30人が本棚に入れています
本棚に追加
*
それでも非情なバスが来て、バスで二十分走ると、朱里の家の近くのバス停に着いた。宙も当然のように一緒に降り、そしてマンションを見上げた。
「明日、夕方ぐらいに会えるんやけど」
宙は少し遠慮気味に言った。いつもなら、図書館に迎えに行くわ、とか何時頃やったらどこにおる?とか言うのに。
「図書館で宿題しよう」
朱里が言うと、宙は嬉しそうにうなずいた。
「お昼ごはんはプールの近くで食べる?」
「うん、いつもどおり」
「じゃぁおかず作って持っていくね」
「食費、払わんとやな」
「勉強代だからいいよ。もともとは私の水泳教室代だし」
「ああ、ほんまや。また練習しようや」
「晴斗君が来る時に一緒に」
「ええよ。都合聞いとくわ」
朱里はうなずき、小さな沈黙が流れた。
セミが遠くで鳴いている。向こうの運河で子どもたちが遊んでいる歓声も聞こえた。マンションのどこかで、赤ちゃんが泣いているのも聞こえる。
太陽は二人の影を濃く地面に映し出していた。かすかに風が吹いて、うなじの汗を冷やし、そして宙が一歩近づく。
朱里は後ろに下がりそうになって、辛うじて留まった。意識を失いそうだった。
「嫌?」
宙がすぐ近くで聞き、朱里は身を引きながらもスーツケースのハンドルを強く握り、そしてギュッと目を閉じた。
唇に触れた感覚はあった。でも本当に一瞬で、それよりも肩に置かれた宙の手の方が気になったぐらいだった。
「じゃぁまた明日」
宙が唐突に言い、くるりと背を向けたのが目を閉じていてもわかった。
朱里は目を開き、息を吸い込んだ。呼吸困難で倒れるかと思った。
少し先の坂のところで、ずんずん歩いていた宙が転び、朱里は思わず「あ」と駆け寄ろうとした。宙が逃げるように走っていき、朱里は背中を見送った。
*
その夜は恋人との旅行から戻った母も上機嫌で、朱里は幸せだった。
母とはまだ揉めるだろうし、きっとお互いに傷つけあうこともあると思う。でも朱里は少しずつ自信を持ち始めていた。母には母の人生を、私は私の人生を生きよう。
夜遅く、宙は『緊張した。ごめん。おやすみ』と送ってきて、朱里は『私も。おやすみ』と書いた。最後に勇気を出してハートマークをつける。
しばらくして、宙から返信があった。
『あかん。寝れん』
私も。
朱里は幸せで、のたうち回りたい気持ちをギュッと我慢しながら、宙が一人でのたうち回っているのを想像して笑った。
end.
最初のコメントを投稿しよう!