなくてもよかったのに」  普段はマデリーンに忠義を尽くしているカレナにしては、珍しく愚痴をこぼす。  カレナを含め、審問騎士団の団員のほとんどは、世界各地の孤児院から集められた孤児達であった。  彼らは洗脳とも言えるような厳しい教練を受け、クレメンダール教皇に絶対の忠誠を誓わされていた。  だからレンビナスのような利己的な者は、審問騎士団では異質だったのだ。 「まあ深く考えても仕方ないよ。そろそろ私達も山を下りよう」  カレナ達が下山しようとすると、山肌を吹き抜ける冷たい風が急に強くなってきた。  マントをきつく身体に巻きつけるが、それでも寒さで震えが止まらない。  彼らを嬲るよう執拗に吹き付ける風――それは審問騎士団の前途が険しいものである事を、暗に示しているかのようでもあった。    **********  聖天教会の上層部の人間が暮らす教皇庁は、ラトルシア王国の北にあるレオルム山脈の中腹に建てられていた。  教皇庁は高い城壁に囲まれ、その内部には大聖堂を中心として司教達が暮らす住宅区画、参拝者を相手にする商業施設などがある。  大聖堂はレウム・ア・ルヴァーナのものと比べると数段劣るものの、それでも十分に荘厳な造りであった。  外見は元より内部にも気を配られていて、広々とした大理石の廊下、鮮やかな真紅のビロードの絨毯、高い芸術性を誇るステンドグラスなどが見る者の心を奪う。  そんな中を、豪奢な服を纏った大司教達が我がもの顔で闊歩していた。  そして現在、聖天教会の頭脳とも言える面々――クレメンダール教皇と枢機卿達は、大聖堂の三階にある大会議場に集まっていた。四日前に非業の死を遂げたワレンツと、聖堂騎士団の処遇について話し合うためである。 「あの男も不運でしたよねえ。まあこの場合は裁判に出席せずに済んで、むしろ幸運だったかも知れませんけど」  顔に白粉を塗った枢機卿が、口に手を当てて笑いを噛み殺すように言った。  クスクス笑いがさざなみのように広がる。  会議場の中央には大きな円卓があり、十二名の枢機卿が主座のクレメンダールを囲む形でそれぞれの席についている。  そしてクレメンダールのちょうど対面に座っているのが、枢機卿団総帥のバーティスであった。  聖天教会の名目上の最高権力者と、実質的な最高権力者である二人は、口元に笑みを浮かべていたが、目はまるで笑っていない。  表面的には和やかな雰囲気であったが、実際は互いに主導権を握るべく暗闘を繰り広げているのだ。  笑いが静まると、別の枢機卿が軽く挙手をしてから口を開いた。 「ですがワレンツの処分はどうしましょう? 有罪の証拠があるとはいえ、欠席裁判でワレンツを裁いてしまったら、聖堂騎士団が騒ぎ出すかも知れません」  他の枢機卿達は考え込むような顔をしつつも、一様にバーティスに視線を送った。  彼らは『世俗派』であり、バーティス側の人間であった。  実のところ、この場にいる枢機卿のうち、バーティスを含む十人が『世俗派』だったのだ。  会議は緩やかではあったが着実に、バーティスが望んだ結論に向かって動いていた。 「こうなっては、死者に鞭打つような真似をしても仕方ないと思います。ワレンツの罪は問わぬという事でどうでしょうか」  誰も何も言わないでいると、先程の枢機卿がそのように提案した。  するとここが仕掛けるタイミングだとばかりに、ついにバーティスが動く。 「その意見には同意できない。ワレンツの罪はあまりに重く、死んだからといって許されるようなものではない。それこそ教皇庁の城壁の上に、首を晒されてもおかしくはないくらいだ」  毅然とした口ぶりでバーティスが断罪すると、会議場が大きくどよめいた。 「た、確かに汚職は立派な犯罪ですが、そこまでのものでは……」  枢機卿が恐る恐る口を出すと、バーティスはいきなり円卓を叩いた。  そして会議室の外にいる聖堂騎士に向けて呼びかける。 「例の男を連れてこい」  普段は物静かなバーティスらしからぬ力強い声。  すぐに聖堂騎士が一人の男を連れて入って来た。  それは木製の手枷を嵌められたオッソリオであった。  しかしバーティスは、手枷を見て顔をしかめる。 「その者は罪人ではない。すぐに解放するのだ」  今度は落ち着いた静かな声。  だが先程よりも数段、凄みが籠っている。  動揺した聖堂騎士は手が震えてしまい、手枷の鍵を落としてしまった。  するとバーティスは鍵を拾って、自らの手でオッソリオの枷を外した。  自由の身となったオッソリオは、血の巡りの悪くなった手首をさすりつつ口を開く。 「聖堂騎士団の副長、オッソリオ・ベルチと申します。私は総長のワレンツ・ルッターダントを告発するため、自らの意思でここに参りました」  会議室が一瞬にして、しんと静まり返る。  皆がオッソリオの次の言葉を、固唾を飲んで待っていた。 「汚職によって自らの失脚は避けられないと考えたルッターダントは、密かに北部方面軍のノルン司令への手紙を私に託しました。それは教皇庁を占拠して、教皇猊下を退位させる計画を書き記したもので、ルッターダントはノルンを説得してその計画に加担させようと考えていたのです」  今度は一転して、会議室が大きなどよめきに包まれる。  ざわめきがなかなか収まらない中、オッソリオは話を再開する。 「しかし私は、ルッターダントが行おうとしていた途方もない犯罪行為に恐れおののき、手紙を本来の目的地ではなく、ここに運んできました。あの男は騎士団を腐敗させた元凶です。死したとはいえ、正当なる裁きが下る事を心より願っています」 「それでその手紙は今どこに?」  クレメンダールが尋ねると、バーティスは懐から二通の手紙を取り出した。 「ワレンツの手紙は暗号で書かれていた。そこで私が部下に命じて解読させたものと併せて、君に渡しておこう」  そう言うとバーティスは、手紙を隣の席の枢機卿に手渡した。  手紙は隣から隣へと渡っていき、最後はクレメンダールの手元に辿り着いた。  クレメンダールは解読された文章にざっと目を通した。  そして深いため息をつくと、ゆっくりと口を開く。 「確かにこれは許しがたい犯罪行為ですね。ベルチ殿の勇敢な行動がなければ、我々の命運は風前の灯だったでしょう。こうなるとワレンツが死んだからといって、処分を控えるわけにはいきません」  その言葉にバーティスは大きく頷いた。  他の者も追随するように頷く。 「うむ。これからはワレンツのような男が、聖堂騎士団のトップに居座る事がないよう、我々がしっかりと目を光らせておかねばなるまい。そこで私は、聖堂騎士団の人事審査会に、聖天教会の人間を加えるよう要求する事を提案したい。教会が聖堂騎士団の人事に介入出来るようになれば、ワレンツのような奸物を容易に排除出来るようになるからな」  バーティスが話を終えると、枢機卿達は次々と賛同の言葉を口にし始めた。  その提案に異を唱える者は誰もおらず、クレメンダールも会議の流れを静かに見守っている。  後はこの場で多数決をとって、正式に承認させるだけであった。  バーティスは心の中で密かにほくそ笑む。  枢機卿達は、ワレンツの蜂起計画を初めて知ったような顔をしていたが、実際は『世俗派』の者にだけは事前に話を通してあったのだ。  だからこの会議の流れも、全て打ち合わせ通りだったのである。  聖堂騎士団にこの要求を飲ませたら、バーティスは自分の息がかかった人間を、人事審査会に加えさせるつもりであった。  聖堂騎士団という巨大な軍事組織を掌握すれば、クレメンダールの事実上の私兵である審問騎士団を掣肘出来る。そのように彼は考えていた。  審問騎士団は今や、放置しておくにはあまりに危険な集団であった。  なぜなら彼らは、本来の任務である魔女狩りの裏で、クレメンダールの政敵を巧みに葬り去っていたからである。  バーティスも、いつかは自分が始末される番が回ってくるであろう事は、よく理解していた。  だからこそ是が非でも、この提案を採択させるつもりであった。  しかしバーティスが決を採ろうとしたその時、クレメンダールが思いもよらない言葉を口にした。 「皆さんはブラックタワー殿の提案に賛成のようですが、私からすれば少々手ぬるい気がします。もっと抜本的な改革でなければ、聖堂騎士団から完全に膿を取り除けないでしょう」  いきなり横槍を受けて、バーティスの目尻が微かに引き攣った。 「他に何か方法があるというのか?」 「ええ。私が考えるのは聖天教会と聖堂騎士団という二つの組織の統合。つまり聖天教会の教皇が、聖堂騎士団の総長を兼任するのです。それなら聖堂騎士団の暴走は完全に防げるはずです」  突然の衝撃的な提案に、バーティスを含む枢機卿達は唖然とする。  それを見てクレメンダールは満足げに微笑んでいる。 「……なかなか斬新な提案ではあるが、実行するのは困難だと思うがな。軍事的な経験のない君が上に立つ事を、聖堂騎士団の人間が納得するとは到底思えん」  ようやくショックから立ち直ったバーティスは、やんわりと反論した。  しかしクレメンダールは、穏やかな口調でこう答える。 「始めから出来ないと思ってしまっては何も出来ませんよ。今の聖堂騎士団は、ワレンツの失態で不利な状況に立たされています。こちらが何度も主張し続ければ、必ず最後は折れるはず。大事なのは途中であきらめたりせず、最後まで押し通す強い意志なのです」  長舌を振るい終えたクレメンダールは唇に指を当て、また静かに微笑んだ。  『世俗派』の枢機卿達はむっつりと押し黙ったまま、バーティスを横目でちらちらと見ていた。  このような事態は想定外だったため、次の指示を待っているのだ。  バーティスは彼らに向けて、ほんの僅かに首を横に振ってみせた。  多数決を採れば、かならず自分の提案の方が通る。  この程度のハプニングなど何の問題もないはず。  だがそう考えていた矢先――。 「す、素晴らしいお考えですッ!!」  不意に上ずった声が沈黙を切り裂いた。  これにはバーティスまでもが目を丸くする。  声を上げたのはバーティス側のはずの、『世俗派』の枢機卿だったのである。 「猊下のご慧眼に感服いたしました! やりましょう! 我々の手で、腐敗に塗れた教会と聖堂騎士団を、新たな形に造り替えるのですッ!」  裏切り者の枢機卿は席から立ち上がり、熱っぽい声でそう主張した。  周りの『世俗派』の枢機卿達は互いに視線を交わし合う。  彼らの瞳は疑心暗鬼に彩られていた。  他に裏切った者はいないか、血走った目で必死に探り合っている。  クレメンダールはその枢機卿に軽く礼をすると、再び口を開いた。 「では決を採りましょう。私の提案に賛成の者は挙手を――」 「私は反対だ」  バーティスがぴしゃりと言ってのけると、枢機卿達は一斉に色めきだつ。  表立ってクレメンダールを批判した聖職者達は、全員左遷や破門といった厳しい処分を受けていた。  それゆえバーティスでさえ、裏で陰謀を張り巡らせることはあっても、公然と彼を批判する事は控えていた。  だが今は、そんな事を考えている状況では無かった。  ここで仲間達の動揺を鎮めなければ、クレメンダールの提案が通ってしまいかねない。  そうなれば彼は、審問騎士団のみならず、聖堂騎士団まで自由に動かせるようになってしまう。  だからバーティスは自分の立場を明らかにし、仲間達に見せつけておく必要があったのだ。 「それは私の意見が間違っていると言いたいのですか?」  クレメンダールは顔色一つ変えずに尋ねる。 「そうではない。君の提案は、二つの組織のあり方を大きく変えるものだ。このような場で拙速に事を進めていいものではない。だからこの件については、会議を重ねてゆっくりと議論を深めるべきだ。その上で、君の提案が採択されるなら、私ももちろんそれに従おう」  バーティスは、クレメンダールに公然と敵対しないよう、慎重に言葉を選んで話を進めた。 『世俗派』の枢機卿達は、ほっとした顔をする。  バーティスの言っている事は、要するに議論の先送りであり、この場で難しい決断を迫られずに済むからだ。  そしてバーティスとしても、ここで時間を稼いでおいて、身内の結束を固め直したいところであった。  だがクレメンダールは、口元に不穏な笑みを浮かべていた。  ここまで計画通りであると言わんばかりに――。 「分かりました。それではまず、先程の私の提案の採決を、今ここで行ってよいか決めましょう。行っても構わないという方は挙手をお願いします」  すると『世俗派』に属さない二人と、裏切り者がさっと手を上げた。  この不意打ちに、残りの枢機卿達は横っ面を殴られたような顔をした。  こうなってしまっては、バーティス側につくか、クレメンダール側につくか、今この場ではっきりと旗色を明らかにするしかない。  『世俗派』の枢機卿達は青ざめた顔をして、バーティスとクレメンダールの顔を交互に見つめる。  なかなか決断できずに、ぐずぐずと躊躇っている彼らに、クレメンダールは優しく声を掛けた。 「迷わずとも、心の中の内なる声に従えばいいのです。そうすればきっと正しい道を歩めるはずです」  さらに彼はこう続ける。 「――ですがもし、心の中の声に従わず間違った道を歩む者がいれば、女神は必ずその者に罰をお下しになるでしょう。……あのワレンツのようにね」  それが駄目押しとなった。  『世俗派』の枢機卿達は一人、また一人と手を上げ、とうとうバーティス以外の全ての者が手を上げた。  クレメンダールは続けざまに、自分が聖堂騎士団の総長を兼任するという提案の決を採る。  今度もまた、バーティス以外の全員が手を上げた。  こうして勝利を勝ち取ったクレメンダールは、無言のバーティスに向けて静かにこう尋ねる。 「このような結果になってしまいましたが、あなたはどうされますか? これでもやはり、私の提案に反対しますか?」  バーティスはしばらく黙っていたが、やがてクレメンダールを真っ直ぐ見据えると口を開く。 「……いや。さっきも言った通り、君の提案が認められた以上はそれに従うだけだ。途方もない計画だがうまくいく事を願うよ」  事実上の白旗宣言であった。  こうして会議は、クレメンダールの望む形で終了した。  閉会後、裏切り者を除く『世俗派』の枢機卿達は、バーティスの側に集まって口々に謝罪の言葉を口にする。  それは少し離れた場所で聞いていた、オッソリオも呆れるくらい白々しいものであったが、バーティスは彼らを責めたりはしなかった。 「あの場合は、むしろあれでよかったのだ。クレメンダールを真っ向から批判する形になってしまえば、我々も粛清の対象になってしまうだろう。今はじっと耐えて時勢を待つだけだ」  それで安心したのか、枢機卿達は逃げるように会議場を後にした。  最後に残ったバーティスは、虚ろな目で天井の一点をじっと見つめていた。  血が滲むほどに唇を強く噛んで、屈辱に耐えるその姿に、オッソリオですら声を掛ける事が出来なかった。    **********  翌朝、オッソリオが泊まっている商業区の宿屋に、バーティスの使者がやって来た。  すぐに聖堂騎士団の制服に着替えると大聖堂へと急ぐ。  暮らし慣れたレウム・ア・ルヴァーナとは構造がだいぶ違うため、廊下で立哨している聖堂騎士に道を聞いて、バーティスの執務室に向かった。  枢機卿の大半が、見晴らしのいい上層階に陣取っている一方で、バーティスとクレメンダールの執務室は一階であった。  それは華美な物を嫌い、実利を優先する二人の性格を物語っている。  もっともバーティスの場合は、病身のために階段を昇るのが苦痛だという理由もあったのだが。  廊下を歩いているうちに、オッソリオはどんどんと人のいない場所へと入っていく。  本当にこんな所に教会の実力者がいるのかと訝しむような寂れた区画だ。  そして他の上層部の人間の部屋とは違い、バーティスの執務室の扉の前には、見張りの聖堂騎士が一人も立っていなかった。  オッソリオは扉を軽くノックしたが返事はない。  そこでドアノブに手を掛けると、鍵はかかっていなかった。  仕方なくそのまま開いてみると、部屋の奥のデスクにバーティスがいた。  頬杖をついてぼんやりとしていたが、オッソリオに気付いて顔を上げる。 「来たか。入って適当なところに座ってくれ」  執務室はこじんまりとした飾り気の無い場所であった。  廊下はもちろんの事、部屋の中にも、バーティスの他に人の姿は無い。  オッソリオは、デスクの前に置かれた客人用のソファーに腰を下ろした。 「結局のところ、私の権力基盤も決して盤石ではないというわけだ」  オッソリオが腰を落ち着けると、バーティスは自嘲気味に呟いた。 「私の側についている者達は日和見主義者ばかりで、状況次第で簡単に寝返ってしまう。その事実が分かっただけでも、昨日の失態には意味があった。そう思いたいものだな」  そこまで話したところで、オッソリオが不審な顔をしているのに気付く。 「どうした? 昨日の事で私が荒れているとでも思ったか?」 「いえ、そうではありません。護衛が一人もいないのが、あまりにも不用心な気がしたので」  するとバーティスは、薄い唇にからかうような笑みを浮かべた。 「審問騎士共がここに乗り込んできて、私を切り刻むかもしれないと言いたいのか? だがたとえ見張りの聖堂騎士がいたとしても、そうなった時に私を守ってくれるとはとても思えん。あいつらは心の中では私を嫌ってるからな」 「ですがここまで無警戒だと、さすがに楽観的過ぎるとしか思えません。それならせめてブラックタワー家の兵士を置いておくべきです」  それを聞いたバーティスは、急に不機嫌な顔になってかぶりを振る。 「ブラックタワー家の兵はイスラファーンの内戦で、今もエミル王子の側で戦っているのだ。とてもこちらに回す余裕はない」 「えっ? あの戦いが始まってもう二年は経っているはずです。それなのにまだ決着がついてないのですか?」 「ああ、残念ながらそうだ。マウリッツめ。一年で終わらせると大言壮語を吐いておきながら、未だに終結の目途すらたてられずにいるのだ。私に軍事的な才能があれば、自分で指揮をとってさっさとケリをつけるのだがな」  マウリッツはバーティスの七歳年下の異母弟である。  ただしバーティスの宿敵であったガイラートとは違って、妾の子であるため、ブラックタワー家の継承権は持っていない。  自分の父を知らずに、若い頃から傭兵として戦っていたマウリッツは、二十年程前にバーティスにその軍事的な才を見込まれて、ブラックタワー家の兵を率いる指揮官に任じられた。  そして大任を与えてくれたバーティスのために、マウリッツはその役割を忠実にこなし、今はイスラファーン王国の戦地を飛び回っているのである。 「正直、調子に乗って手を広げ過ぎた事は認めねばなるまい。しかも頭の痛い事に昨日の問題もあるしな」  昨日の一件は、聖堂騎士のオッソリオにとっても他人事では済まされないため、話に熱を入れるようにソファーから身を乗り出した。 「率直なところ、猊下はこれからどうされるのですか? 審問騎士団の団員はせいぜい三百名程度ですが、世界各地の教会に配置されている聖堂騎士を集めれば二万人にもなります。それだけの兵力をクレメンダールの手に委ねるのは、あまりに危険過ぎると思うのですが」  だがバーティスは、そんな事は問題にならないとばかりに手を振った。 「何事も頭の中で考えるだけならうまくいくものだ。しかしそれを実現するとなると、様々な障害が立ちはだかって見直しを迫られる。イスラファーンの内戦もそうだし、今度の一件もそうだ」 「では猊下は、クレメンダールの計画が失敗するとお考えなのですか?」 「失敗するかどうかはともかく、問題が山積みなのは確かだ。例えばヴィクターには私と同じように軍事的な才能がないから、マウリッツのような者が代わりに聖堂騎士団をまとめる必要がある。だが問題は、その役を誰に与えるのかという事だ。最初に思いつくのはマデリーンだが、あの女には大軍勢を率いた経験がない。となると聖堂騎士団の上層部の人間から選ぶのが自然だ。副長とはいえ、私のスパイとして働いていた君を選ぶとは思えんから、そうなると一番考えられるのは、北部方面軍司令官のギャレッドだが……」 「あの男はきっと断るでしょう」  オッソリオはきっぱりと言い切った。 「あの男はルッターダント総長とは不仲でしたが、それ以上にクレメンダールを嫌ってましたから。だからこそ総長は、蜂起計画にあの男を加えようとしていたんです」 「ふむ。ギャレッドが駄目となると、他は有象無象の小物ばかりになる。聖堂騎士の中からまとめ役を見つけるのも難しいだろうな」  バーティスは肺に痛みを感じ、軽く咳き込んだ。  咳が収まると、椅子に深く座り直して話を続ける。 「それから聖地防衛隊の問題もある。あいつらは、聖堂騎士団が教会の傘下に入る事を潔しとするだろうか?」 「それもないでしょう」  バーティスに会話を誘導されていると感じつつも、オッソリオはそう答えざるを得なかった。 「聖地防衛隊の人間は、皆総長を慕ってました。だから彼らは、総長が無実の罪を着せられて暗殺されたと考えているはずです。そう考えると、彼らはクレメンダールに膝を屈するどころか、レウム・ア・ルヴァーナに立て籠もって抵抗するに違いありません」  オッソリオの予想に同意するようにバーティスも頷いた。 「ゆゆしき話ではあるが、そう考えるのが自然だな。そうした様々な問題をクリアするには、少なくとも一年はかかるだろう。つまり我々にも、まだまだ巻き返しのチャンスはあるわけだ」  そして軽くため息をつくと、さらにこう続ける。 「しかしここまでいいようにやられた以上、マデリーンをこれ以上放っておくわけにはいかないな。今はあの女への対応を最優先にしなければなるまい」 「マデリーン? クレメンダールではなく、ですか?」  オッソリオが眉をひそめると、バーティスは口元に笑みを浮かべる。 「クレメンダールに昨日のような策略は思いつかんだろう。あいつは空疎な理想主義者に過ぎんのだからな。裏切り者から私の計画を聞き出し、あのような絵を描いたのは間違いなくマデリーンだ。今にして思えば、あの女が暗殺部隊の指揮を直接執らず、ここに残っていた時点で警戒すべきだったのだろう」 ――それでは始末致しますか?  不意に部屋の中に、第三者の声が響く。  それは年齢不詳の男の声であった。  今までずっと、部屋には二人きりだと思っていたオッソリオは、驚いて声のした方を見た。  すると部屋の片隅の暗がりから、あたかも影を身に纏ったかのような黒き姿がゆっくりと歩み出る。  目の部分以外の全てを覆う黒装束の出で立ちは、まるで闇の化身のようであった。 「君に『影の手(シャドウハンド)』を紹介しよう。彼はブラックタワー家の食客であり、東方諸島でも腕利きのニンジャなのだ」  バーティスにそう紹介されると、『影の手』はオッソリオに向けて深々と一礼した。  オッソリオは目を瞠る。  風の噂には聞いていたものの、こうして本物のニンジャを見るのは初めてであった。  そしてバーティスに護衛の兵がついていない理由も理解した。  身辺に兵士を大勢置くより、一人のニンジャを侍らせておいた方が、よほど役に立つというものだ。  『影の手』が顔を上げると、バーティスはこう告げた。 「確かにお前の暗殺術をもってすれば、さすがのマデリーンといえども、明日の朝日を拝む事は出来ないだろう。だがマデリーンが殺されたと知れば、身の危険を感じたヴィクターが暴走する危険性がある。それでは駄目なのだ」  ではどうするつもりなのか――『影の手』がそう問いかけるのを予測したように、バーティスは先に回答する。 「マデリーンが審問騎士団を率いて大きな顔をしていられるのは、教皇であるヴィクターの後ろ盾があるからだ。だから二人の仲を裂く事さえ出来れば、あの女は自動的に失脚する。それに私に対して策略を仕掛けてきた以上、こちらも策略をもって迎え撃つのが礼儀というものだ」 「しかしその試みは、今のところうまくいってないように思われますが」  『影の手』の指摘に、バーティスは一瞬黙り込む。  これまで彼は、クレメンダールの周辺に若いシスターを何人も送り込んで、マデリーンとの仲を裂こうと画策していた。  しかしクレメンダールは自制心の強い男のようで、シスター達を気に入って重用する事はあっても、決して一線を超えようとはしなかった。  それどころか触れる事すら嫌がっているようでもあった。 「……確かにそれは認めよう。あの二人の間に僅かな綻びが生じているのは感じるが、完全な決裂には程遠い状況だ。誰かが、あの二人を仲違いさせる決定的な一撃となる、何かを持っていればいいんだがな」  そう言うとバーティスは、オッソリオに意味ありげな視線を投げかけた。  それは問いかけるようなものではなく、オッソリオが持っていると確信を抱いている目であった (やはりこの方に隠し事は出来ないか……)  観念したオッソリオは、懐から手紙の束を取り出した。  もしかすると必要になるかも知れないと考えて、ここに持ってきていたのだ。 「猊下がお探しなのは、これではないですか? シスター・セオドラが総長に宛てて出した手紙です」 「ああ、そうだとも。察しが良くて助かる」  手紙の束を受け取ると、バーティスは中を見ようともせずに『影の手』にそのまま手渡した。 「これを審問騎士団のレンビナスに渡してきてくれ」 「御意」  それだけ言うと『影の手』は、部屋の扉をすり抜けるように去っていった。 「これでいい。レンビナスはすでに買収済みだ。適当な口実を使って、あの手紙をマデリーンに渡してくれるだろう」  二人きりになると、バーティスはそう説明した。  しかしオッソリオは、納得がいかないといった顔をしていた。 「あの手紙は暗号で書かれているようでした。解読もせずに渡してよかったのですか?」 「ああ、構わんよ。余計な真似をすれば、改竄かねつ造を疑われるからな」 「ですがなぜあれが、クレメンダールとマデリーンの仲を裂く決定的な一撃になるのでしょう?」  するとバーティスは椅子から立ち上がり、生徒を前にした教師のように説明を始める。 「ヴィクターは、以前からセオドラに宛てて何度も手紙を出している。教皇庁まで来てくれれば聖女にふさわしい地位を与える、という内容でな。どうも奴は、セオドラに個人的な好意を抱いているようだ。セオドラの方は全く相手にしていなかったがな」 「それはマデリーンからすれば面白くないでしょうね。クレメンダールの寵愛を奪われるかもしれないですから」 「うむ。だがそれだけではない。どうやらマデリーンは、セオドラに個人的な恨みを持っているようなのだ。それもかなり昔からな」 「えっ?」  それはオッソリオには全くの初耳であった。  バーティスは僅かに声を潜めると話を続ける。 「マデリーンは審問騎士団が結成される前から、セオドラを密かに探っていたようだ。それどころかあの女には、セオドラが暮らしていた教会があった貧民街(スラム)の放火事件に関与していた疑いすらある。その時は、たまたまセオドラは別の場所にいて難を逃れたようだがな」 「それは本当ですか?」  驚いたオッソリオは思わず目を見開いた。  バーティスは静かに頷くと、さらに言葉を紡ぎだす。 「放火犯の男は、隣街の精神病院に拘束されていた、重度の精神病患者だった。そこの職員の話によると、事件の一週間ぐらい前に妻を名乗る女がやって来て、男を強引に退院させたという。だが実際は男には妻などいなかった。しかも妻と称していた女の外見は、マデリーンに酷似していたのだ。しかし分かったのはそれだけで、残念ながら決定的な証拠がどうしても得られなかった。放火の罪で捕らえられた男は、衛兵が目を離した隙に独房で首を吊ってしまったしな」  普段はあまり感情を表に出す事のないバーティスも、この時ばかりは悔しそうに言った。 「愚かな衛兵共は、それで捜査を打ち切ってしまったが、そもそも男の単独犯行なわけがない。退院した時に無一文だった男が、放火に使われた火薬や荷馬車を、自分で用意出来たはずがないのだからな。だが私がその事件を知った時には、時間が経ち過ぎていて、犯行に使われた道具の出所を洗えなかった。それでも私は、マデリーンがあの男を唆して、貧民街に火を放つように仕向けたのだと確信しているがな」 「しかし狡猾なあの女にしては、ずいぶん乱暴なやり方ですね」 「そうだな。だがそれには理由がある。当時はダグボルトとかいう腕利きの聖堂騎士が、セオドラを常に警護していたのだ。それで直接手を下すのは難しいと判断したのだろう」  ダグボルトという名前を聞いて、オッソリオはぎくりとする。  かつて聖地防衛隊の隊員として、二人は出会っていた。  これも因果なのかとオッソリオは考える。 「私の調べでは、十年以上前にセオドラとマデリーンは一度だけ出会っている。おそらくその時に、遺恨が生まれる決定的な出来事があったのだ。それが何なのかまではまだ分からないが、セオドラを始末するチャンスを、今も虎視眈々と狙っているのは間違いない」 「ではシスター・セオドラが、教会への反逆者である総長と繋がりがあった事は、マデリーンにとって絶好の口実となるわけですね。しかし……」  説明を終えて席に着いたバーティスは、オッソリオが口籠るのを見て眉をひそめる。 「私の考えに何か不満でもあるのか?」 「……マデリーンが、シスター・セオドラを独断で処断するような事になれば、おそらくは猊下のお考え通り、クレメンダールの不興を買って失脚するでしょう。ですがそれでは我々を含め、教会全体が女神の怒りを買う事にはなりませんか?」  バーティスは顎に手を当て、少しの間その言葉を吟味した。 「それはセオドラが本物の聖女だとすればの話だ。そうでないのなら、何も問題は――」 「シスター・セオドラは、間違いなく本物の聖女です。私はレウム・ア・ルヴァーナに残されていた聖職者名簿で、彼女が教会創設者であるサー・ペイモーンの姪である事を確認しています」  ソファーから立ち上がったオッソリオは、デスクに身を乗り出してきっぱりとそう言った。  しかしバーティスは即座に反論する。 「念のために確認しておくが、君にその名簿を見せたのはワレンツではないか? もしそうだとするなら、おそらく奴はヴィクターを退位させた後に、セオドラを後釜に据える気だったのだろう」  的確な分析に言葉を失うオッソリオ。  海千山千のワレンツでさえ、手玉に取られたのも頷けると思わざるを得なかった。 「た、確かにそうですが、もしや猊下は、ワレンツが見せた聖職者名簿は偽物だったとおっしゃりたいのですか?」  しかしバーティスはかぶりを振る。 「さすがにそこまでは分からんよ。その名簿を直接目にしたわけではないからな。だが今回の件は、聖女の真偽を確かめる、いいチャンスでもあると思うがな」 「チャンス?」 「もしセオドラが本物の聖女なら、窮地に立たされた時に、きっと女神が助けに入るはずだ。自分の使徒を、むざむざ死なせるとは思えないからな。しかしセオドラが、偽物の聖女だったとしたら……」  そこでバーティスは酷薄な笑みを浮かべ――。 「……その時は、魔女の烙印を押されて死ぬ事になるだろう」
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