好奇心の罪

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 私は、生まれてこの方、笑ったことがない。  もちろん、口角をつり上げ、目を細めるあの表情なら私にも作ることができる。  ここで私が言いたいのは、心の底から何かが面白くて、あるいはこの上ない幸福にまみえることで、自然にこぼれる、作っていない「笑い」のことである。  そしてさらに、私にはもう一つ、人間としておかしなところがあった。     最初にそれを自覚したのはいつだったか、今となってはもうわからない。しかし、最初に認めたのは小学四年生だったとはっきり覚えている。  ——抑えられなかった。  私は、あの時学校で飼っていた兎を殺そうとした。  ……理由は、好奇心。  どうやったら兎は死ぬのか。そして兎は死にそうになるとどんな反応を見せるのか。  ただそれが、気になって気になって。  結局小四の力と知識では兎に勝てず、あの長い前歯と強靭な後ろ脚に私は大いに傷つけられた。  また、その味わったことの無い痛みが興味深くて、しばらくの間、ウサギ小屋で敵意を噛み締めていた。  当然、すぐに教師が来て、私を小屋から引っ張り出した。  ——ああ、いいところだったのに。  その時は、もう少しで血管が食い破られるところだった。  好奇心が高じて大きな傷を負ったのは、それが初めてだった。     そこでしっかり死んでおけたら良かったのに、おちおちと十八歳まで生きてしまったせいで、私はうっかり不老不死なんてものになってしまった。     いや、あれはほんとに急だった。     私は高校を卒業した。  高校三年間で、たくさんのことを知るのと同時に、自分が何も知らないのだと思い知った。  ……もっと、いろんなことを知りたい。  ここにある快楽ではなく、もっとずっとあそこにある苦痛を知りたかった。  世界の、宇宙の、あらゆる事象を見て知って回りたいと思った。  ——それは、ただの人間にはできないのだと、わかっていた。  私は、何に対しても幸福というものを見いだせなかった。  手持ち無沙汰という不幸に蝕まれていた。  そんなとき。  声がした。     ——あなたはまだ、どうして、笑わないのですか——     頭の中に響く言葉。  その声は、声と言うには少し実体が無さすぎた。私でない人が問うているが、まるで自問しているかのようだった。  その声に、私はただ、不幸だからだ、と返した。  すると、声は、  ——では、あなたの幸福はなんですか——  と、問う。  私の幸福は、もちろん、全てを知ることだ。  そして、会話が途切れた。  ……なんだったんだろう。と、本気で不思議に思った。     そこからだった。  私の人生は奇妙な形に歪められ、元に戻らなくなった。     最初に気づいたのは自殺を試みたとき。  ……死ねなかった。  嬉しいとも悲しいとも思わなかった。     でも、不老不死を完全に自覚してしまってからは、楽しかった。  どんなに傷つけても修復する体で遊んだり、怪しい薬や怪しい仕事に手を出してみたり。果てにはどうでもいい人と結婚して子供を作ってみたりもした。  正直、親戚付き合いとか子育てとか家事とかは面倒だった。だけどその分、面白くて、興味深かった。  でもまだ、足りなかった。     子供が、立派な大人になって、巣立っていった。  そろそろ、周りが異変に気づき始めた頃だろう。だって、私の見た目は今も十八歳から変わってない。  ——誰から殺そうか。  まず、そう思い至った。  どうせなら、殺し方も一人ずつ変えて、いろいろ試してみたい。  なんて、試行錯誤して。刺して、殴って、毒を盛って、炙って、人間は食べたらどんな味がするんだろうと、夫の肉を調理して食べてもみた。——ニンゲン臭くてまずかった。  刑務所の景色は退屈だった。  まだ殺していなかった両親と面会した。  高校を卒業してから会っていなかったから、私の姿が変わっていないのに心底驚いているようだった。  不老不死であることを打ち明けてみると、意外にも信じてくれた。そしてただただ泣いていた。  どうしてか、つられて泣いてしまった。 「ごめんね。人間じゃ、なくなっちゃった」  ——私のことは、どうか忘れて欲しい。  それを伝えられたから、私は自由になれた。リョウシンという枷が外れたのだ。泣いたのはそれで最後になった。  それから、本当に全部、どうでも良くなった。     何も考えずに、とりあえず看守を殺して脱獄した。絶対失敗すると思ったのに、あらゆる運が私に味方して、難なく突破してしまった。  その後、手作りのイカダで海外まで逃げ、個人情報を偽装し、旅を始めた。  思っていたよりつまらなかった。  気づいたら私は三百歳になろうとしていた。  ……そっか。日本でも外国でも、過去でも現在でも未来でも、人間は人間なのか。  だから、飽きるんだ。  地球が地球である以上、人間が人間である以上、その上に起こる事象というのは限られていて、ある程度まで知ってしまうと予想できるようになってしまう。  もう、そうなったら、不老不死になった意味もないや。  ——死にたい。  今や死こそが私にとっての未知そのものだった。  果てない私の好奇心を満たす可能性を持つ唯一のものだった。  でも、私は不老不死だから、それはできない。        ……不幸だ。  私は一体、どこで、どうして間違ったのだろうか。     そうやって、途方に暮れていると、またあの声がした。     ——あなたはまだ、どうして、笑わないのですか——    それは私が、不幸だからだ。  ——では、あなたの幸福とはなんですか——  多分、死ぬことだろう。  ——なぜ、死にたいのですか。私はあなたの希望を全て叶えたはずです。まだ、どうして不幸なのですか——  どうして、私の希望を全て叶えたの。そのせいで私は、感情という最も興味深い代物を失くしてしまった。だから、喜びも怒りも悲しみも恋心も、普通以下の幸福さえもわからない。わからないということは、私にとって苦痛でしかないの。  ——なるほど。人間とはそういう生き物なのですね。興味深い——  ……  ——また、創り直しましょう。だから、この世界はもういりません——  ……あなたはなんなの。  ——ヒトは共通して私を『神』と呼びました——  …………私は、死ねるの。  ——はい。さようなら——        こうやって、世界ごと私は消滅した。        好奇心とは、非常に危険なものである。  一歩間違えれば、このように世界が消滅することも無いとは言い切れない。  人の感情とは、それほど取り扱いに注意が必要なものなのだ。  私はそれを、もっと早い内に知っておくべきだった……。
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