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閉ざされた部屋
長い緊張が途切れ、男がうたた寝をした頃に、
目の前のカーテンが開かれた。
メガネをした小柄の女が見下ろし、
合図ひとつで後ろのサングラス姿の大男が
手元のスイッチを押した。
鉄の椅子に座っていた男の、
睾丸と肛門の間に電撃が走る。
激痛と絶叫の後で3度目の排尿。ただしくは失禁。
「おはよう。フヂタくん。」
広い室内に響くスピーカーからの音声。
目の前の女が、フジタの名を呼んだ。
ただ、発音はよろしくない。
ガラスから見えるのは黒髪で黒縁メガネの女。
黒色のジャケットに黒色のインナーシャツ、
黒色のネクタイと全身黒ずくめでいかにも怪しい。
それと同じ格好でスキンヘッドの大男は、
天井に頭がつきそうなサイズで遠近感を狂わせる。
一見すると拷問部屋だが
ふたりの拷問官はガラスの向こうの部屋で、
死刑執行人よろしくイスに電気を流すのみ。
室内は空調がなく非常に寒いが、
フジタは緊張からか恐怖からか、
頭の毛穴が開いて汗を垂らした。
「…お嬢ちゃんは何者だ?
ここはどこだ?
俺をどうするつもりだ?」
この場の不安を払い除け、
フジタは先に質問を浴びせた。
「日本人は質問が多いわね。
顔はレバノン人にも見えるけど。
私はテギュ、こっちはグラーヴよ。」
「婦女暴行の現行犯だ。」
「婦女? あれは人間か?」
グラーヴと呼ばれた色眼鏡にスキンヘッドの
いかにも寡黙そうな大男の言葉に、
フジタは眉間を歪ませた。
フジタの質問に、ガラスの向こうで
ふたりが顔を見合わせた。
ふたりの名前、テギュとグラーヴは
フランス語の発音記号を意味する偽名だ。
フジタは偽名を名乗るこの連中に、
自分が連れて来られた意味を再度考えた。
「あなた、ヴァンパイアのくせに
モノを知らないのね。」
「箝口令が敷かれているんだ。無理もない。」
「じゃあ、やっぱり。
あの女の血をわざと吸わせたのか、俺に。」
「あれは保健省の備品。
歩く腐った死体。ゾンビ。
あんたが血を吸った相手。」
「俺になんてもんを吸わせてんだ! チビ女!」
「グラーヴ。」
「痛ぇ!!」
死体の血を吸ったと知るや憤るフジタであったが、
テギュの命令ひとつで股間に電撃が走る。
フジタは痛みにうつむいて、
しばらく口から唾液を垂らす。
「私が話してる途中。
そういえばヴァンパイアの汚い唾液でも、
ゾンビに対して麻酔効果が機能するのかしら?」
「知らねぇよ。
なんせゾンビ相手なんて初めてだから。
こっちから質問はいいのか?」
「どうぞ。」
「アレが保健省ってことは、
あんたら国の人間か?」
「HIVって知ってる?」
「俺の質問は? 痛ぇ!」
「はい、口答えしない。」
「…エイズくらい知ってる。ゲイの病気だろ。
ヤク中どもが感染してるやつだ。」
「そんな認識か。」
ヒト免疫不全ウイルスの発見から
まだ数年しか経っていない。
フランスでは血友病患者にも
非加熱製剤による感染が拡大し、
権利や政治の問題で大騒ぎになった。
フジタが住んでいたイタリアでの
HIVの感染経路は主に性感染、
ヘロイン中毒者によるシリンジ使い回しと
それらの輸血、それから母子感染であった。
「ヴァンパイアにHIV問題はないのか?」
「俺を知ってるなら、そういうことだ。」
ウイルスは血液、母乳、精液、
腟分泌液に多く含まれる。
ヴァンパイアは血を栄養源にする怪物だが、
衝動で吸血行為に及ぶほど理性は乏しく
その数は年々減少傾向にある。
つまり感染してしまうと、
怪物どもはまともな医療を受けられず
野たれ死ぬことが多い。
偉そうな言い回しをしたフジタに、
グラーヴは3度目の電撃をお見舞いした。
「ちなみにアレは
HIVには感染してないわよ。」
「そりゃありがたい。
フランスは人体実験でもしてるのか。」
「フヂタは自分がヒトのつもりでいるのね。」
テギュに揚げ足を取られてヴァンパイアは黙った。
「世界各国でHIV撲滅の為に
ワクチンを研究している。
その副産物で開発されたのがあのゾンビ。」
「ワクチン打って歩き回る死体になったって?」
「そうよ。日本で開発されたワクチン。
製薬先進国が作ったその特効薬は、
大豆と枯草菌でできているの。」
「枯草菌…?」
「納豆を作る菌よ。」
「そうか…。あの女から発した
足の指の間みたいな臭いの正体は
納豆だったのか…。」
食欲を失せさせる黒ずむ茶色や臭い、
糸を引くあの光景を思い出してフジタはえずく。
それとテギュの納豆の発音も気になる。
「日本人のくせに
納豆に妙な偏見持ってるわね。」
「イングランド育ちなんでね。」
「偉そうに言ってるけど、
結局ろくなもの食べてないじゃない。
まあいいわ。その特効薬はヒトの体温で繁殖し、
他のウイルスや菌を寄せ付けなくなる。
それと同時に呼気で簡単に空気感染する。」
「空気感染だって?」
「呼気から大気中に芽胞を撒き散らすの。
暑さ寒さ、それから熱、乾燥にも強い菌。
それが納豆菌を使った迷惑なところね。
症状は眼瞼下垂、血色不良、言語能力の喪失、
それから歩行、平衡感覚の低下が顕著になる。
あとは指の壊疽。脈拍数の異常。
認知機能の――。」
「おいおい。」
「だから日本人には耐性があったのよ。
納豆に耐性のない外国人が使うと
性欲の低下と勉強や労働などの意欲の減衰、
他者への依存、責任転嫁、自殺率の上昇…。」
「そんなデタラメの承認がよく降りたもんだ。」
フジタの意見にテギュも、
グラーヴまでもうなずいた。
単一民族国家に等しい日本では、
新薬開発において人種や民族での
臨床結果をこれまで重視してこなかった。
「問題なのが感染者は、
脳がまるで機能しなくなるのよ。
そして面倒なことに感染者を脳死として
認定するにも、法整備に時間がかかる。
国を相手取って裁判にかけるのも同じ。
当然、人権問題もあって親族の同意も必要ね。
感染力が高く会社、学校、家族間で
感染者数が爆発的に増える。一家心中も増えた。
それにチーズやワインなんかの、微生物が関わる
発酵産業も大きな打撃を受けてね。」
納豆菌の繁殖力を考えれば、
他の菌など勝ち目はない。
「最悪、人類は日本人以外ゾンビ化する。」
「だからハワイか。」
以前、フジタが仕事に誘われたハワイには
年間200万人を超える日本人観光客が訪れ、
ゾンビの最初の感染が拡大した。
日本人観光客の増えるパリも、
もはや対岸の火事とはいかない。
そして日本人を偽っていたフジタには、
ゾンビになったハワイ人の女があてがわれた。
「それで俺が贖罪の山羊になったわけか。」
「潜伏期間は18時間。」
「それで、どうしたら開放してくれるんだ?」
「すると思ってるの?」
「ヒトの良心に期待してるだけだ。
あんたら、国の何者なんだ?」
「あぁ、てっきり気づいてるものかと思った。
対外治安総局、ご存知DGSEの
運用部門及び研究部門、
リサーチ・サービス付属の作戦部、
特殊作戦セクション・サービスZ。」
「サービスZ? ゾンビのZか?
そんな都合のいい部署聞いたことがないぞ。
お国の情報機関がなんで俺なんかを
ターゲットにしてんだ!」
「先週新設されたばかりだもの、
普通知らなくて当然よ。
それにあんたは日本人でしょ?
ゾンビに感染しても抗体があるんじゃない?
ヴァンパイア相手なら昨今わずらわしい、
人権問題にだって発展しないし。」
「ユダヤ人を焼いたナチ党と同じことをする。
っがぁ!」
「敗戦国同士、吠えてろ。」
フジタの過ぎた発言に、
グラーヴがスイッチを押した。
激痛に悶えるなか、
フジタはさらなる罵倒を思い浮かんだ。
フランスは第二次大戦で
ナチス・ドイツの侵攻に恐れてパリを明け渡し、
イギリスに逃げた亡命政権は
自由フランスを名乗る。
イギリスの手を借りてパリを取り返した、
シャルル・ド・ゴールが凱旋門をくぐった。
そして戦争終結後に、『四大戦勝国』を
ひとり主張している大間抜けがフランスであった。
しかしフジタは度重なる電撃による
股間の痛みで唾液が垂れ落ち、ろれつが回らず、
苦言を呈する気力も失せていた。
「ボウフラ程度の価値もないヴァンパイアめ。」
目の前の人種差別主義者を睨みつけた。
「あんたの血から抗体ができたら、
開放も善処してあげるわ。」
「…開放? そりゃ得意のギロチンか、
もしくは火炙りの間違いじゃないのか?」
「そんなことしたらあなた、
聖人になっちゃうじゃない。」
フジタはジャンヌ・ダルクほど純潔ではないし、
当然ながら敬虔でもない。首を切り落とされたり、
火炙りにされてはひとたまりもない。
ヴァンパイアはウイルスであっけなく死ぬ。
銀どころか鉛の銃弾で頭を撃たれれば死ぬし、
心臓を杭で打たれてもやはり人間と同じく死ぬ。
「フランスに戻ってきたのが運の尽きだ。
異常性欲者の仲間め。」
今こうして捕まって人体実験を受ける最中、
グラーヴの言い分はもっともだとフジタは思う。
10年近く前、パリに住む日本人留学生が
友人を銃殺し、死姦して食べた事件があった。
このセンセーショナルな事件は
世界中で取り上げられ、
ヨーロッパ在住のアジア人は差別され、
襲撃を受けることもあったという。
フジタはこの事件を機に
イタリアに河岸を変えた。
だがイタリアの気候はフジタの肌に合わず、
パリに戻ったことが彼の運の尽きだった。
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