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「森野さん」 『遠藤』は膝に手をつき、荒い息を整えながら朱里を上目遣いに見た。そして手を出す。ちょっと待て、とでも言いたげに。朱里は屋上への扉にピタリと体をつけ、他に逃げる場所がないかと視線を動かした。 「何も、せん」と彼は言った。  そして曲げていた体を真っ直ぐ伸ばす。朱里を見て困ったように小さく眉を寄せた。まだ少し肩で息をしている。彼は何も言わずに横を向いた。そして柵に両手をつく。 「すっげ、こっから海、見えるんや。うわ、高校も見えるやん」  少々興奮気味の彼は他にも何が見えると連呼した後、朱里のことを思い出してハッと口を閉じた。九階の住民が出てきて鍵をかけ、踊り場の二人をチラリと見たが、気にせずにカツカツとサンダルの音を響かせながらエレベータホールの方へと歩いて行った。エレベータが遠くでピンと鳴り、住民を階下に運んでいった後、近くの部屋でテレビがつき、午後のニュース番組の音が聞こえてきた。 「ごめん」  彼は怯えている朱里に気づいて目を伏せた。それからそっと目を上げる。 「怪しいよな。えっと…体調、体調はどう? 風邪って誰かが言うとったけど、ほんまは俺のせいとかちゃう?」  朱里はコクンと唾を飲んだ。そして小さく首を振る。 「あ…そうなんや。げ、元気そうやもんな。あの…俺、マジで弁償するから、落としたもん教えてくれん? 高いもんやったら分割になるけど」  朱里はふるふると首を振った。弁償してもらおうなんて思ってもない。弁償できるわけもないし。新しくなったからといって、それでいいわけじゃない。 「はぁ…俺のせいやし。責任取らんと。弁償、さしてくれんかな」  これが彼の用だろうか。朱里は震えながら彼を見た。早く帰ってほしい。 「いい」  辛うじて朱里は声を発した。彼はそれを聞いて、朱里を見つめた。朱里は目を伏せたまま懸命に首を振った。「いいの」  彼は黙っていたが、しばらくして背負っていたスポーツタイプのリュックを下ろした。その中から財布らしきものを取り出す。 「小遣い使ってもて、手持ちがすげぇ少ないんやけど…二千円…あるねん。これ、置いといてええかな」 「え」朱里はコンクリートの上に彼が二千円を置くのを見た。その上に、飛ばないようにか百円玉と十円玉も数枚乗せられる。 「いらない」朱里はお願いだから持って帰ってというメッセージをこめて彼を見た。  そのメッセージを受け取ってか知らずか、彼はじっと朱里を見返した。そして拳を握る。  殴られるんじゃないか、と朱里は思った。受け取らないと返り討ちにされるのかも。そう思って体を硬くすると、彼はふっと力を抜いた。 「そやな、金もらったって迷惑やな。ごめん」 『遠藤』少年はコンクリートの上の金を拾い直した。そしてそっと朱里を見る。 「ごめん」彼はもう一度頭を下げた。学生服の下には学校指定のシャツではなくて、スポーツメーカーのシャツが見える。胸のところに小さくトレードマークが入っているからわかる。白地のシャツに紺のマーク。リュックは水色ベースで白いラインが入ったエナメル素材のもので、見たことのないマークが入っている。短い髪の下にある眉は比較的くっきりしていて、二重の目も、長い睫毛も朱里に劣等感を感じさせた。 「森野さん、ごめん、俺、今日は帰るわ。明日、また学校で」 『遠藤』少年は少し落ち込んだ声で言って踵を返した。  朱里にはどうして彼が落ち込んでいるのかわからなかったが、帰ってくれそうで安心した。明日、学校でという言葉には応えられる自信がなかったけど。
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