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東京から戻る日は、新幹線の番号や到着時間を宙に事細かに聞かれたから、もしかしたらとは思っていた。それでも最寄りの駅の改札を出たとき、ビーチサンダルに半パン、Tシャツというラフな姿の宙を見つけたときは、とても心が弾んだ。アイスキャンデーの棒も咥えていたから、暇な中学生みたいだった。
「荷物、こんだけ?」
宙は朱里の中型スーツケースを転がしながら聞いた。どうやら荷物持ちも兼ねて来てくれたらしい。
「うん。他は送ったのもあるから」
「送るんか」
宙は驚いたように言った。
「やっぱ都会の人間は考えることが違うな」
変に感心されながら、朱里は宙と一緒にバス停へ行った。
夏休み、平日の昼間の駅前ロータリーには、あまり人はいなかった。
「小塚の方が涼しい気がする」
朱里が言うと、宙は隣で笑った。
「朱里はいっつも涼しそうや。バス、あと二十分は来んで。田舎は辛いな。待合行こや。クーラー効いてるで」
宙がロータリーの脇にある待合室兼バス案内所を指差し、朱里もうなずいた。
確かに待合室は涼しくて気持ちよかった。ベンチもあって、自動販売機もある。宙は喉が乾いてないかと、朱里にアイスミルクティを奢ってくれた。自分は炭酸のエナジードリンクみたいなものを飲む。
「なぁ、聞いてくれる?」
隣に座った宙が言い、朱里は微笑んだ。またコーチの愚痴だろうか。
「何? 何でも聞く」
朱里が言うと、宙は息をついてから朱里を見てニヤッと笑った。
「俺、大学の実験台に合格したで」
「おめでとう!」
朱里は宙がそれを希望していたことを知っているので喜んだ。宙も嬉しそうにうなずく。
「やけど、来週から合宿で、参加条件が宿題終わっとることやって。普通に練習もあるし、合間は全部宿題せんと間に合わん」
「付き合うよ。私は暇だし」
「ありがとう」
宙はへらっと笑う。
「俺次第とは言われとるんやけど、この調子キープできたら、来年、世界行けるかもしれん。世界ジュニアってのがあって」
朱里は宙の少し俯いた横顔を見た。それでニヤニヤが、と納得する。
「この前の優勝がまぐれって言われんように頑張るわ」
「まぐれなんかじゃないと思う。宙は一番きれいだったし」
「マジで」
宙はもっと嬉しそうにした。ふにゃけて溶けてしまいそうだ。
「あんときは、久々にハイが来たんよ。スイマーズ・ハイ。あれは年に一回あるかないかで、後ろから波が追いかけてくるみたいな感じで泳げるときがあるねん」
「そうなんだ。すごいね。それは突き詰めたから見える世界なんだろうな」
朱里は羨ましい気持ちで想像した。
「科学の助けを借りて、それを大事な大会に合わせて調整していけるようにするんやって。ほんまはキロ単位の長距離の方が出やすいみたいやけど、俺は400か800でもふわってなるときあるから、体質的に中距離が強いんかなって話にはなっとる。あ、今度、遺伝子検査もする」
「遺伝子…すごい。才能とかわかるやつ?」
「らしい。これで競泳より書道ですって出たらどうしよ」
宙が変なことを心配するので朱里は笑った。
「それはないよ。出るとしたら、どっちも才能ありますよって出るよ」
「まぁ俺の字は知っとるやろから、出んのわかっとるやろけどさ。いや、マジで、今から長距離とか言われたら戸惑うわ。何キロも泳げん」
練習で毎日何キロも泳いでいる人が言うと、変な感じがする。
「世界、行けるんやったら行きたいねん」
ポツリと宙が言い、朱里はうなずいた。わかってる。知ってる。
「応援してる」
「でな、お願いが」
宙が言い、朱里は背筋を正した。なんだろう。最近、お願いが多い。
「はい」
「いや、こんなこと頼んでええのか…」
「聞くだけ聞く。それで考える。だから言ってみて」
朱里が言うと、宙は彼女をそっと見た。
「なんか…性格変わったよな。強くなった? 明るなったんか」
「え…、嫌?」
朱里が意気消沈して聞くと、宙はぶんぶんと首を振った。
「笑ったらええと思っとったから、今の方がええよ」
そう言って彼が照れるので、朱里はもっと照れてしまった。
「…それで、お願いって?」
朱里は話題を変えたくて言った。
「ああ、大学の実験台で食べるものも指導されてるねん。ダイエットみたいに、食ったもんを写真撮って送れとかって。炭水化物多すぎとか」
「お弁当?」
「いや、まぁ、それは理想やけど、料理教えてくれんかなと思って。一応、親にもいろいろ注文してみたけど、自分でもやらんとやし」
「そんな時間、ないよね?」
「この前、ささみは買って焼いて食った。あんま美味くなかった」
この努力する姿勢がすごいと朱里は思う。
「じゃぁ…私も聞いてくれる?」
「ええよ。どした?」
ちょっと前のめりに、心配気味に宙は聞く。
「この前、宙は優勝して一番になったでしょう。すごいなって思って、私、応援はしてるけど、それしかでてきないなぁって思って…」
「充分やで」
「ありがとう。でも、宙は日本で一番で、私は全然だなぁって思って…」
「いや、日本一かわいいしな」
朱里は恥ずかしくて首を振った。「聞いて」
「聞く」
宙は口を閉じた。彼の口を閉じるのは、とても難しい。
「お弁当のこと、私も考えたの。もっと一緒に…ごめんね、私の目標みたいなのがないから、宙の目標に乗っかりたいなって思ったの。でね」
宙は口を開きかけて、我慢してうなずく。
「スポーツ選手の栄養とかを、勉強したいなって思って。資格もあるみたいだし、宙と会えなくても、つながる勉強をしてたら寂しくないかな…っていうのもあって、ちょっとチャレンジ…」
「感動して泣きそうなんやけど」
宙が言い、朱里は笑った。
「チャレンジしようかなと思って、本も買っちゃった」
朱里はニコリと笑い、宙に抱きしめられた。
思わずキャァと小さく言ってしまい、宙がぱっと離れた。
「ごめん、我慢できんかった」
「びっくり…しただけ」
朱里は目を伏せた。ドキドキ心臓が鳴っている。
宙は隣で深く息をついた。
「手は、ええ?」
宙が言い、朱里はうなずいた。宙が朱里の手をそっと握る。そして意外に強い力で握り、思い出したように緩めた。彼の耳が赤くて、朱里も緊張した。
心臓が手にあるみたいにトクトクする。バレてるかもしれない。あったかくて柔らかい。水かきがあるんじゃないかと思っていたけど、ないみたい。
朱里はじんわりと指先の感覚を確かめた。触れてもいいかな。少しだけ。握り返す。すると宙がまた軽く力を入れた。朱里はこころの中でアワアワする。溺れそう。
「バス、来んかったらええのにな」
宙が言って、朱里はギュッと目を閉じてうなずいた。
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