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ーーーー「ふりっ風」が吹いて来たね。かいと、布団を取り込むのを手伝ってくれるかい?
僕はおばあちゃんのことを密かに魔女の末裔だと本当に信じきっていた。
それは何もおばあちゃんに手を握ってもらうと勇気が出るからだけではない。
おばあちゃんが「ふりっ風」という言葉を使ったあとには必ず夕立が来るからだ。
洗濯物が雨に濡れることはなかったし、無用な外出を控えたりすることもできた。
それは全ておばあちゃんのおかげだった。
そんな僕は野球の練習や試合がある時も必ずおばあちゃんの手を握って聞いていた。
「ふりっ風吹いてる?」
僕は野球が大嫌いだった。
それはエラーをしたり三振をしたりすると必ず怒鳴られるからだ。
怒られても上達しないのに、どうして毎回嫌な気持ちを増幅させられなければならないのか。
球場が雨でぬかるんで野球が中止になることを期待して、僕はいつもあばあちゃんの手を握って聞いた。
そしておばあちゃんは僕の手を握りながら答えてくれる。
「そうだねぇ。まだ吹いてないけど、あの山の向こうの雲がこっちに来れば吹くかもねぇ」
たぶんあれは孫に希望を持たせるためについた嘘だったと思う。
それでも僕はその言葉を信じてきって球場に向かった。
そして雨は降らなかった。
しかも僕は2回も三振してしまった。
つまり2回も怒鳴られた。
僕は帰宅するとすぐにおばあちゃんのところにいって叫んだ。
「うそつき!!!」
それはまだ元気なおばあちゃんと交わした最後の言葉だった。
次の日、学校から帰ると机の上に置き手紙があった。
母親の字でおばあちゃんと病院に行っている旨が書いてあった。
僕は背中がゾワッとした。
そしてすぐに父親も帰宅した。
「あれ、今日は早いんだね」
「おばあちゃんが"きとくじょうたい"らしい。病院に行くから、かいとも支度してくれ」
危篤状態という単語をその時の僕は理解していなかった。
それでも普段温厚な父親がこれほど慌てているのだから、何か良くないことが起きているのだということは充分に理解できた。
父親の車で病院に向かい、受付でおばあちゃんの病室を聞く。
苦手なエレベーターに我慢して乗り、突き当りの部屋の手前側のベッドにおばあちゃんは寝ていた。
病室には親戚の叔父ちゃんや従兄弟も来ていた。
そして全員の視線の先にはおばあちゃんが寝ていた。
いつもより痩せていた。
ほとんど骨と皮だけだ。
僕の背中がまたゾワッとした。
すると母親が僕の背中に手を当てながら言った。
「もう目を開ける力も残ってないけど、耳は聞こえてるって。だから最後のあいさつをしよう」
僕は最後のあいさつという意味が分からなかった。
おはようでもなく、おやすみでもなく最後のあいさつとはどんなものなのか。
僕は怖くなった。
何か真っ黒いものに吸い込まれてしまうような感覚。
目の前に横たわる死に対して相応しい言葉を僕はまだ知らなかった。
その夜、僕は夢を見た。
おばあちゃんと一緒にキャッチボールをしていた。
そしてすぐに雨が降ってきた。
軒先に二人で避難しておばあちゃんの手を握った。
その温かさは間違いなくおばあちゃんの手だった。
目を覚まし階下に降りると、僕の家には多くの親戚や知らないおじさんおばさんたちが来ていた。
多くの人が着物を着ていて、涙を浮かべている人もいた。
そしてその中心には僕のおばあちゃんがいた。
おばあちゃんは寝ていて珍しく化粧をしている。
そして僕はゆっくり近づいていく。
その姿に気づいたお母さんが僕の手を取って、一緒におばあちゃんの横に座ってくれた。
そこで僕はおばあちゃんの手に触れようとした。
いつもの温かいおばあちゃんの手に触れて、勇気をもらおうとした。
触れようとして腕を前に伸ばした。
けれどおばあちゃんに触れる前に僕の目からは止めどない涙が溢れてきた。
止めようとして、それでも僕は涙を止めることができなかった。
嗚咽の混じった声だけががその場に響いていた。
ジメジメした家の中を風が駆け抜ける。
僕はそれがふりっ風ではないことだけは知っていた。
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