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 夜空の中心で青白く輝く大きな満月が、一面に広がる雲の海を優しく照らし出す。  月明かりで雲の上に映し出されるのは、真っ直ぐ北へと飛ぶ二つの影。  一つは具象化した神気の鎧、『神鳴槍の神具』に身を固めたアルーサ。  背中の四枚の翼が風を孕み、光り輝く皮膜を震わせて、虚空に軌跡を描いて滑空する。  もう一つは大柄な黒きマンティコア(獅子の身体に、大きな蝙蝠の羽と、蠍の尾を持つ伝説上の怪物)に跨る『黒獅子姫』。  彼女の後ろに座るダグボルトは、遠慮がちに細い腰に腕を回していた。  三人は夜空を賑々しく飾りたてている、星々のジグソーパズルの一片になったかのような、至福の一時を味わっていた。  だがそんな時間も永遠に続くわけは無く、徐々に白々と空が明けていく。  不意に足下の雲が途切れると、眼前に見慣れた赤い砂は無く、代わりに灌木の点在する荒野が広がっていた。  レウム・ア・ルヴァーナを発って僅か二日で、三人は赤竜砂漠を越えて北部に辿り着いていた。  ダグボルトと『黒獅子姫』が、南部に向かうための砂漠越えに一週間かけて、しかも遭難しかけた頃を思うと隔世の感がある。  それ程までに空の旅は順調だったのだ。 「日も昇ったし、そろそろ休んだ方がいいんじゃないか?」  唸りを上げる風を切り裂くような大声で、『黒獅子姫』を気遣うように言った。  しかし『黒獅子姫』は、ちらりと振り返ると笑顔を見せる。 「まだ大丈夫じゃ。あと二、三刻も飛べばオシモドゥス王国に着けるんじゃし、このまま一気に行ってしまうのじゃ……」  それはか細い声であったが、風の隙間を潜り抜けるようにダグボルトの耳にきちんと届いた。  無理をさせたくなかったが、そう言われてしまっては仕方ない。  やむなくダグボルトも了承し、三人は空の旅を続ける。  しばらくは荒野が続いていたが、半刻程過ぎると、やがて広々とした草原が見えてきた。  朝靄に包まれた草原の中心部に、巨大な古城のシルエットが浮かび上がる。  すっかり枯れて赤茶色になった蔦が、城を覆い尽くしていた。  ダグボルトはその景色に見覚えがあった。 (あれは膏血城――エイン・デルシス! 懐かしいな。俺とミルダがあそこで戦ったのは、もう一年も前なんだな)  朝日を反射してきらきらと輝くハウラ大草原を見ていると、獅子に乗った『黒獅子姫』と競争した事をふと思い出す。  そしてその後、酷い筋肉痛に悩まされた事も思い出し、ダグボルトは一人苦笑する。  思い出に浸っているうちに草原の緑は途切れ、今度は東方にシェローナ山脈の粗削りな山肌が現れる。  麓にあるのは高い城壁に囲まれた街――グリフォンズロック。  街の中心部には闘技場(コロッセオ)があり、上空にいる三人にも聞こえるほどの歓声が上がっている。  その歓声は、ダグボルトに剣闘士として戦った日々を思い出させた。  そして己が手に掛けてしまった赤毛の少女の事も――。  一瞬、ダグボルトはここで降ろしてくれと頼みかけた。  この機会に、リシャエラの墓参りをしておきたかったからだ。  しかし、ここで時間を割くわけにはいかないと思い直し、代わりに心の中で黙祷を捧げた。 (いつか、ちゃんとした形で墓参りするから、今はこれで許してくれ。リーシャ……)  グリフォンズロックもぐんぐんと遠ざかっていき、やがて懐かしのハイント村が見えてくる。  朝食時とあって、家々の煙突からは煙が立ち昇っている。  そして村の北の荒野には、蔦に覆われた古城がぽつんと聳え立つ。  ダグボルトにとって、そこが全ての始まりの場所であった。  『黒獅子姫』との出会いの地。  そして魔女との戦いを決意した日――。  一年前の出来事が、まるで昨日の事のように思い起こされ、ダグボルトは遠い目になる。 (遅々とした歩みだが、あれから着実に前へと進んでるんだ。もう一息。あともう一息で、戦いを終わらせる事が出来る……)    ********** 「ねえ、今どこら辺? お腹空いたし、あそこで何か食べて今日はもう休もうよ」  太陽が空の中心に達する頃、唐突にアルーサが言った。  彼女が指差す小高い丘の上には、石造りの城壁に覆われた大きな街があった。  細い河が街を横断する形で流れ、中心部にある中州には巨大な城が聳え立っている。  荷物の中から地図を引っ張り出したダグボルトは、さっそく現在位置を確認する。 「ええと……。あっ! どうやら俺達は、いつの間にかオシモドゥス王国の領内に到達してたみたいだぞ。あれは王都ホグダイだ」  ダグボルトは『黒獅子姫』の背中をつつくと、アルーサの提案通り、ホグダイの街で休まないかと尋ねた。 「うむ……。構わんのじゃ……」  ぎこちなく頷く『黒獅子姫』。  力の抜けた声を聞いて、彼女がどれ程疲弊していたか、今更ながらに気付く。  主である『黒獅子姫』の体調を反映してか、マンティコアの身体からは、ぼろぼろと蟻が剥がれ落ち、次々と消滅していた。  快適な空の旅が、一変して墜落死の危機に変わり、ダグボルトはヘルムの中で顔面蒼白になる。  だがそれでも、マンティコアはどうにかホグダイの近くの丘に着陸した。  そしてそこで力尽きたように倒れ、黒き身体が一瞬にして塵のように崩れ去った。  マンティコアの身体から滑り落ちそうになる『黒獅子姫』を、ダグボルトはすんでのところで受け止めた。 「何で無理したんだ。俺の言う通り、途中で休めばよかったのに」 「すまんのう。ちょっと焦っておったようじゃ……。最近ずっとおぬしの足を引っ張っておったから、少しでも役に立とうと思ったのじゃ……」  『黒獅子姫』はそう言うと申し訳なさそうに俯いた。 「俺はそんなの全然気にしてないぞ。今までずっと助け合ってきたんだ。余計な気を回さず、今まで通りでいいんだ」  いつになく優しい声でそう言うと、『黒獅子姫』の黒髪をそっと撫でた。 「ダグ……」  顔を上げた『黒獅子姫』は囁くような声で呟いた。  ダグボルトの緋色の瞳に映り込む彼女の顔には、以前は決して見せたことのない不思議な表情が現れていた。  単なる感謝の気持ちを越えた、特別な感情のようなものが――。 「おぬしがおらんかったら、今頃わしは――」 「ねえ、もしかして二人って付き合ってんの?」  二人の側に着地したアルーサが、『黒獅子姫』の言葉を遮るように、急に会話に割り込んできた。  ダグボルトは深いため息をつくと、アルーサを冷ややかな目で睨みつける。 「俺達はそういう関係じゃない。勝手に恋愛方面に結びつけようとするな」  その言葉を聞いた『黒獅子姫』の瞳に、一瞬哀しげな光が宿る。  だがアルーサの方を見ていたため、それに気付く事はなかった。 「それより荷物を持ってくれ。俺はミルダをおぶってくから」  マンティコアが消滅した場所には、小型の背負い袋が落ちていた。  今までマンティコアの体内に収納されていたものだ。  空を飛ぶには荷物を軽くする必要があったため、二、三日分の水と食料しか入っていない。  それでもアルーサは背負い袋を拾うなり、さっそく重いだの何だのと、ぶうぶう文句を言い始める。  ダグボルトは相手をする気にもなれず、さっさとホグダイに向けて歩いていってしまった。  ホグダイの街の城壁には、飛び立たんとする白鳥の旗が幾つも掲げられていた。  ウォズマイラが見せたパンフレットに描かれていたのと同じものだ。  だとすると、この街は北モラヴィア人民戦線の管理下にあるのだろう――ダグボルトはそう推測した。  城門をくぐり抜けて街に足を踏み入れると、昼食の時間とあって、通りは人でごった返していた。  ダグボルトは、城門近くの宿屋で部屋を三人分取ると、一室のベッドに『黒獅子姫』を寝かせた。  相当疲れていたらしく、ベッドに横たえるや否や、すぐに吐息を立ててぐっすりと眠ってしまう。  彼女の細身の身体に毛布を掛けると、部屋を後にした。  鎧を脱いで寛いだ格好になり、一階の酒場兼食堂に行くと、いつの間に追いついたのか、一番奥のテーブルにアルーサがいた。しかも彼女の目の前には、すでに料理がずらりと並んでいた。  街を流れる川で釣られた鱒の塩焼き、分厚いベーコンとチーズを挟んだサンドイッチ、さらには八等分に切り分けられた蜂蜜パイなどなど。  アルーサはサンドイッチを口いっぱいに頬張り、うっとりと幸せそうな顔をしている。  ダグボルトも正面の席に着くと、すぐに若いウェイトレスを呼んで料理を注文し始めた。 「ご注文は以上でしょうか?」  一通り注文を終えるとウェイトレスが尋ねる。  するとダグボルトは、急に思い出したかのように、アルーサの蜂蜜パイを指差した。 「追加であれと同じのを頼む」  しかしウェイトレスは申し訳なさそうにこう言った。 「済みません。蜂蜜は品不足でして、お客様に出せる蜂蜜パイはあれが最後になります。代わりにブルーベリーパイならお出しできますが、いかがいたしましょう?」 「ブルーベリーか……」  顎に手を当てしばらく熟考していたが、酸味が苦手なのもあって結局は頼まなかった。  代わりに物欲しそうな目つきでアルーサをじっと見つめる。 「言っとくけど絶対にあげないからね」  ダグボルトの視線に気づいたアルーサが冷たく言った。 「一切れ……」 「だーーーめ! いい年したオッサンがおねだりとか、ゲロ吐きそうなくらい気持ち悪いんだけど」  アルーサは辛辣な言葉を吐くと、蜂蜜パイを一切れ頬張った。  蜂蜜の複雑な甘さが口いっぱいに広がり、満足げなため息をつく。 「甘~い! これ、アタシが今まで食べたパイの中で一番おいしいかも。食べられなくて残念だったわねー、ダグ」  勝ち誇るような口調で言うと、次のパイを口の中に放り込もうとした。  だがその手が急にピタリと止まる。 「ヒッ!」  引き攣るような声を上げて、アルーサはパイをテーブルに落としてしまう。  黄金色のはずのパイが、なぜかどす黒く染まっていた。  しかも表面がざわざわと蠢いている。  よく見るとそれは黒蟻であった。  何百匹もの蟻が、パイの表面にびっしりと纏わりついている。  手にしていた一切れだけでなく、皿の上のパイも同様の惨状であった。  アルーサの顔は一瞬にして青ざめ、全身に鳥肌が立ち、ぶるぶると身体を震わせた。 「ぐへえええッ!! 気持ち悪ッ!! な、何なのよ、これ!! この店の衛生管理ってどうなってんの!? これじゃ食べらんないじゃん!!」  その言葉を聞いたダグボルトの目がきらりと輝いた。 「蟻ぐらいで大げさな奴だな。食えないなら俺が代わりに食ってやるぞ」  そう言うとダグボルトは皿を奪い取り、左手で蟻を払いのけると、勢いよくパイの一切れにかぶりついた。そして口の中に広がる、ねっとりとした絶妙な甘さに思わず身震いする。 「ねえ、ダグ。アンタの腕……」  ダグボルトの右腕の肘から先には、ぴったりとした黒の長手袋のようなもの嵌められていた。  だが今では、その形を失ってただの黒い塊となり、テーブルの上でもぞもぞと蠢いていた。 「言い忘れてたが、こいつはミルダの魔力で創られた蟻の義手だ。鋼の義手と違って自由自在に動かせるし、魔女を倒す武器にもなるんだ」 「ちょっと待ってよ!! じゃあパイに蟻がたかってたのって、店のせいじゃなくて、アンタのせいじゃん!!」 「おいおい、俺は悪くないぞ。文句ならこいつらを創ったミルダに言え。普段はちゃんと俺の考える通りに動くんだが、好物の甘い物を見ると、こんな風に勝手に動いちまうんだからな。まったく困った奴らだよ」  そう言いつつも、パイの最後の一切れを平らげてしまった。  そして満足げにゲップをひとつ。  顔を強張らせたアルーサは釈然としない様子で尋ねる。 「……ねえ、そいつらって勝手に動いたんじゃなくて、ホントはアンタが指示してパイに群がらせたんじゃないの?」  二人の間に気まずい沈黙が流れる。  ダグボルトは何度か不自然な咳払いすると、あらぬ方向を見ながらこう答えた。 「さあ、何の事だ? お前が何を言ってるのか、俺にはさっぱり分からん」  次の瞬間、アルーサは両手をテーブルに叩きつけて勢いよく立ち上がった。  その音に反応して、周りにいた客達も一斉に彼女の方を見る。 「はああああ!? じゃあ何でアタシと目ェ合わさないのよ、この嘘つきッ!!」  アルーサは鬼のような形相でダグボルトを睨み付ける。  しかしダグボルトの方は相変わらず視線を反らしたまま、竹の楊枝で歯をせせっている。  そのふざけた態度がアルーサの怒りにさらに火を注いだ。 「うわッ、信じらんない!! 何なの、コイツ!! ホント大人って最低で薄汚い生き物ね!!」 「確かにそうだな。俺もそう思う」 「何で他人事みたいに言ってんのよ!! さっさと死んで詫びなさいよ!! 『ハラキリ』しなさい、『ハラキリ』!!」  アルーサの口から、思いがけない東方諸島の言葉が飛び出してきた。  『猛禽の女郎』とのゲーム対決で知って以来、使うタイミングをずっと窺っていたのだろう。  ダグボルトは苦笑しつつも首を横に振った。 「無茶言うな。いちいちパイごときで『ハラキリ』してたら、腹がいくつあっても足りないぞ」 「だったら『ユビツメ』でいいわよ!!」  するとダグボルトは、蟻の義手の小指を千切って彼女の前に置いた。 「ほら、詰めた」 「そっちの指じゃないッ!!」  それからしばらく、二人はああだこうだと揉めていた。  だがダグボルトは、メニューに載っているスイーツを片っ端から奢る事によって、何とかアルーサを宥めるのに成功した。  ようやく食事を終えて膨れた腹を撫でていると、ダグボルトはふとある事を思い出す。 「『ユビツメ』といえば、『猛禽の女郎』の小指はまだ持ってるのか? 肌身離さず持つように言われてたが」 「うん、持ってるわよ」  アルーサは上着の中から涙型のペンダントを取り出した。  ペンダントにはつまみがついていて、ひねると蓋が開く構造になっている。 「指に直接触っちゃうと、アタシの神気に干渉して、こないだみたいに痛い思いをしちゃうでしょ。だからこれに入れて保管してんの。でもこいつが幸運をもたらすってホントかなあ? だってテュルパンに朝食は抜きにされるわ、アンタにパイは取られるわで、今まで全然いい事ないんだけど。……あ、そうだ!」  アルーサは、急にズボンのポケットに手を突っ込むと、サイコロを三つ取り出した。 「ねえ、ちょっとこれで勝負してみない?」  手の中でサイコロを弄ぶアルーサ。  それを見てダグボルトは眉をひそめる。 「お前、いつもそんなもの持ち歩いてるのか? 子供のうちからギャンブルに嵌ると、将来ろくな大人にならんぞ」 「何よ、アンタってホント説教くさいわね。この小指の効果がどんなもんか、試すチャンスを探してただけよ。それに『猛禽の女郎』との勝負で、アタシにギャンブルの才能があるって分かったしね」 「プッ! お前に? ギャンブルの才能が?」  思わず噴き出すダグボルト。  そして笑いを堪えながらすぐにこう続ける。 「言っておくが、ギャンブルはそんな甘っちょろいもんじゃないぞ。お前みたいにいきあたりばったりの直感勝負で、ずっと勝ち続けられるなら誰も苦労はしない。ギャンブルの種類にもよるが、大抵の場合は、相手を出し抜く知略がなきゃ駄目なんだ。つまり大事なのはここだよ、ここ」  そう言うとダグボルトはこめかみを指でつついた。  だが今度はアルーサの方が噴き出した。 「プフフッ! 知略ぅ~!? もしかしてこないだの勝負の時の、アンタの作戦の事? あんなの、知略なんて呼べるほどのもんでもないじゃん? バッカじゃないの~?」  アルーサは眉をハの字に歪ませ、小莫迦にするような表情で言った。  あの冷静沈着な『猛禽の女郎』ですら、この表情を前にしては苛立ちを隠せなかった程である。  人を煽る能力にかけては天才的と言う他はない。  ダグボルトは、発作的に顔面に拳を叩き込みたくなるのを必死に堪える。 「……『猛禽の女郎』を動揺させて、最後にミスを誘ったじゃないか。あんな強敵を相手に、他にどんな勝ち方があったって言うんだ」 「でもあいつ、途中で立ち直ってたじゃん。アタシの天才的な直感と引きの強さがなきゃ、最後の勝負は勝てなかったわよ。つまり勝てたのはアタシのおかげってわけ」 「言っとくが、俺がお前にカードを引かせたのは、あんな真剣勝負で何も考えずに適当に引けるようなイカれた奴は、お前ぐらいしかいなかったからだ。お前のいきあたりばったりな行動が、『猛禽の女郎』を混乱させる事を見越した、俺の作戦勝ちってわけだ」 「だったらアタシの直感と、アンタの知略のどっちが優れてるか、『ハイ・アンド・デッド』で決めましょうよ。もちろんお金を賭けてね!」  そう言うとアルーサは、お金の入った皮袋をぴしゃりとテーブルに叩きつけた。 「ああ、望むところだ!」  ダグボルトも受けて立つとばかりに、懐から取り出した財布をテーブルの上に置く。  だがその一方で、脳内の冷静な部分が、この状況に疑問を呈していた。 (……ん? よく考えてみると、何でこんな事になってるんだ? まさか俺とした事が、こいつの挑発にまんまと乗せられたっていうのか?)  しかしダグボルトは、すぐに首を振ってその考えを頭から締め出す。 (いや、これはむしろいい機会だ。こいつには最近舐められっぱなしだし、ここらで一度、大人の恐ろしさってやつをたっぷり味あわせてやらんとな!)    **********  夜の帳が降り、カーテン越しの仄かな月明かりが、寝室の隅のベッドに投げかけられる。  だがほんの僅かの月明かりでさえ、今のダグボルトにはやけに眩しく感じられた。  ブーツも脱がずにベッドに横たわる彼の側には、潰れたカエルのようにぺたんこになった財布。  結局、七回勝負して、ただの一度もアルーサに勝てなかった。  高笑いするアルーサの顔を思い出すだけで、口の中に残る蜂蜜パイの甘味が、ほろ苦く感じられるほどだ。 (最後の勝負は、サイコロ二個じゃなく一個にしておくべきだった。いや、それ以前に一度負けた時点でさっさと勝負を切り上げるべきだったんだ。今日はあまりにツキが無さ過ぎた。柄にもなくムキになったばかりに、あんなガキに有り金を巻き上げられるとはな。我ながら情けない……)  しかし自分の思考が脇道に逸れている事に、ダグボルトはようやく気付いた。 (――違うッ! 何を考えてるんだ、俺は! ここまで来たのは『黒衣の公子』について調べるためだ。今はその事に集中しなきゃいかんのに、何でこんなくだらん事に時間を潰してるんだ)  ベッドの中で寝返りを打ちながら、ダグボルトはこれからどうすべきかを思案し始めた。 (明日にはミルダも回復するだろうから、すぐにここを発とう。だがその前に、一応カレンティア周辺の情勢を調べておいた方がいいな。他には……空を飛んでいけば二、三刻程で着くだろうから、食料は手持ちの分で足りるし……。ああ、水だけはここで補給しておこう……)  徐々に睡魔が襲ってきた。  それでも微睡の中で、ぼんやりと思考に耽るダグボルト。 (この程度の事は……今日のうちに全部済ませられたのに……あいつのせいでペースを狂わされて、無駄な時間を……。だがやっぱり……最後の勝負は……サイコロ一個にしておくべきだった……)  ダグボルトの意識は途絶え、安らかな眠りにつく――はずだった。  しかし急に、窓の外から調子はずれな歌声が聞こえてきて、一瞬にして目が冴えてしまう。 (今度は一体何だ!?)  ベッドから飛び起きると窓の側まで行った。  窓から身を乗り出して外を見ると、酒瓶を大事そうに抱えた男が、人気の無い狭い裏路地にうずくまって大声で歌っていた。どこかで聞いた事のある曲だが、かなり酔っているようで呂律が回っておらず、歌詞がさっぱり分からない。  男を怒鳴りつけようと口を開いたが、少し迷った末に口を閉じる。 (あのぐらいは大目に見てやるか。ああいう酔っ払いがいるのは、この街が平和な証拠だからな)  とはいえ、うるさい事には変わらず、少しでも歌声を遮れればと窓の鎧戸を降ろそうとした。  しかし鎧戸に手を掛けた瞬間、唐突に歌声が止んだ。  不審に思って、もう一度窓の外を見たダグボルトは硬直する。  まるで巨大な腫瘍のような、青白くブヨブヨとした肉の塊が、男の上半身に覆いかぶさっていた。  男は口を塞がれて悲鳴を上げる事すら出来ず、足を小刻みに痙攣させている。  そして微かに嗅ぎ慣れた匂い――鉄臭い血の匂いが漂ってきた。  異常な状況を前に、ダグボルトの身体は瞬時に反応した。  ベッドの下に置いてあったスレッジハンマーを手に取ると、窓の外に身を躍らせる。  裏路地の石畳に着地するや否や、すぐに武器を構え戦闘態勢を取る。  だが奇怪な肉塊は、現れた時と同じように忽然と消え失せていた。  あおむけに倒れている男の身体は、もはやピクリとも動かない。  空には雲一つ無く、月が煌々と輝いているが、建物に挟まれて影になっている裏路地は大分薄暗い。    周囲に警戒しながら男に近づいたダグボルトは、ぽたぽたと血の滴る頭部を見て思わず顔を歪ませた。 (脳を喰われてやがる……)  男の頭頂部には握り拳大の穴が開いており、そこから空洞になっている頭蓋骨がはっきりと見える。  穴からは脳の欠片と鮮血が零れ落ち、石畳の溝に溜まっていく。  さらに死体の仔細を調べようとした瞬間、不意にダグボルトのうなじの産毛がちりちりと逆立った。 (殺気ッ! 後ろからだ!)  振り返ったダグボルトの目に映るのは、建物と建物の間の僅かな隙間から溢れ出てくる、青白い肉塊の姿であった。  肉塊から飛び出してきた四本の触手を際どいところでかわし、後ろに下がって距離を取った。  ダグボルトと相対した肉塊はむくりと身体を起こす。  すると人型のシルエットが現れた。  青白くぬめりを帯びた肌、身長二ギット半程のぽってりとした巨体、手足の先からは指の代わりに無数の触手が生えていて、ゆらゆらと蠢いている。  頭部はつるつると禿げあがり、のっぺりとした鼻の無い顔。  目は死んだ魚のように虚ろで、黄ばんだ歯が覗く口の周りからは、四本の短い触手が垂れていた。 ――すなわち魔女の尖兵、『蛸の異端』。 「まさか平和な街中で『異端』に遭遇するとはな!」  ダグボルトはスレッジハンマーを振りかざし、敢然と向かっていった。  機先を制した一撃が、狙いを過たず『異端』の禿頭に命中する。  だが必殺の一撃を与えたはずのダグボルトは戸惑う。 「こいつ、骨が無い!?」  ハンマーによってぐにゃりとしたへこんだ頭部は、文字通り蛸のような柔らかさで、衝撃を完全に吸収していた。そして不快な動きで肢体をうねらせながら、両腕の触手でダグボルトの巨体を絡めとった。  ダグボルトは全身に力を入れ、触手を振りほどこうとするが、もがけばもがくほど身体に食い込んでくる。締め付けられた右手からスレッジハンマーが滑り落ち、カランカランと大きな音を立てて石畳の上に転がった。  必死に抗うダグボルトを前に、『蛸の異端』はぱっくりと口を開いた。  鋭い歯が円形に並ぶ口からは、先に穴の開いたストローのような舌が突き出し、ダグボルトの頭蓋骨から脳味噌を吸い出そうとする。  赤々とした咥内がダグボルトの眼前に迫ったその瞬間、蟻の義手がざわざわと蠢いた。  同時に彼の身体を拘束していた触手から黒煙が上がり、肉の焦げる匂いが漂い始める 「キュピルルルルルルルルルル!!」  『蛸の異端』は、聞く者の鼓膜をビリビリと震わせるような、奇怪な悲鳴を上げて後退した。  ダグボルトを締め付けていた触手は黒く焼け焦げている。  蟻の義手の蟻酸の炎によるものだ。  触手から解放されたダグボルトは、石畳に落ちたスレッジハンマーを拾い上げ、再度戦闘態勢を取った。 「成程、炎なら有効ってわけか。それならいつも通りのやり方でいかせてもらおう!」  蟻の義手がまたざわざわと蠢き、一部がスレッジハンマーに纏わりついた。  漆黒のスレッジハンマーを手に、ダグボルトは再び突進した。  それを見た『蛸の異端』は、ぐにゃりと蛇のように身体をくねらせて攻撃から逃れようとした。  でっぷりとした体躯が。まるで液体のように形を失い、するすると建物の隙間に滑り込んでいく。 「逃がしはしないッ!!」  ダグボルトは左手で『蛸の異端』の足の触手を掴み、腕にグルグルと巻き付けると、力の限り引っ張った。『蛸の異端』はなおも逃れようとするが、ダグボルトの人間離れした怪力によって、徐々に建物の隙間から引きずり出されていく。  振り上げられた漆黒のスレッジハンマーが、魔力の光で青白く輝く。  ダグボルトは鬼のような形相でハンマーを振り下ろす――今度も狙いを過たず『異端』の禿頭へ。 ――プツン  突然、まるでトカゲの尻尾のように触手が千切れた。  全力で振り下ろされたハンマーは空を切り、抉られた石畳の石片が周囲にばら撒かれる。  攻撃を逃れた『異端』は忽然と姿を消していた。 「逃げたか? いや……」  『異端』が建物の隙間を移動する、ずるずるという音が、彼の耳には微かに聞こえていた。  全神経を集中させ、『異端』が襲いかかってくる瞬間を捉えようと身構える。  神経を研ぎ澄ませたダグボルトの耳は、ほんの微かな音ですら聞き逃さない。  大通りにたむろう客引きの娼婦の嬌声。  縄張りを巡って争う二頭の野犬の唸り声。  洗濯物が風ではためく音。  そして――。 「そこだーーッ!!」  ダグボルトは身体を反らせて、上空にハンマーを放り投げた。  触手を大きく広げて頭上から落下してくる『異端』めがけて。  『異端』の柔らかな身体がスレッジハンマーを包み込む。  同時にダグボルトは前方に転がって、落ちてくる『異端』を回避した。  次の瞬間、着地した『異端』の全身に紅蓮の炎がぱっと燃え広がった。  けたたましい悲鳴を上げて、石畳の上を転がり回る『異端』。  徐々にその動きが鈍くなり、しばらくすると完全に動かなくなった。  『異端』が息絶えたのを確認すると、ダグボルトはスレッジハンマーを拾い上げる。  その頃には戦闘の音に気付いた市民が、窓からおっかなびっくり顔を覗かせていた。  裏路地にも野次馬が入り込み、ダグボルトの周囲に集まって来た。  さらに野次馬の波を掻き分け、古びたプレートメイルを身に着けた衛兵が姿を現す。 「そこのお前ッ! 武器を捨てて地面に両膝をつけ!」  衛兵は腰に佩いたロングソードに手を掛け、威圧的な口調で言った。 「待ってくれ。俺はそこに倒れてる、酔っ払いを殺した『異端』を退治しただけだ。何も悪い事はしてない」  敵意がない事を示すために両手を上げ、相手を落ち着かせるようと穏やかな声で答える。  しかし衛兵は、なおも高圧的な態度を崩さない。 「いいからさっさと武器を捨てろッ!! 死にたいのか、この間抜けッ!!」 「だから俺は『異端』を……」  そう言いかけたダグボルトは顔を曇らせる。  『異端』は、魔女の魔力によって怪物に変生させられた人間であり、死によってのみ再び元の姿に戻る事が出来る。そしてダグボルトに殺された『蛸の異端』も、いつの間にか元の姿へと戻っていた。  黒焦げになった中年男の姿へと。 「ま、待ってくれ!! これは誤解だ!! そいつは人間に見えるが、元は『異端』だったんだ!!」  ダグボルトは必死に言い訳しようとするが、衛兵はまるで聞く耳を持たない。  気付けば十人近い衛兵に前後を挟まれていた。  すでに全員が武器を抜いており、一触即発の状態であった。 (こいつらを倒して、ここから逃げるのは難しくないが、そんな事をしても面倒が増えるだけだ。となると、ここはひとまず捕まっておくしかないな……)  仕方なくダグボルトは、スレッジハンマーを地面に置くと、その場に両膝をついた。  衛兵の一人が、背後からダグボルトをうつぶせに押し倒し、後ろ手に手枷を嵌めた。  衛兵の口から吐き出される生姜臭い息を嗅いで、思わず顔をしかめる。 (何てこった……。こんな事になるなんて、今日は本当にツイてない……)
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