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それから数年後。
俺は大学を卒業して、地元の某生命保険会社に内定をもらって就職を果たした。
就活生だった当時、心が折れそうになるほど面接に落とされまくっていたが、最後まで諦めなくてよかったと思う。
俺に唯一、内定をくれたその会社は、サビ残は無いし、今どき定時が五時だし、給料もそう悪くないという優良企業だ。
好条件を抱えた会社なので、もちろん志願者は多い。
県内トップの偏差値を誇る、国立大の猛者たちまでもがやって来る。
三流私大のなかでも留年ぎりぎりの惨憺たる成績であった俺が、どうしてそんな競争率の激しい戦いを勝ち抜けられたのかというと、単にラッキー極まりなかったからである。
集団面接で面接官兼社長に「特技はありますか」と訊かれ、ピアノだとかそろばんだとか緊張の面持ちで皆が答える中、「君らの特技は一つだけなの? ほかに何が出来る?」という一石が投じられた。
皆が口ごもるなか、もう後がない俺は「野球のほかには、プロ野球選手の物真似ができます」と嬉々として答えた。
周りのやつらが、「何言ってんだ、この三流私大の体育会系バカは」とでも言いたげな冷めた視線を向けてきたのが手にとるようにわかる。
でも、奇特な社長は俺を見捨てず「じゃあ、君はもし我が社で採用されたら宴会でそれやってくれる?」とノってきた。
何かもうよくわかんなかったから「もちろんっす!」と元気よく答えたら、笑顔で頷かれた。
そして面接を終えて「我ながら好感触だったな」、と悦に入りながら帰った半日後には採用通知が届いた。
入社後に社長が筋金入りの巨人ファンだと知ってめちゃくちゃ納得がいったものだ。
そして入社してから三か月が経ち、徐々に仕事にも慣れてきた七月初旬の朝のこと。
蝉がかしましく鳴き声を響かせているなか、俺は公道を死ぬ気で走っていた。
車を車検に出していたことを、うっかり失念していたせいだ。
寝坊したうえに、車がないというダブルパンチをくらった俺は、8時10分に発車するバスに乗るべく、全速力で最寄りのバス停に向かっていたのである。
8時10分のバスに間に合わなかったら会社遅刻する、まじで‼︎ 朝礼間に合わねえ‼
そんな思いで、目の前の角を勢いよく曲がろうとしたら、同じ勢いを持った何かに思い切りぶつかった。
あまりの衝撃に思わずよろめいたが、何とか体勢を持ち直した。
「いっ、たあ〜……」
その、痛みに歪んだ声で、停止しかけた思考が再び起動し始める。
眼前では、女性がアスファルトの地面にくずおれていた。
彼女は、ワイン色のスカートに、白いシャツ、そしてその胸元には細いイエローのリボンが蝶々結びにされている、といった格好だ。
あ、この制服知ってる。
うちの県でダントツ頭良い進学校。
高校生だ。
しかし、やや遅れて、俺はハッとした。
尻餅をついているところを見ると、どうやらぶつかった拍子に彼女を転ばせてしまったようだったから。
「大丈夫すか⁉︎」
女子高生は、何故か俺に声を掛けられるなりびくりと肩を揺らし、こわごわと顔を上げた。
そして、俺はすぐに気づいた。
目の前の彼女は、昔、俺が助けたあの子だった。
ふと、転んだ拍子に落としたのだろう、アスファルトに落ちたスマホが視界に入る。
それには、俺が渡した鈴のキーホルダーと名前札が付けられていた。
諸々の驚きで固まった俺に、すっかりお姉さんになったあの子が「すみません、どこかぶつけました? 救急車呼びます⁉︎」と俺のことは全く覚えていない様子で、申し訳なさそうに大人みたいな言葉をかけてくれていた。
顔を覚えられていないことはどうでもよかった。
だって、存在さえ、忘れられていてもおかしくなかったのに。
この子は、俺があげたあんなものをいまだ大事に取っておいてくれていたのだ。
それだけで胸に、グッと抗いようのない感情が押し寄せた。
恋愛感情なんて、もっと高尚なものだと、俺には一生縁が無いものだと思っていたのに。
もらった弁当のハンバーグが美味かったことと、あの子が笑ってくれて安心した記憶が、どうしてだか明瞭によみがえってくる。
あの日、こんな自分でも誰かの役に立てたりするんだってことを知った。
就活生だった時期は面接に落とされるたびに、自信が削られて、精神が摩耗していって、一時はいっそ全てを諦めようかとも思った。
けど、そんなことを考えるたび、あの日助けたあの子の笑顔が思い出されて……。
今だからわかる。
あの子を助けていなかったら、あの笑顔を見ていなかったら、俺なんかでも誰かの役に立つってことをあの子に教わっていなければ、きっと俺は就活を途中で投げ出していた。
彼女は俺に救われたと思っていたかもしれないが、結果的に、俺のほうが救われていたと思う。
気がつけば、その白っぽくて頼りない手を取っていた。
俺と同じように全力疾走していたのか、少し熱を持っている。
この子を傷つけようとする全てのものから、守ってやりたいと思った。
恋に落ちるきっかけが、こんなにも単純で、陳腐な理由であっていいのかは、果たして分からない。
たが、かの一目惚れという現象によく似ているに違いない、強く惹かれる気持ちは抑えられなかった。
口を衝いて出たのは、思いのほかプラトニックな台詞。
「好きっす」
7月3日 金曜日。
8時11分。
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