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父が仕事帰りに合流したのは、夜の七時を過ぎたときだった。既に腹ペコの宙は閉会式後にマクドナルドでセットを詰め込んでおり、それから朱里を連れてスカイツリーが背景に見えるところを探し、二人で撮影した。これが初の二人での写真になった。朱里がこっちを待受にしたらどうかとふんわり提案してみたが、宙は首を横に振った。
「これは俺が映っとるけど、あっちは朱里しかおらんけ、ええんや」
朱里は小さく息をついて諦めた。
「でも嫌やったら変える。さっきのソフトクリーム食っとるのでもええ」
マクドナルドで宙が腹ごしらえをしている間、朱里はソフトクリームを食べたのだった。だって晩ごはん前だもん、と言うと、宙は「昼飯食ってへんからチャラや」と笑った。そのときに期間限定のマンゴーソフトクリームを食べていると、宙がかわいいと言い出して撮影したのだった。
「まぁ、最悪、スカイツリーでも」
宙が妥協するように言い、朱里はうんうんとうなずいた。
「こっちの方がええのになぁ…部屋やで。プライベート感、ハンパなくね?」
宙はまだぐちぐち言っていた。
「ええけど。あ、そういや写真、ほしい? 今日の。コーチがバシバシ撮っとると思う。関係者顔して」
朱里は息ができなくなった魚みたいに口をパクパクした。もらえるの?
「ほしい…です」
「ああ、頼んどくわ。そやからこれ、許してくれん?」
「えー…」
朱里は悩んだ。ここまで頼まれると折れたくなってくる。
「誰にも見せんから。俺だけ楽しむ」
何だか卑猥な言い方に、朱里はちょっと首を傾げた。宙はすぐ気づいて真顔で否定した。
「ちゃうで、そういうのとちゃうで。凹んだときとかにな…」
「うん。じゃあ…いいよ」
「やた」
宙は笑顔でスマホをポケットに戻した。
「もんじゃ、俺、食い方わからんけ、教えてな。あるやろ、流儀が」
流儀。朱里は困惑した。
新しいおしゃれなもんじゃ焼き屋は朱里が検索して探したところだった。東京っぽくて、もんじゃが食べられて、ジャージで入っても怒られなくて、それでもって朱里が入れる汚くないとこ。そんな宙の難問に応えた。
店に着いて、好きな具を選んで焼きながら食べ方を教えると、宙は「意外と難しなかった」と喜んだ。彼がもんじゃをどういう位置に置いていたのかわからないが、どうやらルールがたくさんあると思いこんでいたらしかった。
「ほら、お好み焼きはうるさい奴多いけ、もんじゃも一緒やろと思っとった。地元で食いに行ったら、お好み焼き奉行みたいなん、いっぱいおるけ、面倒なんよ。直斗もそこそこうるさいで。あいつは理屈で何やら言いよる」
嫌そうに宙が言い、朱里は笑った。
そして父が来た。
「こんな店があったとは」
父は驚きながらやってきて、緊張して立ち上がった宙にニコリと笑った。
「優勝おめでとう」
父が言い、宙はめちゃくちゃ照れた。なんで知っとるん、と。朱里は教えたらダメだったのかと思った。が、宙はペコペコして嬉しそうで、恥ずかしいだけなんだとわかった。
そこから宙は慣れない関東の言葉を使おうと努力していた。それがおかしくて朱里はずっと笑いをこらえていた。そんな努力も虚しく出てしまう方言がとても面白かった。
水泳のことはもちろん、高校のこともたくさん話した。朱里が知らない機会科のことがたくさん出てきて、父娘で聞いてしまった。宙は小塚のことも、朱里のバイト先のことも、何でも面白く話せる天才だった。
どうぶつパンの犬とか猫はいいけど、たまにカバがあって、犬や猫は顔やのに、カバだけ全身で、おかしいでしょ。おかしいと思ってんのかな、あの店長。店員としてどう?と聞かれて、朱里は笑うしかなかった。やっぱり地元の人も疑問だったんだ。私も疑問だったけど。でもカバが一番、チョコクリーム詰まってんねん、と言う顔は、保育園児みたいだった。
お腹が痛くなるぐらい笑って、父も楽しそうだった。育ちが悪いとか言わなかった。
中学生のときの朱里は元気がなかったけど、そっちに行ってこんなに笑う子に戻ってくれて嬉しいと父は言った。朱里はちょっと複雑な気持ちになった。離婚をした意味、とかまた思ってるのかな。
「地元の友だちがおんなじマンションに引っ越してて、他の引っ越しのトラック見てたら、あの…朱里さんが、見えて」
と宙が言って、朱里を見た。
「ごめんな。ストーカーみたいやな。田舎で引っ越しトラックは、祭りみたいなもんで…引っ越してきた日から知ってんねん、俺」
朱里は目を丸くした。
「引っ越してきた子は目立つし、人気やし、みんな狙っとるんです」
そんなわけない。朱里は首を振った。
「最初は面白くなさそうな顔してるなって感じやったんですけど、気になって見てたら、笑わさなあかんような気がしてきて…笑ったらもっとかわいいんちゃうかって」
宙はそう言ってガリガリと頭を掻いた。
「実際、めっちゃかわいいやんて思って」
ぶふっと父が笑う。
「良かったな、朱里」
朱里は恥ずかしくて顔を覆った。ちょっとやめて。
「そんで、俺…」
宙が申し訳なさそうに朱里と父を見た。
朱里も父も一緒に彼を見つめる。「何?」
勇気が必要そうなことを言い出そうとする顔をしているので、朱里はちょっと焦った。一体他にどんな爆弾発言しようとしてるんだろう?
「申し訳ないんですけど、俺、九時までにホテル帰らないといけなくて。コーチにそういう約束で出してもらったんで」
「ああ。そうか」
父も朱里も脱力した。爆弾じゃなかった。
「あの、俺、一人で帰れるんで。お二人はそのままで。楽しんでください」
宙はそう言って財布を出した。
「いいよ、優勝祝いだと思って」
父が宙の財布を押しのけた。そりゃそうだろう。宙に出してもらうわけにはいかない。さっきのマンゴーソフトもおごってもらったのに。
「ありがとうございます」
宙は素直に頭を下げた。そして朱里を見る。
「一個だけお願いが」
「何?」
と聞くと、宙は店の出口を指差した。
「あそこまで送ってくれん?」
「行っておいで、朱里。遠藤君、楽しかった。朱里とも仲良くしてやって」
父が言い、宙が恐縮した。朱里は流れに流され、店の出口まで見送る。
宙は店の外まで朱里を出し、それからリュックから何かを出した。
「タイミングなくて。これ、渡したかって」
宙は朱里の手に、細長い紙の包みを置いた。
朱里は「え」と戸惑いつつ、中身をそっと出す。透明のケースに入ったペンが姿を見せる。
「なんかな、東京にしかないから姉ちゃんが買ってこいってうるさいものがあって、その店に行ったら、イメージでインクを作るいうのがあって、んで、朱里の色を作ってもらった。普通のボールペンみたいに使えるらしい」
朱里はそのペンのインクを見た。柔らかく少しピンクがかったオレンジ色が見える。アプリコットと桃が混じったみたいな色。
「ありがとう」
朱里はちょっと感動して宙を見た。
「私、何も用意してない」
「ええよ、これは『応援頑張ってくれた賞』やけ。東京土産みたいにならんように、今日、渡したかっただけで」
宙は照れながら言い、それからスマホを見た。
「あ、もう行かんと。もうちょっと東京おるんやんな?」
「うん、週明けに帰る」
「俺は先に戻っとるけど、帰ったら宿題やんの手伝ってや。俺、絶対一人でできん自信あるけ」
そう言われて朱里はうなずいた。
「連絡する」
宙が手を振り、朱里も応えた。
彼が見えなくなってから、朱里はぎゅうっとペンを抱きしめた。翠さんの入れ知恵だったとしても、たぶんそうなんだろうけど、ものすごく嬉しかった。きっと色は宙が一生懸命考えてくれた言葉で選ばれたんだろうし、そしてできたこの色を、彼も納得して自分の色だと思ってくれたのが嬉しかった。
落ち着いた、でも明るく爽やかなその色は、朱里が思っていた自己イメージを塗り替えてくれるような気がした。
涼子に嬉しさのあまり報告したら、彼女は「私もほしい!」と送ってきた。お店を聞こうかと言ったら、「違う!彼氏がほしい!」と返ってきて、朱里は嬉し恥ずかしで笑うしかなかった。
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