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翌日は学校を休んだ。頭が痛いと言ったら、母は少し眉を寄せたが「そう」と言って自分で学校に連絡しなさいと言った。朱里はそれで渋々学校へ連絡した。少し体調が悪くて…明日は行けると思いますと心にもないことを言ってしまった。
自分で自分の首を絞めてしまった。
明日行かなかったら、母も学校も理由を確かめるだろう。本当に頭が痛くなってきた。
昼が過ぎ、夕方になって、夜が近づいてくると、なおさら頭痛は強くなった。母は残業するから適当に食べて寝てなさいと言った。つまり、デートだと朱里は思った。
私は自分以外の誰もがうまくできることができない。朱里は惨めで悲しくてたまらなかった。
明日は学校に行かなくちゃいけない。じゃないと母が怒る。
朱里は時計を恨めしげに見た。午後八時。きっと母は十一時ぐらいにしか戻らない。高いレストランでおいしい食事をして、たくさん笑って、お酒を飲んでいい気分で帰ってくる。
朱里はベランダへの窓を見た。外は暗いが、隣の棟の灯りが見える。残念ながら朱里の家は三階だった。これぐらいじゃ痛いだけだろうなと思う。もっと高いところに行かなくちゃ。何階ぐらいだったら死ねちゃうんだろう。
朱里はぼんやりと思った。
ピロリロリ、と玄関のインターフォンが鳴り、朱里は心臓が飛び出しそうになった。セールス以外に人が訪ねてくるわけがなかったから、覗き窓からこっそり外を伺う。そして息を飲んだ。
どうして?
昨日橋の上で会った男子がいた。朱里は気配を殺し、じっと暗闇で待つ。何しに来たの? 早く帰って。
もう一度ベルが鳴る。ピロリロリ。あれ、おらんのかな。つぶやく声がする。
朱里はじっと待った。
もう一度ベルが鳴ったが、それからしばらくして、ガサッとドアポストに紙が差し込まれた。そして立ち去る靴音がする。
朱里は靴音が聞こえなくなって充分に時間が過ぎてから、ポストの紙を取った。そして自室に戻って机のスタンドライトをつけて広げる。どうやら今さっき玄関先で書いたようなシャープペンシルの文字が並ぶ、ルーズリーフが四つに折り畳まれていた。
『森野さん 遠藤です。昨日はすみませんでした。何かべんしょうするものがあれば言ってください』
形の乱れた文字が並んでいて、朱里はそれを何度も読み返した。『弁償』は書けなかったようだ。
朱里はその紙を元の形に折りたたんでゴミ箱に捨てた。近くに置いておくのが怖かったのだ。
橋で落としたのは離婚してしまった父が高校進学祝いにくれた万年筆だった。名前も入れてもらい、何かあったらいつでもお父さんに連絡しなさいと穏やかな父が言った。新しい町はストレスフルで、朱里にとって、あの万年筆はお守りだった。あれがなくなったということは、自分の護符がなくなったように思え、朱里はなおさら学校へ行く勇気が出なくなっていた。
遠藤という男子は、一体どういう手段で朱里の家を調べたのだろう。今は個人情報保護がうるさくなって学校からは住所は公開されないはずだった。母子家庭の朱里の家では、マンションの下の郵便受けにも名前は書いていないし、部屋の入口にも表札はない。
朱里は家が突き止められたことが怖くなり、その後もじっと電気をつけずに息を潜めて眠った。
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