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 ダグボルト一行は長きにわたる旅を終え、ようやくレウム・ア・ルヴァーナに帰還した。  うららかな春の日差しが、石造りの聖堂都市を優しく暖めている。  眠りに誘われるような心地よい温かさだ。  馬上のダグボルトは、うつらうつらしそうになるのを必死に堪えていた。  四人の顔には疲労の色が濃い。  『猛禽の女郎』とのゲーム対決で神経をすり減らした上に、ほとんど途中で休憩を取らずに帰ってきたからだ。  『黒獅子姫』は大分魔力が回復し、自分の衣服となる蟻を創り出せるようになっていた。  だが体調が万全ではない事もあって、ダグボルトの馬に一緒に乗っている。  後ろをゆくウォズマイラは、密かにそれを羨ましそうな目で見ていた。  昼食時を少し過ぎた頃とあって、街路を行き交う人々の数もそれなりと言ったところだ。  食料の供給はまだ不安定だが、街を行く人々に殺伐とした様子は無い。  『紫炎の鍛え手』に支配されていた地獄の日々と比べれば、多少の不自由などそよ風のようなものなのだろう。 (だけど人の心は移ろい易い。いつまでも不自由な暮らしを強いていれば、いずれは劫罰修道会に怒りの矛先が向かうはず。そうなる前に『偽りの魔女』を一掃しなくては……)  最後尾を進むウォズマイラは、人々を見ながらそう考える。  彼女には、劫罰修道会の副指揮官として市民の生活を守る義務があったからだ。  やがて四人は商業区を抜け、宮殿までの一本道までやって来た。  アルーサを除く三人は、市民の間では顔が知れ渡っていたものの、幸いここまで誰も気づく者はいなかった。マントのフードを目深に被っている上に、疲労困憊で背筋も曲がっていて、よれよれの旅人にしか見えないからだろう。  劫罰修道会が拠点とする、亡き『紫炎の鍛え手』の宮殿は、聖堂都市の中心部、かつての大聖堂跡地に建っている。  それは様々な種類の金属の合板を裁断し、捩じり、組み合わせた奇怪かつ幾何学的な超巨大オブジェであり、いつ見ても常人には理解しがたい前衛的なセンスの代物であった。  宮殿前広場には、修道士(モンク)達を引き連れた、劫罰修道会の修道長テュルパンが待ち構えていた。  普段はひょうひょうとした人物だが、今は顔を真っ赤にして、つるつるの禿頭に青筋を立てている。 「あれ? よくアタシらが帰ってくるのが分かったわね」  先頭を行くアルーサが、のんびりとした声で言った。 「北門を守る守衛が君達に気付いて、先回りして知らせに来てくれたからね」 「なーんだ。そっか。ところで何で怒ってんの?」 「別に怒ってなんかいないさ。ただ劫罰修道会の象徴的存在として、ここに残ってくれるはずだったのに、勝手にいなくなるなんてちょっと酷いんじゃないかなあ?」  テュルパンは無理に笑顔を作ろうとしたものの、口の端がピクピクと引き攣っていた。 「まあ、アタシに免じてウォズの事は許してやってよ。あれでも、そこそこの活躍はしたんだからさ」  馬を降りたアルーサは、そう言ってテュルパンの肩をポンと叩く。  だが馬を修道士に預けて、宮殿の中に入って行こうとしたところで、引き留められてしまった。 「私は、君の事を言ってるんだけどなあ」 「えっ?」  驚いてウォズマイラの方を見た。 「まさかアタシが、アンタの代わりにダグについてくって事、こいつに言ってなかったの?」 「勿論、言ってませんよ。あなたに馬と荷物を奪われた後、すぐに代わりを用意して後を追ったので、説明しに行く暇なんてありませんでしたからね。まあ仮にあったとしても、わざわざ言いませんけどね」  ウォズマイラは、けんもほろろにそう答える。 「だ、だけど常識として、そんぐらい伝えといて当然じゃないの!?」 「はあ? 何であなたのためにそんな事しなきゃいけないんですか。最初に自分で伝えておけば済んだ話じゃないですか。私には知った事じゃないですよ」  それだけ言うと、馬を預けて宮殿の中に入ってしまった。  アルーサは次に、助けを求めるような顔でダグボルトの方を見る。 「ねえ、ダグ。アタシはアンタを助けるためについてってやったのよ。だから――」 「さすがに長旅で疲れたな。夕食まで部屋で少し仮眠をとるか」  揉め事に関わりたくないダグボルトは、知らん顔をして呟いた。 「ちょっとアンタ達、いくらなんでも冷た過ぎじゃない!? アタシがあんなに大活躍したってのに、恩知らずもいいとこだわ!!」  ダグボルト達のあまりの薄情さに、顔をぴくぴくと引き攣らせるアルーサ。  それを見かねた『黒獅子姫』が仕方なく仲裁に入る。 「のう、テュルパン。あの娘は見ず知らずのわしのために、命を賭けて『猛禽の女郎』のゲームに挑んでくれたのじゃ。じゃからここは、わしに免じて許してくれんかのう」  すると不機嫌そうだったアルーサの顔がぱっと輝く。 「そうそう! それよ! それでこそ仲間ってもんだわ! ミル何とかもああ言ってるし、もうこの話は、これで終わりって事でいいわよね」  まるで悪びれないアルーサはともかく、『黒獅子姫』に縋るような目で見つめられて、テュルパンは仕方なさそうに禿頭を撫でた。 「分かったよ、アルーサ。仕方ないから、ここは一週間朝食抜きっていう寛大な措置で許そうじゃないか。そういうわけだから、この話はこれで終わりね」  それだけ言うと、唖然とするアルーサを尻目に、修道士達を連れてて宮殿内に戻って行ってしまった。 「軽い罰で済んで良かったのう、アルーサ」  『黒獅子姫』が優しげに肩を叩く。  だがその瞬間、アルーサの怒りが爆発した。 「はああああああああ!? これのどこが良かったって言えるわけェ!? あンの禿坊主ッ!! 食い物の恨みは絶対に忘れないからね!! 覚えときなさいよ!!」    **********  宮殿内の幹部用食堂は、名前とは裏腹に、他の部屋と同様に飾り気のないシンプルな場所であった。  青銅製の長テーブルには、洗っても落ちないシミの残る、黄ばんだテーブルクロスが掛けられている。椅子は赤銅の板を奇妙な形に捩じ曲げたもので、座り心地は最悪だ。  だが何より問題なのは壁であった。  青銅と赤銅の合板を組み合わせた壁は、天井に吊るされたランプの仄かな明かりを乱反射して、サイケデリックな不調和空間を生み出している。窓が無いのも、この状況に拍車をかけていた。  ここで何ヶ月も暮らすダグボルト達はとっくに慣れたものの、眠りから目覚めたばかりのアルーサはそうではなかった。 「ねえ、ここの壁を何とかしようって考えた人、今までいなかったの? タペストリーを張りまくって壁を隠すとか、何か方法あんでしょ」  我慢できなくなったアルーサは、ついに不満をぶちまけた。  その矛先は、正面の席に座るダウボルトへと向けられる。  とはいえ、席がどこであっても関係なかった。  『黒獅子姫』は自室で休んでいるし、テュルパンとウォズマイラは打ち合わせが長引いて、まだ食堂に来ていない。夕食を取りにきたのは、この二人しかいないからだ。 「今は、のんきに部屋の模様替えをしている余裕なんかないんだ。魔女との戦いが終わるまでは我慢しろ」 「でもご飯食べる時に、これじゃ落ち着かないわよ」 「じゃあ目を閉じて食えばいいだろ」  ダグボルトはしきりにあくびを繰り返しながら、適当に答えた。  自室でたっぷり寝たとはいえ、まだ眠気が残っていたのだ。 「嫌よ。そんなんじゃ味気ない食事が、もっと味気なくなっちゃうわ」  そう言いつつも、目の前にある白い布に覆われた、自分の夕食に手を伸ばすアルーサ。  だがダグボルトが、その手をぴしゃりとはねのける。  ここでは全員が揃ってから、食事を取る決まりになっていたのだ。  アルーサがぶうぶうと文句を言っているところに、ウォズマイラがやって来た。  身に着けていたプレートメイルを外し、動きやすい私服に着替えている。  ようやく寛げる時間を得られたためか、ほっとした表情をしている。  ウォズマイラは、たくさんの荷物が入った肩掛け鞄を床に下すと、ダグボルトの隣の席に着いた。 「お待たせしました。修道長は、もう少し仕事があるそうなので、先に食べていて構わないとの事です」 「まったく! 遅すぎるわよ! こっちはお腹が空きすぎて死にそうだってのに」  だが布を捲ったアルーサは、すぐにげんなりとした表情になる。  そこにあったのは、薄いジャガイモのスープに固い黒パン、炙った干し肉の欠片といった、道中で散々食べてきた保存食とほとんど変わらない料理だったからだ。 「……こんな事ならコルロヴァの街に残ればよかったわ」 「確かに『紅珊瑚亭』の飯は最高だったな」  ダグボルトも、海産物がふんだんに使われた豪勢な食事を思い出し、思わずごくりとつばを飲み込んだ。そんな二人を見て、ウォズマイラは苦笑する。 「『偽りの魔女』との戦いが終われば、何でも好きな物が食べられるようになりますよ。それまでの辛抱です」 「だったらさっさと終わらせましょうよ。残りの魔女はあと何人? 二人? 三人?」  そう言いながらアルーサは、今度は隣の席に置かれたテュルパンの食事に手を伸ばした。 「ちょっと!! 何やってるんですか!?」  だがウォズマイラの制止も聞かず、アルーサは自分の食事に、テュルパンの分を混ぜてしまっていた。  まるでそうするのが当たり前であるかのように。 「だってアタシ、一週間朝ご飯抜きなんだもん。その分、夕食を大目に食べなきゃやってられないわよ。……ところでミル何とかのご飯は?」 「それなら、さっき俺が部屋に届けておいた」  味の薄い食事をよく噛み締めながらダグボルトが言った。 「なーんだ。じゃあこれだけで我慢するしかないわね」  アルーサは二人分の食事を、がつがつと瞬く間に平らげていく。  元は貴族の娘だとは、とても思えないような浅ましい姿だ。  しまいには空になったスープ皿をペロペロと舐めだしたので、さすがに見かねたダグボルトが止めさせた。 「ダグボルトさん。これ持ってきました」  全員が食事を終えると、ウォズマイラは鞄の中身を見せた。  そこには古びた書物が、ぎっしりと詰め込まれていた。 「『黒衣の公子』についての記述がありそうな歴史書を、この宮殿の書斎から選んできました。良かったら後で目を通してみてください」 「自分の仕事が忙しいのに、わざわざそんな事まで……。いつも済まないな、ウォズ」  温かい労わりの言葉を掛けられたウォズマイラは、微かに顔を赤らめて無言で頷いた。 「ん? これは何だ?」  鞄の中に手を伸ばして、書物の表紙を確認していたダグボルトは、本と本の間に挟まっていたビラを見つけ出す。  何度も読み込まれているようで、インクは色あせ、手垢に塗れている。  表面には、今にも飛び立たんとする白鳥の紋章と共に、角張った文字でこう書かれていた。 『民衆よ。為政者に奪われし権利を、その手に取り戻せ――北モラヴィア人民戦線』 「これは?」 「北からやってきた、とある放浪者が置いていった物です。その方の話によると、その北モラヴィア人民戦線という組織が北部で急速に勢力を伸ばし、いくつかの都市で治安維持活動などを行っているそうです。ちょうど南部でいうところの我々、劫罰修道会みたいなものでしょうか」  そこでウォズマイラは、急に真剣な顔になって身を乗り出してきた。 「……ですが我々が、魔女への抵抗組織に留まっているのに対し、人民戦線はさらに魔女との戦いの先を見据えているようです。私がアンフレーベンの『黒南風(くろはえ)亭』で、人々を導く存在は人々の中から現れ、人々に選ばれ、人々に認められた者であるべきだって言った事を覚えてますか?」 「ああ、そう言えばそんな事言ってたな」 「あの時、ダグボルトさんはその考えを理想論だと言ってましたが、そんな事はありません。人民主権の社会を実現させるために、我々がまず何をすべきか。それが、このビラの裏面にちゃんと書いてあるんです。読んでみればはっきりと分かるはずです」  熱っぽく語るウォズマイラの青い瞳は、溢れんばかりの情熱できらきらと輝いていた。  確かに裏面には、細かい文字がびっしりと書かれている。  しかしダグボルトは、今すぐに読む気にはなれず、ビラを折りたたんでズボンのポケットにしまった。 「分かった。こいつは時間がある時に読んでおこう。だが今は『黒衣の公子』の正体について調べるのが先だ。『猛禽の女郎』の言う通り、『黒の災禍』を引き起こした張本人であるのなら、『偽りの魔女』よりも優先すべき相手だからな。お前が持ってきてくれた本の中に、何か手掛かりがあればいいんだが」 「ミルダさんは何か知らないのでしょうか?」 「残念ながら会った事すらないと言ってる。そもそも『黒衣の公子』は五百年ぐらい前の人間だ。そいつがどうして生きていて、しかもこの件に関わってるのかまるで見当がつかん」 「えっ、五百年前ってどういう事ォ!?」  二人の話を聞いていたアルーサが素っ頓狂な声を上げる。 「そういえばお前は、『黒衣の公子』について何も知らないんだったな」 「そうよ! だからアタシにもちゃんと説明して!」 「分かった、分かった。だが俺が教えられるのは、歴史の授業で習った事ぐらいだぞ」  そしてダグボルトは語り始めた。  『黒衣の公子』。  そしてモラヴィア大陸全土を揺るがした、大帝国にまつわる数奇な物語を――    ********** ――遡る事、五百余年前。  モラヴィア大陸最北端の山脈――群狼連峰(ウルフ・パック)から話は始まる。  麓には、雪と風と厳しい寒さに耐え抜く強さを持った、屈強な北方民族が暮らしていたいた。  バラン氏族、クム氏族、モーン氏族……。  だがその中でも、他の氏族から恐れられていた、とある氏族がいた。  それがデイ氏族――通称、狂戦士の氏族。  デイ氏族は、他の氏族には無い特殊な力を持っていた。  普段は普通の人間と変わらないが、一度戦闘が始まると狂戦士化(バーサーク)し、敵を壊滅させるまで戦い続ける悪鬼の化身と化すのだ。  しかもデイ氏族の家系には、ほとんど男しか生まれないという奇妙な特性があった。  そのため子孫を残すために、他の氏族の村を襲撃し、女を攫っては自分達の子供を産ませていたのだ。  それゆえにデイ氏族は、他の氏族から忌み嫌われ、また恐れられてもいた。  そんなデイ氏族に一人の傑物が生まれる。  それがディアマド・デイ・グノル。  デイ氏族のグノル家出身を意味する名である。    グノル家自体は、デイ氏族の中でも小さな家であったが、他家を打ち破っては傘下に組み込み、瞬く間にデイ氏族の氏族長の地位まで上り詰めた。  その時、まだ十七であったという。  そしてディアマドの快進撃の陰には、デイ氏族では数少ない生まれながらの女性である、年の離れた妹の存在があった。  名はディアドラ。  巫女である彼女は、預言の力を用いて兄を支えたと言われている。  妹の助力もあって、一年で全ての氏族を傘下に組み込み、ついにディアマドは北方民族を掌握した。  そしていよいよ文明社会制圧へと乗り出した。  最初の獲物となったのは群狼連峰の近くにある、ラトルシア王国の地方都市ベイヒェン。  ストームゲートと呼ばれる渓谷を抜けて、ディアマドの軍勢はベイヒェンに押し寄せ、激戦の末に街を陥落させた。  ディアマドはベイヒェン市民の命を保障する代わりに、ラトルシア王国や、その周辺国の情報を提供させた。  地図はもとより、言語、習慣、戦法、武具の製法などなど。  さらに街の男達は、ディアマド軍の兵士に組み込まれる事となった。  そこからはディアマドの破竹の進軍が続く。  次々と街を落としては兵を増やし、それを元手に新たな街を落としていった。  だがその一方で、王国の主力部隊との大規模な会戦は極力避けていた。  自分の軍勢の大半が、寄せ集めの烏合の衆である事を理解していたからだ。  その代わりに、大軍を展開しずらい峡谷や森などでゲリラ戦を仕掛け、巧みに敵の兵力を削いでいった。  徐々にラトルシア王国の主力部隊は力を失っていき、ついにディアマドは王都を陥落させるに至ったのだ。  その頃には周辺諸国も強い危機感を覚え、同盟を組んでディアマド軍に当たった。  しかしディアマドが編み出した、弓騎兵を主力とする一撃離脱の機動戦術の前に、周辺諸国の主力となる騎士団は無惨にも敗れ去った。  かくして僅か三年で、ディアマドはモラヴィア大陸北部のほぼ全域を手中に収めるに至った。  そして自ら皇帝と名乗り、北狼帝国(ノーザン・ウルヴス・エンパイア)と呼ばれる一大帝国を築き上げるに至ったのだ。    **********  ここで話はモラヴィア大陸南部に移る。  当時の南部は未開の地であり、北部の人間にとっては罪人の流刑地、あるいは食い詰め者の開拓地という有様であった。  彼らは現在のシュベレク回廊の辺りに、いくつかの集落を作って暮らしていた。  その当時、周辺区域には原住民の王国があった。  後にアシュタラ大公国となる西の地には黒人国家群。  そして後にフェルムス=トレンティア連合王国となる東の地には、トレンティア人の祖先が暮らす古エルドリア王国が存在した。  さらにルヴァーナ山脈の麓は、名無き氏族(ネームレス)の住処となっていた。  そんな孤立した場所で、ひっそりと生活していた開拓民の集落に、急に北部からの難民が流れ込んできた。  しかもそこには、国を追われた貴族や王族の姿もあった。  イスラファーン王国の国王アルディーン一世と、その息子イェンクーン王子、妹のエリュス王女もその中にいた。  ディアマド軍によって国を追われた三人は、かろうじて船で南部に逃げ延びてきたのだ。  しかしアルディーン一世は、国を失った心労とショックで病に倒れ、南部に落ち延びて早々に帰らぬ人となった。  王位を継承したイェンクーンは、父の墓前で祖国奪還を誓うのであった。  一方、ディアマド皇帝は北部に軍勢を留め、支配区域の地歩を固めていた。  部下には略奪や破壊行為を禁じさせ、文化的な生活を学ばせた。  さらに宮廷に、学者や芸術家を呼び集め、自らが野蛮人ではなく文明人であるとアピールする事も忘れなかった。  帝国をいかに長く存続させるか――それが彼の新たな目標となっていたのである。  一方、イェンクーンは亡命者や開拓民に、北狼帝国の打倒を呼び掛けたが反応は鈍かった。  しかしディアマドは、いずれ必ず軍を南下させて、大陸全土を手中に収めようとするに違いない。  イェンクーンは確信していた。  そのためにも、先に手を打っておく必要があると考えていた。  そんな中、イェンクーンに心強い味方が現れる。  それがジェミナイ・ベルドニャック。  獄塔傭兵団を率いる若き傭兵隊長である。  イェンクーンとジェミナイは、まるで始めから知己であったかのように、出会ってすぐに心が通じ合い、親友となった。  ジェミナイは自分の傭兵団に加え、原住民から募兵して創り出した軍団を、進んでイェンクーンに提供した。  西の黒人国家群や、古エルドリア王国で色々と仕事を行っていたため、原住民に顔が利いたのだ。  イェンクーンは協力の見返りに、イスラファーン王国の南にあるザナディ公国の、公王の座を与える事をジェミナイに約束する。  ザナディ公国は北狼帝国に滅ぼされ、公王家の人間はすでに死滅していた。  そこでジェミナイを公王家の生き残りという事にして、公王家復興の大義名分を与え、共に祖国奪還を目指す同志にしたのである。  イェンクーンが南部に亡命して二年後、ついに北狼帝国軍は南下を開始した。  ここに戦いの火ぶたは切って落とされたのだ。    **********  帝国軍は二手に分かれて南部に侵攻した。  大陸中央部の赤竜砂漠と、砂漠の東にある竜骨山脈からである。  竜骨山脈の防衛部隊はイェンクーンが指揮を執った。  北部王国の騎士団の残党と、南部原住民の兵士からなる混成軍団である。  山岳地帯に堅牢な砦をいくつも築き、鉄壁の守備で北狼帝国軍を南に通さない。  そしてジェミナイ率いる獄塔傭兵団が、赤竜砂漠から来る敵軍を迎え撃つ。  砂嵐やスコールなどの天候や、流砂などの地形を利用した戦いで、寡兵ながらも北狼帝国軍を翻弄し続けた。  一年が過ぎても、南部に辿り着く事すら出来ていない状況に苛立ったディアマドは、ついに自ら五十万の大軍を率いて赤竜砂漠の南下を開始した。  帝国軍は、赤竜砂漠のオアシス都市群に前線基地を構築し、悠々と進軍する。  それを迎え撃つのは、以前と同じくジェミナイ率いる獄塔傭兵団。  イェンクーンの指揮下にいた兵達もそれに加わる。  その数、合わせて約三万。  獄塔傭兵団は、ひたすら守勢に徹し、帝国軍を砂漠に釘付けにした。  その一方で、イェンクーンは僅かな護衛のみを連れて、船を使って故郷イスラファーンの港へと極秘に帰還していた。  ディアマドは陸戦には長けていたが、海戦にはほとんど興味を示さず、海軍の増強などは特に行っていなかった。  それがイェンクーンには幸いした。  イェンクーンは故郷の民の前で演説を行い、北狼帝国に反旗を翻すよう促した。  そして彼の声に応えた人々によって結成された反乱軍を率い、南下している帝国軍の補給線を断つ行動に出たのである。  帝国軍はどうにか砂漠を越えたものの、今までとは一転して厳しい立場に立たされた。  食糧の供給が滞る様になると、兵の士気が目に見えて下がり、脱走が相次ぐようになったのだ。  帝国軍の兵士は、大陸北部の諸王国から徴兵された市民が大多数を占めていたが、彼らはディアマドへの恐怖から仕方なく従っていただけであって、元々士気はそれ程高くなかった。  しかもジェミナイの戦術によって、砂漠近くの都市は焼き払われ、食糧の徴発も不可能な状態であった。  ここにきてディアマドは、やむなく一旦北部に引き返す事を決めた。  だがそこにジェミナイの反撃が待っていた。  彼は自分の部隊に加え、いかなる手段を用いたのか名無き氏族(ネームレス)の援軍まで得ていた。  そして逃げ惑う帝国軍を、まるで手負いの鹿を追う虎のように執拗に追撃した。  激しい追撃によって戦列は崩壊し、もはや帝国軍は軍団の体を成してはいなかった。  やむなくディアマドは兵を見捨て、側近の将だけを連れて逃亡した。  かくして追撃を逃れ、自力で本国まで逃亡できた兵は、僅か一万にも満たない有様であった。    **********  命からがら逃げ延びたディアマドだったが、憤怒と屈辱の余り、帰還後すぐに死去した。  だが後継ぎを決める事無く逝ったため、後継者争いで帝国内部は大混乱に陥った。  見かねたディアドラが仲裁に乗り出すも、時既に遅し。  ジェミナイ達が進軍してくると、北狼帝国の帝都は瞬く間に陥落した。  そして北方民族の生き残りの多くは、故郷の群狼連峰へと逃げ戻っていった。  イェンクーンは峻厳な北の地まで彼らを追う事はせず、代わりにストームゲート渓谷に監視基地を創り、北方民族の動向を常に監視させた。  こうして長きにわたる戦いは、幕を閉じたのである。  だが戦後処理で、一つの問題が持ち上がった。  イェンクーンは、北部王家の生存者達との会談の末に、北狼帝国が諸国家を支配する前の状態に領土を戻す、領土保全の原則を決定していた。  しかしザナディ公国だけは例外となったのだ。  公王家の血を引いているという決定的な証拠がないとして、ジェミナイは公位継承者であると認められなかった。  そしてザナディ公国は、まるごとイスラファーンの領土に組み込まれる事となったのである。  それはあまりにも酷い裏切りであった。  イェンクーンは、ジェミナイの不満を抑えるため、ザナディ公国の公家直轄領であったダーレン地方の広大な領地と、名誉伯の称号(伯爵家ながら公爵家と同格)を授けた。  さらに類まれなる美貌の持ち主として名高い、妹のエリュス王女を妻として与え、縁戚関係を結んだのである。  さすがのジェミナイも、そこまでされては文句の言いようがなかった。  ザナディ公王の地位を欲するなら、自分が公王家の血筋を引いていると証明しなければならなかったという事情もあるのだろうが。  かくしてイェンクーンは、この問題を無事収め、イスラファーン王国は北部でも一、二を争う大国となったのであった。  そして人々から『聖賢の王(ホワイト・ロード)』という仇名を贈られ、北狼帝国の脅威から世界を護った英雄、さらにイスラファーン王国の名君として、後の世まで讃えられる事となった。  一方のジェミナイは、『聖賢の王』の対を成す者という意味で、人々から『黒衣の公子(ブラック・プリンス)』という仇名を贈られた。  その時に、ジェミナイ・ブラックタワーと改名し、獄塔傭兵団の塔の紋章を家紋とした。  そしてブラックタワー家は、イスラファーンの名家として長く栄えたのである。    ********** 「まあ、話は大体そんなところだ。ちゃんと聞いてたか?」  ようやく話を終えたダグボルトは、テーブルに頬杖をついてうつらうつらしているアルーサに尋ねた。  その瞬間、アルーサは急に目を見開いて驚いた顔をする。 「な、何でアタシに言うのよ! 聞いてたわよ、勿論。そんなの当然でしょ!」 「思いっきり寝てたくせに、よくそんな事が言えるな」 「アンタ、睡眠学習も知らないの? 起きてる時より寝てる時の方が、知識を吸収しやすいのよ。そんなの常識でしょ、常識」 「そんな学習法、聞いたこともないぞ」  疑り深げに言うと、アルーサはムッとした表情になる。 「とにかくあるって言ったらあんの! それより長々と話してたけど、ジェミ何とかって奴、魔女とか『黒の災禍』とは全然関係なさそうじゃん。『猛禽の女郎』が言ってた黒幕って、ホントにそいつ? 同姓同名の別人とかじゃないの?」  そう言われてダグボルトは、一瞬はっとしたような顔をする。  しかしすぐに、その表情を打ち消した。 「いや、それは無いと思う。『猛禽の女郎』は、黒幕と名指しした『黒衣の公子』が、ジェミナイ・ベルドニャックだと認めていたからな」 「そっかあ……。でもそのイェン何とかも、国を丸ごと奪っちゃったって酷くない? よくそれで『聖賢の王』なんて呼ばれてるわね。盗っ人はなはだしいってやつじゃん」  それを聞いて、ダグボルトは思わず苦笑いを浮かべる。 「それを言うなら、盗っ人猛々しい、だろ。まあ確かに、イェンクーンがザナディ公国を掠め取ったのは汚いやり口だな。しかもジェミナイを自分の臣下にしたのは、長い目で見れば大失敗だったんだ」 「失敗?」 「ブラックタワー家は、ザナディ公国の旧貴族の集まりである、南部貴族連合の指導者的立場として、国内外に強い影響力を持つようになった。そしてジェミナイがエリュス王女を妻に娶った事によって、イスラファーン王家の分家となった子孫達は、王位継承に度々介入するようになったんだ。要するにイスラファーン王国は、領土を大幅に増やした代償として、ブラックタワー家っていう危険な毒蛇を飼う破目になったわけだ」  ダグボルトの脳裏に、膏血城で出会ったイザリア王女の言葉が蘇る。 ――イスラファーンが完全に失われたというのなら、私の力ではもはやどうする事もできません。それにあの国には悲しい思い出が多すぎます……。  そう言ってイザリア王女は、イスラファーン王国の再建を拒否したのだ。  あれは父と二人の兄を失った悲しみもあったのだろうが、ブラックタワー家のような危険な一族と、二度と関わり合いになりたくない気持ちもあったのだろう。  何しろ彼女を魔女として告発したのは、他の誰でもないブラックタワー家の人間、バーティス・ブラックタワーだったのだから。 「これはこれは。ストーンハート・ファミリーが勢ぞろいだね」  思いがけない台詞と共に、テュルパンが食堂に入って来た。 「ファミリー?」  訳が分からず首を傾げるダグボルト。 「いやあ、君が二人の娘に囲まれる父親みたいに見えてね。ここに入ってきた時に、家族団らんを邪魔するようで、ちょっと申し訳ない気持ちになったのさ」 「はあ? 何でアタシが、このオッサンの娘なんかにされなきゃいけな――」  思わず口を挟みかけたアルーサだったが、テュルパンが席に着いたのを見て急に立ち上がった。 「アタシ、もう食べ終わったから部屋に帰るわ。じゃあね」  そう言うなり食堂を飛び出して行ってしまう。  自分の食事に掛けられた布を外した時、テュルパンはその行動の理由を理解する。 「アルーサああッ!!」  怒りと悲しみの入り混じった叫びが食堂の壁を震わせた。
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