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小塚の町の中央には、かつて木材を運ぶために作られた幅十メートルぐらいの運河があって、そこにはいくつかの橋がかかっている。朱里の通学にも一度運河を渡る必要があり、いくつかあるうちのどの橋を渡っても良かった。朝、来るときは母と車で通ったことのある道を通ったが、帰りはとにかく学校が見えなくなることを優先したため、違う橋に来ていた。どちらにせよ、運河沿いに南下していけば、大通りに出て、そこから住宅前の交差点さえ間違わなければ家に着く。
家にも帰りたくない。
母がこんな町に暮らそうと決めたのは、古い知り合いが仕事を紹介してくれたからだという。朱里の父との離婚が成立する前から、その知人とは遭っていたようで、どうやら再婚を考えているらしい。そのための布石の引っ越しだ。向こうは朱里をよく知っているようだが、朱里はその相手をよく知らない。一度、ご飯を食べたが、何を話したかは覚えていない。ガタイのいいお金持ちだった。母の好みではあるが、信用はできない。
朱里はため息をついた。平和でのどかそうな景色が見える。海の方向へ近づくにつれ、高いビルが増える町。朱里は苛立って反対側に目を向けた。これまた変化の少ない田畑にポツポツと家があり、錆びた看板や軽トラが止まっているのが見えて苛立つ。嫌い。
朱里は胸に差していた万年筆を握った。ピンクとゴールドの上品な万年筆。もらったとき、大人になれそうな気がしてとても嬉しかったことを思い出す。だけど私はまだ子どもなんだと泣きそうになるが、もう涙は出ない。
嫌い、嫌い、嫌い。何もかも。
新しい環境に行けば、新しい何かが起こるなんて信じない。
だって、みんな誰かと知り合いみたいだった。一人でいる子なんていなかった。しかも意味のわからない言葉をたくさん喋ってた。声が大きくて怖かった。私の名前を呼んで、それでクスクス笑ってた。きっと髪型が変だったんだ。母がとにかく最初が肝心だと熱心にセットしてくれたから。ただのおかっぱで良かったのに、内巻きにきれいにしすぎたんだ。それか、耳の横で止めたバレッタが似合ってなかったんだ。もしくは、セーラー服のリボンの形が変だったんだ。こんなの着たことないからわかんないのに。あと、みんなとはソックスの長さも違ってた。私だけ短かったから。
無理。もう無理。
朱里は自転車にまたがったまま、柵から首を伸ばして運河を見た。ここに沈んじゃえば死ねるかな。苦しいかな。
朱里はため息をついた。そんな勇気はない。
寝ている間に消えちゃうとか。そういうのがいい。
「何か落としたん?」
後ろから不意に声をかけられ、朱里は飛び上がった。弾みで手に持っていた万年筆が飛び出す。
「あ」
手を伸ばす間もなく、ペンはキラリと光って水にトプンと落ちた。ほとんど水しぶきも上がらなかった。
「やべ」
ガシャンと音がして自転車が停められ、朱里の横に人影が並ぶ。朱里は相手を見た。
「何、落ちたん? 大事なもん?」
短い茶色っぽい髪の男子が運河を覗いて、朱里を見る。朱里は震えて答えられなかった。制服は同じ高校のものに違いなかった。詰め襟についた学年章はローマ数字の1で、朱里は呼吸困難になりつつあった。
「大事な…もん?」彼は朱里の反応を勝手に判断して、運河を再び覗き込んだ。「俺、取ってくるわ。何? 何、落ちたん?」
「いいいいい、いいから!」
朱里は何とかそれだけ言って、自転車を漕いだ。
怖くて怖くてしょうがなかった。
家に帰って自室の布団を被って震えた。
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