人魚の恩返し

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 その昔、海面から海底へ向けてエッフェル塔を幾つも継ぎ足さないと届かないような深海に上半身が人間で下半身が魚の形をした人魚の国があった。そこは光る深海魚たちのお陰でとても明るくて目にも綾な煌々とした所でベロニカやムスカリやブルーデージーなど青い花のグラデーションのような海水が八面玲瓏に輝いていて人魚は宝石珊瑚やアコヤガイの貝殻や真珠で出来た家に住んでいた。だから艶々と光っていて、その窓から魚が自由に出入りできる程、人魚と魚は親密で仲が良く鮫のような天敵もなく人魚も魚も他の生物も平和に平等に暮らしていた。  但、人魚の国には掟があって人間を見て羨ましがると忽ちの内に泳げなくなって溺れ死ぬという言い伝えがあるから絶対、海面から顔を出さないようにと行動範囲が海の中に限定されていた。更に用心深いことに人魚たちは海面近くまで上がると、泳いでいる人間に出くわす恐れがあるので、おおよそ水深300メートルより上の方へ行かないように徹底していた。  ところが人魚の国の平和過ぎる生活に飽き飽きしている上に好奇心旺盛で外の世界が見たくてしょうがなくなった人魚がいて或る日の夜明け前にこっそり人魚の国を出て明けの明星に照らされた海をどんどん上へ泳いで行き、委細構わず海面から顔を出した。  すると水平線から顔を出し始めた太陽の朝日を背景に三本マストの大きな船が帆を一つだけ上げて遠くに浮かんでいるのが見えた。案の定、興味が湧いた人魚は、顔を出しながら泳いで船に近づいて行き、程々の距離を置いたところで泳ぎを止め、波のまにまに浮かびながら眺めていると、甲板の上を歩く水夫の姿が影絵のようにちらほらと見えた。  人魚は海の上を渡る乗り物即ち船を見るのも初めてなら船の上を歩く二本の足を持った動物即ち人間を見るのも初めてだったので一方ならず驚いて、あれが噂に聞く人間なんだわと夢中で人間に見入る内、自分にはない足で以て歩く人間が羨ましくなってしまった。その途端、言い伝え通り泳げなくなった人魚は、溺れて海の中に沈んで行った。  明け方、人魚は意識がない儘、浜辺に打ち上げられた。そこへ二人の男が頗る景気の悪い話をしながら向かって来た。この二人は不漁続きの貧しい漁師なのだ。しかし、死んだ魚のような目をまるで宝物を見つけたように俄かに輝かせて背が低い方のジョージが叫んだ。 「あ、あれ見ろ!裸の女だ!」  続いて背が高い方のエリックが叫んだ。 「打ち上げられたんだ!」  二人は興味津々になって近づいて行った。 「な、なんだこれは!」とジョージが鱗で錦に輝く下半身を見て叫ぶと、エリックは言った。 「に、人魚だよ。あの伝説の」 「そ、そうか、それでか・・・しかし美しいものだなあ・・・」  ジョージは男の本能そのままに魚の尻尾のような下半身よりも象牙のように白く滑らかな肌を持った上半身の露になっている豊かな乳房を注視して甞め廻すように見ていた。 「人魚なのに何で溺れたんだろう?」とジョージが問うと、エリックは言った。 「兎に角まだ生きてるかもしれないから人工呼吸しよう」 「よし、そりゃあいい!」いやにはしゃぐジョージであった。それから二人は代わる代わる実践した。ジョージは情欲的に、エリックは献身的に。で、エリックがしている時に人魚が目を開き始めた。 「おう!やったぞ!息を吹き返した!」 「おう!」とジョージは唸り、人魚のコバルトブルーに輝く青い瞳を見て息を呑み、その美貌にいやらしく微笑んだ。 「良かった。目が覚めたな」とエリックは言うと、「こ、ここは?」と人魚が訊くので、こう言った。 「あんた、溺れてこの浜辺に打ち上げられたんだな。ま、兎に角ここで弱ったまま寝ていては悪い奴に見つかるかもしれないから俺の家に行こう」 「は、はあ・・・」と人魚が戸惑っていると、エリックは安心させようと言った。 「言葉が足りなかったようだな、不安になるのは当然だが、あんた、ほっといたら死ぬところを俺たちが人工呼吸で息を吹き返らせたんだ。謂わばあんたにとって命の恩人だ。その俺が言うんだ。安心しろ。あんた、今の儘では泳げないだろうから少し俺んちで休んでったらどうだいって言ってるんだ。体が回復するまで俺が介抱するからさ。絶対悪いようにはしないよ」 「そ、そうですか、そうでしたか、何とお礼を言っていいやら」 「礼は良いから兎に角、俺の言った様にしなよ」 「ではお言葉に甘えて」 「うん、そうしな。それに越したことはない。よし、決まった」  エリックが気さくに独りで決めてしまうと、随分強引だなあとジョージは思ったものの俺んちは器量が悪くて妬み深い女房がいて邪魔だが、エリックは独り者で邪魔がなくて都合が良いからなと思い直してエリックが人魚を抱きかかえながら運ぶ後について行き、「おい、疲れたから交代だ」とエリックに言われ、自分が人魚を運ぶ番になると、体重が100ポンドは有りそうなのに狂喜して人魚を抱きかかえ、エリックの陋屋に向かっていそいそとスケベったらしい顔で運んで行くのだった。  而して相棒の力を借りて我が家に着いたエリックは、人魚をベッドに寝かせ毛布を掛けてやると、人魚に訊いた。 「喉乾いてないか?腹減ってないか?」 「あの、取り敢えずお水を」 「おう、分かった」とエリックは言うが早いか井戸の方へ向かった。その隙にジョージは人魚の乳房を見ようと人魚が目を瞑ったのを良いことに毛布をめくってみると、それに気づいた人魚は、目を開いてジョージのいやらしい目にも気づいたので生まれて初めて性的に恥ずかしい思いをして思わず乳房を手で隠した。  人魚は情欲的行為ではなくプラトニックラブで子を宿す極めて清純な生物で精神的なので感受性鋭くジョージの欲情をいかがわしいもの汚らわしいものと捉え見破ったのだった。  そうとは知る由もなかったが、流石に恥じ入ったジョージは、顔を気持ち赤くしながら仕方なく毛布を元に戻した。  それからエリックが戻って来て人魚に水を飲ませ、精を付けさせようと肉入りスープを食べさせたりして人魚を介抱して行くと、人魚は翌日になってほぼ体調が回復した。だからもういいだろうと思ってエリックは訊いた。 「何で人魚なのに溺れたんだ?」  すると人魚の説明を訊けて納得したエリックは、これからは人間を見ないようにしなよ、人間なんて碌でもないのが多くて羨ましがるもんじゃないからな、偶々俺が見つけたから良かったものの他の人間に見つかっていたら大変なことになっていただろうからなと言った。 「大変なこととは?」と人魚が訊いた時だった。入口の引き戸がガタガタと開いてジョージが借金取りのトーマスと共に現れた。 「エリック、ちょっとこっちへ来てくれ」とジョージが言うのでエリックは二人の方に行くと、トーマスがひそひそと言った。 「人魚を生け捕ったんだってなあ。見世物師に売りゃあ高く売れるぞ!お前ら二人分の滞納してる借金を払って余りある程にな」 「おいらもそう思ったからトーマスさんに人魚のことを話したんだけどさ」とジョージが言うと、エリックは俄に顔を顰めてジョージに呻くように言った。 「お前と言う奴は・・・」  それを受けてトーマスは言った。 「何言ってるんだ。とんでもなくいい金になるんだから売りゃあいいんだよ。俺は見世物師に話を付けられるよう取り持って来るからお前らは人魚が逃げないようにこのことは内緒にしておけよ。直、お向かいが来るんだからな」  そしてエリックの家を出て行った。 「俺はもうお前とは絶交だ!」とエリックは吐き出すように言った。 「な、何でだよ?エリックにとってもいい話じゃないか」 「お前はあの人魚が見せもんになっても良いって言うのか!」 「だってよお」 「だっても糞もない!俺は人魚を逃がしてやる!」  エリックはそう言うなり人魚の下に引き返し、人魚の国に金はあるかと訊いて金?と言ってきょとんとしたので金の観念がない人魚に大変なことになった事情を説明してもしょうがないからこう言った。 「兎に角お前はもう人間界にいては身のためにならない。どうだ、もう海に帰れるか?」 「はい、お陰様でもう大丈夫です」 「よし、じゃあ俺が運んでやる!」  エリックはそう言うなり人魚の体を毛布で包んで抱きかかえて制しようとするジョージを振り切って家を出た。  海まで300ヤードくらい距離があるが、一度こうと決めたら梃子でも動かないエリックにとって物の数ではなかった。  そんなエリックを元々骨なしで気の弱いジョージには止める術はなかった。  人魚は海辺まで運んでもらうと、エリックにこの御恩は一生忘れませんと篤く礼を言って必ず恩返しをいたします、ここで少々待っていてくださいと言い添えて海に入って行った。  こっそりついて来たジョージはエリックの背後で言った。 「何だろう。恩返しって?」  エリックはジョージを閑却して無言の儘、待つことにした。人魚の国を吞み込んでいる神秘の海を見つめながら・・・  彼是、30分程、経った頃、人魚が遠浅でひょいと顔を出した。そして手招きするのでエリックは海に入り波を掻き分け掻き分け人魚の前に来た。 「これは私の真珠の首飾りです。姉にあなたのことを話したら姉もこれを差し上げなさいと言って真珠の首飾りを持たせてくれました。どうぞ」  両手で差し出された二つの真珠の首飾りをエリックは有難く受け取った。 「ありがとう。これは本当に助かる」  思わぬ返礼にエリックは本音を吐露したのだった。それはいずれも恐ろしく光沢のある大きな真珠が数多に玉の緒で繋がれた、見るからに高価そうな装飾品だったのだ。で、人魚が帰った後、名残惜しくなったエリックは、人魚の姉の物は質に入れ、もう一つは手元に残そうと思うのだった。    
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