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七月も折り返した頃だった。
遅めの梅雨がようやく明けたと思ったら、すぐに酷い暑さになった。蒸し風呂のような外の空気を遮断し、冷房を存分に効かせる。駅前の通り沿いにひっそりと構えるカフェの店主は、まるでそれが映画のワンシーンであるかのように、窓の外を行き交う人の流れをぼんやり眺めていた。
隣で店主の妻が洗い物をしている。そのすぐ横で小さな顔を覗かせているのは、今年幼稚園の年長と年少になった二人の娘たち。盛んに何かを話しかける彼女らに、母親は曖昧な返事を返している。
カウンターには去年まで学生だった青年が一人、静かにレモンスカッシュを飲んでいる。思った会社じゃなかった、と愚痴をこぼしに来たのを、優しく見守ってくれるこの店は、彼にとってこの上ない救いの場所だった。
「俺、会社作りたいんすよね」
青年のグラスの横に二、三冊、自己啓発本が積まれている。
「そりゃあ大変だね」
店主は静かに答えた。
青年はこの春からIT関係の会社に就職した。IT関係と片付けて仕舞えば簡単だが、彼は店舗の集客など、いわゆるMEO対策をサポートする仕事だった。とはいえ、自分が昔から通っているこの店に話を持ちかけるようなことはしなかった。ここは彼の中では不可侵な、それでいて故郷のような場所であり、無闇に人で溢れ返させることは、彼の本意ではなかったからだ。
「今はそのための土台作りなんすよ」
青年の言葉に、店主の妻が振り返った。
「若い時に色々経験するのは良いことよね」
青年は少し嬉しそうに視線を前に戻した。
「いらっしゃい」
ぼんやりしていた店主が機敏に立ち上がった。来客だ。入ってきたのは若い女性の二人組。見たところ大学生のようだ。可愛い、おしゃれ、と静かにはしゃぎながら店内を見渡している。
昨今のレトロ喫茶ブームも相まって、若い女性の客足は増えている。おおかたクリームソーダでも頼んで、アイスがドロドロになるまで時間を掛けて写真を撮り、SNSに投稿するのだろう。店主と妻はそんなことは分かっているのだろうが、いつも通りの丁寧な優しい接客でオーダーを取る。
そして案の定クリームソーダ二つが彼女らの元へ運ばれる。小さな歓声を上げながらシャッター音が鳴り響く。青年はそんな二人組の気配を背中に感じながら、レモンスカッシュを一口喉に流し込んだ。
「今は何でも携帯で調べられる世の中だね」
店主がぽつりと言った。
「そうですね」青年は苦笑いして答えた。
「〇〇くんの仕事もそうでしょ? なんかネットとかでお客さんを集めたり…」
「まあそうですけど、僕がやりたい事じゃないです」
「そう? うちもお願いしたら売り上げ伸びるかと思ったんだけど?」
「いや、ここは要らないです。やらなくていいです」
青年はまた苦笑いした。
午後の暑さは日増しに強くなっていた。店主はまたぼんやり窓を眺めた。妻は娘と一緒に隅の席に行ってしまった。夏休みが始まって、娘たちを店で見なければならないと、どうしても仕事が捗らない。
とはいえ、この時間は暑さで通りを歩く人も減ってくる。来客もないのだが、暇な時間ほどやる気が起きないというのは、なんとも不思議なことだ。
青年はまた本を読み始めた。静かな音楽が流れている。穏やかな時間。
青年はふと顔を上げた。グラスの中の氷はとうに溶けていて、ストローで吸うと、ほんのりレモンの香りがするだけの甘くない水が口の中に入ってきた。後ろの席にいた女子大生は少し前にもう帰っていた。腕時計に目をやると、もう夕方の四時を過ぎていた。
窓に目をやった。夕方になって少し涼しくなっているようだった。店の前には店主の妻と娘たちの姿が見えた。
「どうしたんだろ?」
何かに気付いて店主が玄関のほうへ向かった。店の前の街路樹のところに数人の男女が立ち止まっている。ドアを開けると、店主に気付いて妻がこちらにやってきた。鳥の雛がそこにいるのよ、そんな会話が聞こえてきて、青年も店先まで出てきた。
「どうも巣から落ちてしまったようだね」
店主が少し心配そうに言った。通りを歩いていた人たちが、それに気付いて立ち止まっていたのだ。
「どうしたらいいかしら」
妻は娘たちと一緒に不安そうに遠巻きながら見守っている。雛は懸命に鳴いているが、飛べるほどには成長していないようだった。
「無闇に助けると、人間の匂いが付いて親鳥が餌をあげなくなるかもしれませんよ」
見守っていた通行人の一人がそう言った。
「ありがとうございます。とりあえず、あとは私たちが見てますから」
妻はそう言って、通行人たちを帰した。
店主は樹上を見上げた。生い茂ったイチョウの葉、鳥の巣がこの木にあるのは確かだが、その在処は全く見つけられない。
「あれ、ひょっとして親鳥じゃないかしら?」
妻が頭上を指さした。木の上や電線を飛び回る二羽の鳥。巣から落ちてしまった我が子を案じるように、もしくは勇気づけるかのように鳴いている。
「メジロだね」
店主が目を細めながら言った。雛の体は優しげな緑色、目の周りには白い輪が見られる。
「あ、少し飛んだ」
妻が言った。雛は苦しそうに店の隣の家の壁に張り付くように止まった。
「もしかしたら、もう巣立つことができるのかもしれないね」
「でもまだ早かったのかも。全然上手く飛べてないもの」
妻が店主に答えた。二人の娘は母親の後ろで心配そうに様子を見ている。そのうちに雛はまた地面に降りてしまった。歩道の中央あたりで、力なく佇み、たまに羽をばたつかせるものの、そこからあまり動けずにいた。
その時だ。二人組の男性が店の前を通った。店主は思わず「あっ」と叫んだ。妻も同じように叫びかけた。だが遅かった。男性のつま先がすっと雛に触れたように見えた。踏んだ、という感じすら見受けられなかった。それなのにこんなにも簡単に、一瞬で、小さな雛は動かなくなってしまった。少し進んでから、異変に気付いて男性が振り返った。
「え、あれ?」
何かが足に当たった感覚があったのだろう。咄嗟に妻が「いえ、何でもないです」と答えた。
「でも…」振り返った男性の連れが少し不安そうな顔をした。「なんか娘さんが…」
母親の後ろにいた娘たちの、姉の方の目が潤んでいた。彼女はその瞬間を、はっきりと目にしてしまった。男性たちは足元の地面に横たわる小さな物を見て、すぐに事態を把握した。
「ああ…ごめんなさい」
「いえ、巣から落ちてしまったみたいで…でも、これも自然の摂理ですから…」
気付かれずにやり過ごそうとした妻だったが、そう答えるのが精一杯だった。男性たちは本当に申し訳なさそうな表情をしていた。それも心苦しかった。
「あとは私たちがやりますので…」
そのあと、店主は二人の娘と一緒に、雛の亡骸を近くの公園の木の根元へ埋めた。何とも言えない喪失感が、その場にいた誰の胸のうちにもあったはずだ。
あの時なぜ男性たちに声を掛けられなかったのか。そうしていれば雛は死なずに済んだかもしれない。
店に戻ると、カウンターの青年が携帯を見つめていた。
「今調べてたんですけど…鳥は嗅覚がほとんどないそうです。だから人間の匂いは区別できないみたいです」
店店主も妻も、何も答えることができなかった。
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